ソルヴィから訊かれて幾何か。ノクティアは黙りしたままだった。
彼の事だ、きっと心配してくれると分かる。けれど、きっと失望させるだろう。気味悪がられる可能性もある。今も血も通っていて心臓は動き、女としての機能もしっかりとある。それでも……。
(どうなっても自業自得しか言いようもないよね)
──でも、拒絶が怖い。
ノクティアは下唇を噛む。そんな表情を見ていられなかったのだろう。ヴァルディはノクティアの膝元にしゃがんで下から顔を覗き込む。
『おいノクティア。言うのがそんなに辛いなら僕とスキルに実体を与えなよ。僕らも話すの手伝うよぉ?』
珍しく心配そうにヴァルディが言う。しかし──
『ヴァルディ、甘やかさないでください。これは女神様の与えた選択肢を受け入れて、復讐を望み現世に戻ったのはノクティア自身の責任です』
ピシャリとスキルが言う。少し間を開けて、ヴァルディは複雑な面で頷いた。
確かにスキル言う通りだった。復讐を望んで死に戻ったのは自分の選択に違いない。頷いたノクティアは怖々とソルヴィに向き合った。
ソルヴィは変わらず穏やかな顔をしていた。急かす事もなく、ただ悠然と待っている。
言わなくては。ノクティアは緊張で乾き切った唇をゆったりと開く。
「ソルヴィ、私ね。ソルヴィに助けられたあの日、魔女になった。信じてくれるか分からないけど……あの日、私は冥府にヘルヘイムに渡っているの」
震えた唇で、ノクティアはこれまでの全てを語った。
ソフィアやイングリッドにも伝えたが、やはり伝える重みが違う。途中から、彼に視線が向けられなくなった。受けた暴力、溺死した事、冥府での事。最近に初めて知った二羽との契約──それら、ひとつひとつを話すごとに胸の奥に岩でも詰められたような心地だった。
「言うのが怖かった……ずっと隠していてごめんなさい」
騙しているみたいになって、ごめんなさい。消え入りそうな声でノクティアが言った途端だった。彼にやんわりと腕を引かれた。
ふらりとよろけると、ベッドの縁に座した彼の膝に跨がる形で抱き止められる。
「ソル……ヴィ?」
彼の腕は震えていた。しかし、腕の力は壊れ物を触るように優しくて……。
「……ノッティが連れて来られた日、俺は侯爵家に来ていれば良かった。馴染むまで待つとかしないで行けば良かった」
低く平らな声は酷く震えていた。胸が跳ね不規則な呼吸が頭の上に落ちてくる。ノクティアは顔を上げようとするが、彼は片手でノクティアの頭を抱き寄せ、それを拒む。
「俺さえ行っていれば……暴力から守れたとはずっと思っていた。たとえ俺を信じられないとしても、いくらでも味方になれた筈だ。俺が守ってあげられた筈なんだ」
……魔女の力はもっと前から持っていたかと思った。そんな理由と思わなかった。二羽が普通のカラスではないのは知っていたが。
ソルヴィの言葉にノクティアの背後で二羽は複雑な面輪を浮かべていた。
『私たちもノクティア以外の人間と関わるなんて、思いませんでしたよ』
『旦那ぁ、あんたがノクティアを成長させたんだよ』
──あんたがいたから、僕たちは長生きしたんだよ。なんて、ヴァルディは笑い、二羽は雪煙を巻き上げて、その場から姿を眩ませた。
ノクティアはその言葉をソルヴィにそのまま伝えると、彼はほんの少しだけ笑う。
「あいつら本当に、良い奴らだよな」
その言葉にノクティアは頷いた。
「ただノッティはずっと背負ってここまで来たんだよな、ごめんな」
ノクティアは分厚い胸板に頬を擦り寄せる。
「ソルヴィは悪くないよ。私こそずっと黙っていて、言えなくてごめんなさい。私ね、あんたをこんなに大切に思うと思わなかったんだ」
誰も愛さないと誓っていた。惨めになる事が怖かった。捨てられるのが、置いて逝かれるのが、孤独になるのが怖かった。その気持ちを素直に告げると、彼は何も応えずに頷いて、抱き締める力をようやく強めてくれた。
「ソルヴィ、もう一つ言いたい事あるの。でもやっぱこれ顔を見て言いたいな」
ノクティアがそう言って、顔を上げようとする。ややあって、彼は頭を抱いていた手を離してくれた。
ゆったりと顔を上げる。そして目にあった彼の面にノクティアは思わず微笑んでしまった。
目を真っ赤にして、鼻の頭が少し赤い。琥珀の瞳は溺れるように潤っていて……大の男でも猛獣騎士でも泣くのかと少し驚いてしまったが、こうも想ってくれたのだと思うと、途方もない愛しさが込み上げる。ああ、この人はどこまでも優しい猛獣だ。
「ソルヴィ、こんな私の事、愛してくれてありがとう」
言葉にすると、視界が勝手に潤った。
「あんたが私の旦那さんで良かった」
素直に伝えると、彼も目を赤くしたまま優しく笑む。
しかし、彼に出逢ってから自分は本当に泣くようになったと思う。結婚式の日、悔しくて泣いた事もあったし、呪いを撒き散らした時には感情的になって怒り散らして泣いた事もあった、本当に様々な涙があったものだと懐かしく思う。
