その日の昼食後。離れの部屋に戻ってきたソルヴィに誘われて、ノクティアは初めて執務室に来ていた。
初めて入った執務室にノクティアは物珍しげに周囲を見る。
ここは本邸の一階。応接間の隣にある。
──針葉樹のよう深い緑のカーペットに、ツヤツヤとした木の机と椅子。棚には書類や分厚い本が詰められており、何だか高価そうに見える銀の剣や盾が飾られていた。壁に飾られた絵画はヘイズヴィークの湾やフィヨルドの戦士の木製舟。
そんな執務室の机に向き合うソルヴィは何やら一生懸命に計算をしているが……。
「ソルヴィ。忙しいのに私、来て良かったの?」
「ああ。忙しいが、ノッティ近くにいると頑張れそうな気がして……」
傍らに立つノクティアを一瞥してソルヴィは言う。何が何だか。ノクティアは部屋の隅、煖炉の前に置かれたソファに移動しゆったりと寛ごうとした矢先。彼は唐突にペンを置いて立ち上がるなり、床に腕をつく。
何事か。ノクティアが唖然とするのも束の間……彼は一心不乱に腕立て伏せを始めたのである。
「え、え……ソルヴィ仕事は?」
忙しいなら鍛えている場合ではなかろうに。ノクティアが困惑すると、彼は軽い笑いを溢す。
「日課だ。執務に疲れたらやる気を出すためにとにかく身体を動かす。腕立て腹筋背筋……」
逆に疲れてしまうのではないだろうか。困惑顔でノクティアが一心不乱に腕立て伏せをする彼に近付く。すると、彼は急に何か思いついたのか動きを止め、ノクティアを見た。
「……そうだ。ノッティ。俺、ずっと前からノッティとしてみたい事があるんだが」
この状況から何を……。
ますます訳が分からずノクティアが眉を寄せると、彼は片手で自身の背を叩く。
「背中乗ってくれないか。負荷が欲しい」
「へ?」
乗るとは。だが、彼が懇願するような視線を送るので、惑いつつノクティアが彼の背に腰掛ける。だが──「やっぱ軽いな」なんてソルヴィは笑う。
「ノッティ床に足をつけなくていい。もう俺の上乗って全体重をくれ。それで肩でも掴んでくれ」
「え、うん。大丈夫、なの?」
指定通りにノクティアは彼の背に膝をついて、肩に手をついた途端だった。彼は腕立て伏せを再開した。馬に乗るとはまた違う。何だか面白いが、仕事部屋でこんな事をしているのが、おかしくて堪らない。
「あっはは! ソルヴィすごい!」
早い早い。なんてはしゃいでしまうと、彼も笑う。それでも、速度を緩める事もなく一心不乱に腕盾伏せを続けるもので……面白くて堪らなかった。そんな時だった。叩扉が響いてすぐ、執務室の扉が開く。
「ソルヴィ様、来客です。あと今、ノクティア様の声がし……」
扉の前に立つエイリクは言葉を途中で止め、ぽかんと口を開けている。その隣にいる、ジグルドも唖然とした表情だった。
「な……何をなさっているのですか」
「休憩中だ。妻の負荷付き腕立て伏せだが」
「いや。あの、はい……えっと」
完全にエイリクは困惑気味だった。しかし来客と。ノクティアがいそいそとソルヴィから降りると、彼は何だか少し名残惜しそうな顔をする。
「ノッティ今のまたしてくれるか? これは良さそうだ」
「え、あ……うん、いいよ?」
楽しかったから別に良い。ノクティアが頷くと彼は優しく微笑んだ。
「しかし旦那……休憩に鍛えてるって、本当に、鍛錬好きなんだなァ」
すげぇなとジグルドが溢して間もなく。立ち上がったソルヴィはぱっと表情を明るくして、ジグルドの肩を叩いた。
「おいジグルド。いい事思いついた! おまえはこれ。イングリッドとソフィア二人乗せてやれ、百回を三セット。間違いなくいいかんじに腕力が付く、腹に力を入れれば……」
ソルヴィは真顔で熱弁するが、ジグルドの顔はどんどん青ざめていく。嫌だ、旦那の鬼。そんなのやりたくない。と顔に書いてある。
幼馴染みなので分かる。ああ、これは誰か助けてくれの視線だ。しかし、どう助けろと。ノクティアだって、ソルヴィが鍛錬にこうも熱いと知らなかった。半眼になってこの熱弁を聞きつつ、ジグルド頑張れと視線だけで言うしかできないもので……。
その時だった。コホンとエイリクが咳払い一つ。
「えっと。ソルヴィ様、来客です。あとノクティア様にもお話があると」
客人はもう、応接間に通してある。と、それだけ告げるとエイリクはジグルドの肩を叩き、一緒に来いと言って去って行った。
「た、助かったぜェ、おっさん……天使か?」
「おっさんではありません。エイリクですよ。まったく、貴方たちはきょうだい揃って、本当によく似ておりますね」
