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52 甘やかな明朝、燻る憎悪

 明朝、ノクティアが目を覚ました時。既に、外は明るくなっていた。もうすぐ、昼前に差し掛かるだろうか。

 しかし、よく寝た。寝たが気怠くて仕方ない。

 それでも起き上がろうとノクティアが身体を起こそうとするが、あまりの気怠さに起き上がる事ができなかった。それに何だか、下肢にじんわりとした暖かみのある痛みが続いている。


(……昨晩)


 ソルヴィと本当の夫婦になった。まだ夢見心地ではあるが、この気怠さと甘く続くような下腹部の違和感が何よりもの証なのだろう。それに、一糸纏わぬ裸のままだった。

 しかし、当の夫が隣にいない。ベッドは自分一人。隣は既に冷たくて何だか侘しく感じてしまう。


「ソルヴィ……」


 妙に不安になってしまった。この屋敷のどこかにいるのは分かっている。この時間だ、執務室で仕事をしているかもしれない。それでも……。

 ノクティアが脱がされたナイトドレスを見つけ出し、纏ったその時に叩扉もなく部屋の扉が開いた。

 姿を現したのはソルヴィで。彼は夜の残り香も無い普段通り。パンや果物などが沢山乗ったワゴンを引き摺っていた。漂う香りは香ばしく焼かれた肉の匂いまでも……。


「おお、ノッティ起きたか? 腹が減っただろ。飯を持ってきた。それか、先に身体を洗いに行くか?」


 至れり尽くせり……。しかし、離れていたのは寂しかった。彼がベッドの傍まで来ると、ノクティアは彼が纏う上衣の裾を掴む。


「起きたらいなかったから、ちょっと心細かったかも……」


 少しばかり唇を尖らせて言う。


「可愛いな俺の奥さんは」


 ソルヴィはいつもの言葉を破顔で言った。


「寝ている間に戻って来ようと思った。でもな、ノッティ。ずっとベッドにいたら、ノッティの事、丸一日は離さないで、ずっと繋がっていたくなると思うぞ?」

「ず、ずっと……?」

「あぁ。ずっと。あと五回は要求するかもしれない……」


 五回。その言葉にノクティアは真っ赤になって固まった。昨晩だって、なんだかんだ一回で終わらなかったのだ。あんなのを五回も、それこそ壊れてしまう。


「な、困るだろ? でもさ。少しノッティにお願いがあるんだが……」

「お願い?」


 何だろうか。首を傾げると彼は、ベッドの縁に腰掛けて、ノクティアの髪を梳くように撫でた。


「ノッティが良ければ、これからは俺と一緒の寝室で寝ないか?」


 そんな事か。ノクティアはすぐに頷いた。眠る時も目が覚めてもソルヴィがいる。そんな幸せな事は無いだろう。けれど……。


「こ、今夜は……しないで。私、今動けないの」


 おずおずとノクティアが言うと、彼はがっちりとした肩を揺らして笑う。


「ああ。分かった。でもこうも旨そうな小動物みたいな奥さんを目の前にして、猛獣の俺が我慢できるか……最後まではまぁしない」


 善処する。なんて笑み、彼はやんわりと触れるだけの甘い口付けを与えてくれた。

 愛してる。そう囁かれるその言葉も擽ったいがあまりに心地よい。

 自分がこんなに幸せで良いのだろうか。泣きそうなほど幸せだ。じんわりと潤った瞳で彼を見上げて──今度はノクティアから彼の唇を奪った。



 そうしてノクティアはソルヴィと朝食兼昼食を食べた。いつものようにソファに座すものの、なぜか彼に横抱きにされて膝の上に……。


「ソ、ソルヴィ、私動けないけど……ごはんくらい一人で食べれ……」


 そう言っている間にパンを千切って唇に当てられた。食えという事か。仕方ないので無言で食べる。そして、パンを飲み込むと今度はベリーのソースがいっぱいついたトナカイの肉が口元に運ばれる。そして今度は……。

 料理はどれも絶品だ。しかし、どうにも、普段食べる食事の味付けや種類が違う。全体的に野性的で盛り付けまでも雄々しい。なので誰が作ったかなんてノクティアでも見当が付くもので……。


「ソルヴィ作ってきてくれたの?」


 訊くと彼は頷き、次の料理を食わせてくれる。しかし二人で食べるには量が明らかに普段より多い。

 それも、自分にこれでもかと、いっぱい食べさせてくるもので……。


「ソルヴィ、こんなに食べたら私、胸焼けしちゃうってば」


 段々満腹になってきた。抗議すれば、彼は機嫌が良さそうに、笑いを溢す。


「ノッティもしかしたら、もう俺の子ができていてもおかしくないからな。ノッティは細すぎるから沢山食わせておきたいだけだ」


 確かにそうだろうが……。ノクティアはジトリと目を細めた。


「気が早すぎだよ、ソルヴィのばか」


 そう言ってそっぽ向くノクティアの耳は、真っ赤に染まっていた。けれど、その唇は綻んでいて。

 それを見ていたのだろう。小さな妻を抱える彼は心底幸せそうな眼差しで愛する妻を見つめ──唇に甘い口付けを落とした。


 ※


 調理場の使用人たちが揃いも揃って外に出ていた。何事か……と通りすがりのフィルラが訊けば、当主が自ら料理をしているとの事だった。

 ちらりと見ると、オーブンの前でソルヴィはトナカイのブロック肉に香草を練り込み、一生懸命に味付けをしていた。


 ビョンダル伯爵家の次男で猛獣騎士とも巷で囁かれるソルヴィ。鍛錬以外にも狩猟と料理が趣味なようで、時折調理場に来て料理をしているそう。それに、最近はあの離れの庭に竈を作り、湾で釣ってきた魚を焼いているだとか。