「ソルヴィのせいで私、泣き虫になっちゃった」
そんな風に言うと、彼は優しく笑み「俺の奥さんはやっぱ可愛いな」なんていつもの言葉を言う。照れくさいけれどそれがやはり幸せで堪らなかった。
「ノッティ……」
愛おしげに名を呼ばれると、やんわりと頤を摘ままれて、上を向かされる。
「俺は幸せだ。俺もノッティが妻で良かった」
──愛してる。その言葉は唇を擽り、やがて濡れた花びらを合わせるよう、しっとりとした柔らかな感触がした。甘くて優しい。その感触にノクティアはそっと瞼を伏せた。
※
ヘイズヴィーク侯爵家の丘陵を小綺麗な馬車が下っていく。それを窓辺で見つめるイングリッドは不機嫌そうに眺めていた。
……あの日、気を失い目が覚めた時は、見知らぬ天井で、街の診療所だった。
目を覚まして一番に見た相手は、黒髪碧眼の男の顔。自分を気絶させた張本人──聖騎士アーニルだった。
気絶させておきながら心配だからと連れてきたそうだ。しかし、暴れないようにとベッドに縛り付けられて身動きできない状態にされていた。
「暴れられても困る。拘束したのはすまない」
そして教えられたのは、ノクティアの無事と異端者ではないとの事。そして、あの聖職者が誤って侯爵を刺してしまったとの事だった。しかし、ノクティアの神聖な力に救われ侯爵は無事と知らされた。
「ああも騒ぎを起こして旦那様を刺すだの、どちらが異端だ。あいつは、おまえより上の立場か?」
反吐を吐き出すように言ってやると、アーニルは困却した顔でこめかみを揉む。
「そうだな。あの方……神聖な力を持つ〝特別な存在〟だ。しかし、聖潔保全局では年功序列で一番下。あの組織は少数で老人ばかり。若さ故に特別を勘違いしたのだろう」
……つまりは、粋がっていたという事か。イングリッドは目を細める。
「馬鹿だな」
「事実若い。若気の至りだろう。あの方は、神聖な力を持つ故に霊が見えるそうでな。気味悪がった父親が、幼い彼を王都の大聖堂に置き去りにしたらしい」
自分を特別と思い込んだ。だが家族から満たされぬ愛を求め、ああも癇癪を持ちの短気になったのだろう。聖騎士の間でそう囁かれている。と、アーニルは呆れながら言う。
「環境故だろうと。世界を知らずで視野が狭いのだろうな」
その言葉を聞いたイングリッドは目を大きく瞠る。
過去の記憶が脳裏に散る。似た言葉をこの男に言われた事があった。窃盗と暴行で捕縛され、看守に酷く殴られた十四歳のあの日、この男に確かそう言われた。
……世界をもっと見ろ。自分の能力を見据えろ。環境は変えられる。諦めず道を見つけろ。
そして、幾度か会う回数が増えて言われた。〝道は俺が切り拓いてやってもいい〟と。ヒリヒリとした胸の痛みを覚え、イングリッドは舌打ちをする。
「また会えて嬉しい。君の弟が、騎士団に居たのに驚いて、まさかソルヴィの所に居るとは。突然いなくなった事をずっと謝りたかった」
アーニルの真摯な瞳に一瞬胸が震えるものがあった。けれど、決して屈しない。イングリッドは唇を拉げて彼を睨み据える。
……全ての始まりは、自分を捕縛した因縁の相手。しかし、看守から過剰な暴行を受けて彼に助けられた。当時彼も若く少年の面影があった。
それからは会う都度に気に掛けられた。綺麗な赤髪だから目立つ。君は真っ直ぐだ。炎のように明るい空気が満ちていて温かな気分になる。そんな風に言って、彼は青い双眸を細めてイングリッドに微笑んだ。
飯を奢って貰うだとかの施しも受けた事もあった。
そして十六の冬のある日。ジグルドとノクティアに食いつなぐ金の無さに身売りをしようと、街角に立って捕縛された。
事情を話せば、春まで満足に凌げそうなほどの金をくれた。だが、借りは作りたくない。その旨を話して、安宿に行き──そこでアーニルから思いを告げられた。
その気持ちに答えやした。
好きだ、だけど、不釣りあいと自覚していた。なにせ、盗人と警邏の騎士だ。
けれど、いけない事だと分かっていながら、気付けば転がり落ちるよう求めあっていた。
「いつか胸を張って君を迎えに行く」
真摯な言葉は嘘と分かっていた。
騎士の時点で貴族の出だ。不釣りあいどころか、生きる世界が違う。その予想が的中するように、彼は突然イングリッドの視界から消えた。
あの言葉が嘘と分かっていた。だが、それでも悲しかった。
そして先日、遠く離れた地で再会してしまったのだ。
──随分と久しいね
お守りとして神話の中の乙女の名を彫っているから、彼は悪戯に、こう呼ぶのだ。ああ、本人だ。どうしてまた現れたのだ。
イングリッドは暗いため息を吐く。その矢先だった。
「そろそろ昼食の準備しましょう!」
背後から響くソフィアの声に我に返り、イングリッドは去りゆく馬車に舌を出す。それを見送ると、彼女は小走りでソフィアの元へ向かった。