扉が閉まり、少し遠くなると、そんな会話が聞こえてくる。ジグルドは屋敷の護衛兼ソルヴィの側仕えとなる。だからこそ、前領主の側近だったエイリクからも教育を受けているが、イングリッド同様になんだかんだ仲睦まじそうであった。
微笑ましくも賑やかな日常。こんな離れた場所でかつての仲間がいてくれる。そして、自分は決して一人ではなく幸せで。そして本当の夫婦になれたからこそ、心がいつも満ちている。ノクティアはほんのりと微笑んでしまう。
「ソルヴィ来客だって。行こ?」
彼の服の袖を摘まんで言うと、彼は幸せそうに笑み──ノクティアの頬と唇にやんわり口付けを落とす。
「ああ、行こう。どうせまた、あいつらだろう」
少しばかり悪戯げにソルヴィは笑って言った。
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そうして、二人で隣の応接間に入ると……案の定の人物が二人居た。
ソルヴィの言う〝また、あいつら〟は案の定アーニルとリョースの二人である。
現在はもう十二月も半ばに差し掛かる。雪も本格的に降り始めて、そろそろ王都に戻れなくなるだろうに……と、思っていたが、ソルヴィ曰く。彼らはあの不祥事によって半年間教会省出入り禁止の謹慎処分を与えられたそうだ。
そして、現在は麓町の教会に滞在し、聖職者の任務に勤しんでいるらしい。
あんな事があった手前だ、王都に帰れなくなり、領民には石を投げられているそう。
当然の報復だと思う。ノクティアも内心ざあまぁみろとは思ってしまった。
だが、なぜにわざわざ彼らがヘイズヴィークに留まるのか。その理由はソルヴィがどうせならば、謹慎中はこの領地に居ろ、そんなに謝罪がしたいなら俺のために領地のために働けと言ったそうだ。
またアーニルについてはルーンヴァルドの三強に入る一人。ソルヴィの鍛錬相手に丁度良いのもそうだが、ジグルドの育成を手伝ってもらっているらしい。
「ソルヴィ様、ノクティア様お邪魔しております」
リョースは恭しく一礼し、傍に控えるアーニルも胸に手を当て騎士の一礼をする。
部屋の隅ではソフィアとイングリッドは茶器の準備を始めていた。しかし、イングリッドはやはり、どこか不機嫌そうな顔をしている。
「ああ。で、今日は何の用だ?」
ソルヴィが訊く。リョースはどこか申し訳なさそうにソルヴィとノクティアを交互に見た。
「この領地で行う冬至祭と新年の豊穣の儀式についてで、村長ももうご高齢。私一人での祈祷も考えていましたが……」
領民の愛するヒースの聖女、ノクティア様さえ宜しければお力を借りたく……。
リョースの言葉にノクティアは眉をひくつかせる。本当にそんなたいそうな肩書きで呼ばれているのか。
「え、気持ち悪っ」
率直に言うと、リョースは頬を膨らませて不機嫌な顔をする。
別にリョースはノクティアを嫌ってはいなそうだが、ノクティアはこの男が苦手だった。あれから尋ねてくる都度、話しているので悪い奴とは思わないが……。
ぷいとノクティアがそっぽを向くと、アーニルは苦笑いを溢しながら「ただ、そう呼ばれているのは事実なのですよ。ほら、リョース様、ふてくされないでください」なんて優しく窘める。
比較的小柄なリョース。上背のあるアーニルがこうも宥めていると何だか世話のかかる弟でもいったよう。そんな風にノクティアには映った。
それからややあって、リョースは心配そうな顔でノクティアに向き合った。
「……ただノクティア様、今妊娠されていませんか」
「なんで? してないよ」
本当の夫婦となった直後、月の障りがあった。しかし、どうしてそんな事を訊くのかと尋ねると、彼は甘い顔立ちを歪め、心底申し訳なさそうな顔をする。
「貴女は侯爵夫人ですし。尊き女性です。お身体の配慮をするのは当たり前でしょう。今の貴女はこの領地で希望のような存在。とはいえ、こんな真冬で祈祷を一緒にお願いしたいだの、貴女を傷付けた恥知らずがこう頼むのも……」
恐れ多い。だめもとです。と、リョースは消え入りそうな声で言って息をつくので、ノクティアは呆れて笑ってしまう。
「確かに私はソルヴィの奥さんだけど、前侯爵の庶子。そんなたいそうな存在じゃないよ。でもね、領民のためはソルヴィのため。私にできる事があるなら、やる。ただソルヴィがいいって言うならだよ?」
ノクティアがソルヴィを一瞥すると、彼はすぐに頷いた。
「ノッティが良いなら良いさ。ただ無理して欲しくない。当たり前だが冬至なんて年間で一番寒いからな」
気遣うように言うので、ノクティアは頷いた。
「良いよ、それ付き合ってあげる」
あっさりとした調子でノクティアが言う。リョースは深々と頭を下げた。