 しかし、ついこの前刺されたばかりだろうに。聖女とされたあの庶子が治癒したお陰もあるだろうが……もう具合が良いものなのか。


「何やら、今はノクティア様の方がぐったりしているようで、元気が出るような食べ物を作ってあげたいそうですよ」


 調理場を取り仕切る料理長は、微笑ましそうに言った。

 フィルラは口角を緩めるが、心の中で舌打ちをする。


 ……病床に伏せた夫が言っていた。この屋敷は変わりつつある。代が変わった事で、新しい風が吹き、明るい兆しが見える。あの離れの方から、時折楽しそうな笑い声が聞こえると。きっとそれまで自分は生きていないだろうが、これから赤ん坊の泣き声や笑い声が加わる日が来たら良い。なんて……反吐の出るような話をしていた。


 夫は恩人の息子、ソルヴィをたいそう気に入っていた。そして実子なだけあって、ノクティアを愛していた。実子を愛するのは当たり前。だが、何もかもがフィルラは気に食わなかった。

 妻のために調理に勤しむソルヴィを尻目に、フィルラはその場を去った。


 自室まで戻る道中、廊下は誰もおらず静謐に包まれていた。この時間は使用人たちも昼食を取るなど休憩している者が多いようで人気が無い。窓の向こうに見える初冬の空は思い灰色。まるで自分の心の内の色を映しているかのようにフィルラは思った。


(気に食わない……)


 フィルラはぽってりとした下唇を噛む。


 ノクティアが庭でカラスと戯れているだの不審な動きを見た。それにあの赤毛の侍女の怪我も癒やしたと伝え聞き──『これは使える』と、思った。

 そしてスキュルダを経由し、若い女使用人を買収して手紙を書かせて、教会省に魔女として告発した。


 しかし、まさか。追い出すためにした事が、聖女ともてはやされる結果と繋がるなんて。


 教会省の人間から入省の勧誘も来たほど。しかし、あの庶子は拒絶した。ソルヴィの傍に居たいと。結婚式の頃と打って代わり、まるで恋する女の顔で言った。

 勿論当初は、彼らがこの屋敷を継ぐ事は良かった。だが、こうもやきもきしてしまうのは、エリセの縁談が上手く行っていない事が全てだった。


 エリセは自分にとっての全て。既に破局した挙げ句、十年も昔の戦乱で音信不通になった愛人の子。とはいえ、自分が産んだ愛おしい子だ。せめて、貴族の女としての安泰な結婚をさせてあげたい。ただそれだけだったのに。


 こんな事であれば、初めからエリセにソルヴィとの婚姻を薦めれば良かったとフィルラは思うが、後悔してももう遅い。

 どうにかしてあの庶子を蹴落とさなくては、娘に貴族の娘としての幸せを与えてあげられない。

 フィルラは、自室に戻るとイライラとした様子でソファに腰掛けて眉間を揉む。


 ……この苛立ちの理由は他にもある。最近、夫の提示した遺産問題だった。


 イングルフは、実子のノクティアにも遺産の分配を言った。そして自分たちの今後の事も。


『俺が死んだら、おまえは屋敷を出ろ。エリセの父親を探すなら昔の伝を頼むし力になる。戦後から消息不明なのだろう? 見つかれば、一緒に暮らせばいい』


 そんな提案に怖気が走った。既に破局した過去の男だ、生死など心底どうでもいい。その後だって、調香師だの、宝石商だのの愛人を作ってきたのだ。フィルラは即座に首を振った。


『それか侍女を連れて王都のタウンハウスを買うなど、便利な都会で暮らすのも良い。おまえが一生暮らすに困らない金は渡すさ。エリセに関してはソルヴィ君にも夫探しを手伝ってもらったらどうだろうか。爵位が低くても庶民出身でも騎士は一生安泰だ』


 夫の真摯に語る言葉は、名案のように聞こえても、フィルラは何もかもが気に食わなかった。


 ……つまり、今まで通りの生活はできず、貴族であって貴族でなくなるようなものだ。

 何のための結婚だったのだ。何のための人生だったのだ。

 この屋敷に居続けるため、貴族で居続けるためには……庶子の存在に傷付いたエリセの心を完全に癒やすには。

 夫の死だけでは物足りない。ノクティアの排除も必要になったのである。


「……金だけ置いて、とっととくたばれ」


 さぁ。どうやって排除してくれよう。フィルラの呪詛めいた昏い呟きは、静謐な空間に溶けて消えた。




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