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55 ビョンダル伯爵家へ

 年の瀬迫るその日。ノクティアはイングリッドとともに、ソルヴィの愛馬が引く雪車に乗って、ビョンダル領に向かっていた。

 周囲は深い銀世界。都市部を例外として、この時期になれば馬が引くものは馬車から雪車に変わる。

 ヘイズヴィークもビョンダルもルーンヴァルドの辺境にある片田舎だ。中でもビョンダルは海に面しているのは、狩猟小屋周辺のみ。残りの殆どが内陸で豊かな森に囲まれているらしい。


 ビョンダルとはルーンヴァルドの言葉で──クマの谷。その名の通り、ルーンヴァルドの中で最も多くヒグマが生息する密集地らしい。

 だから初対面のソルヴィが熊笛を渡すだの、ああも知識があり、扱いに慣れていたのだと納得した。本人曰く、戦ったのはあの時が生まれて初めてだったそうだが。


 そんな彼の故郷へと続く道は樹氷と化した針葉樹林がどこまでも続いていた。そうして馬を走らせる事、幾何か。針葉樹林の先には広大な銀世界が広がっていた。柵があるので恐らく牧草地だろう。


 寒い。寒いが、圧巻の光景だった。まだ夜明けを知らない月明かりの空のもと、広がる銀世界はただ静かにそこにある。けれどここには、氷精や闇の精霊たちが沢山いて、冬を喜ぶ唄が聞こえる。


「ノッティ、イングリッド大丈夫か? もう少しで家に着く」


 手綱を握る彼は、もこもこの装束を着て団子のようになって寄り添うノクティアとイングリッドに気遣って声をかける。

 二人は頷き、周囲の景色にひたすらに見とれた。牧草地を抜けると、街が見えてきた。その奥、山の中腹に強固な石造りの城がある。あれが、彼の生まれ育った場所……ビョンダル伯爵家のようだった。


 雪車はなだらかな斜面を進み、石の橋を渡る。そして城の前で雪車を止めるや否や、入り口から初老の婦人が侍女らしき使用人を連れて姿を現した。


「ソルヴィ早かったわね。おかえりさない!」


 朗らかに声をかける初老の婦人は、ノクティアも一度だけ見覚えがある。

 白髪の交じった栗色の髪に彼と同じ琥珀色の瞳。もはや優しげな面輪がソルヴィそっくり。間違いなく彼の母、手紙を寄越してくれたリヴ・ビョンダルその人である。

 ソルヴィの手を借りて立ち上がったノクティアは、すっかり手慣れた様子でスカートの裾を摘まみ淑女らしい一礼をする。イングリッドも同じように……否、模範的なほどに美しい一礼をしてみせた。


「こんにちは、お手紙ありがとうございました」


 ノクティアが挨拶すると、彼女はぱっと明るい笑みを向けて「ええ、待っていたわ!」とノクティアの手を取った。

 やはり彼の母なだけあって長身だ。しかし上品な雰囲気なのに、どこか茶目っけを感じてしまう。


「母さん、こんな場所で話していたらみんな雪まみれになっちまう。母さんも待っていて寒かっただろ? 城の中に案内してくれ」


 荷物を下ろすソルヴィは呆れ気味に言う。


「そうね!」


 彼女は明るい笑みを浮かべて、ノクティアたちを城の中に案内した。


『母さんはノッティが本当の奥さんになってビョンダルまで遊びに来てくれる事を本気で楽しみだったみたいだ。ノッティに前に話したかもしれないが、結婚した時点で娘ができたって大喜びだったんだよ』


 昨日の晩、ソルヴィが語っていた事をノクティアは思い出す。

 ……何やら、彼の母は男爵家出身らしい。爵位としては最下位。ルーンヴァルト北部のこぢんまりとした辺境にある農村の領地出身。貴族とはいえ、慎ましく暮らしていたそうで、その生活ぶりは庶民と変わらなかったらしい。そう、あまり貴族らしさが無いそうだ。


 それも兄が三人、弟が二人で男だけの兄弟で彼女は唯一の女。そして、ビョンダル伯爵家に嫁いでも、息子二人……その後は子に恵まれなかったそうで。喉から手が出るほどに娘が欲しかったそうだ。


 しかし自分は庶子なのに。本来ならば本妻の娘、エリセを妻にした方が嬉しいに違わないだろうに……。その点を言うと「多分ノッティだから気に入っているんだ」とソルヴィは微笑んだ。どういった訳だか分からない。しかし、一つだけ彼に忠告を入れられた──


『ただ、いつもみたいに〝ソルヴィのママ〟なんてノッティが呼んだら卒倒すると思う』


 昨日の事を思い出しつつ、ノクティアはイングリッドに手伝ってもらって外套を脱ぐ。


「言葉遣いに気をつけなきゃ」


 自分に言い聞かせるように言うと、イングリッドはふふなんて軽い笑いを溢した。


「困ったらフォローくらいしてやるさ。ノクティアは読み書きできても、そっちがまだ下手だからな」


 得意げになってイングリッドは笑う。


 しかし今日、イングリッドが来てくれたのは本当に心強かった。

 ビョンダルへの帰省が決まった日。ソルヴィから侍女たちに休暇を与える旨を言った。

 ソフィアは実家に帰るので、その際イングリッドとジグルドを誘った。年越しは多い方が良いなんて微笑んで。


ソフィアの話によると、彼女の家は父親が漁師なので家を空けている事が多いらしい。家には妹と歳の離れた弟、そして母親の三人暮らしだそう。

 他人が来るなんてどうなのだ。イングリッドとジグルドは困惑気味だったが、集落に若者が少ないそうで、雪かきの人手があった方が嬉しいらしい。それに弟に関しては、騎士に憧れているのでジグルドが来たらきっと喜ぶだろうなんて……。

 そう聞いて、二人は了承していた。


 しかし、幾何かして……イングリッドは「ジグルド、あんただけ行け。ソフィア悪いけど頼んだ」と断りを入れた。


「ノクティアは一人で自分の事はできるだろうし、旦那様がいる。だけど慣れない場所さ。鬱陶しいほど見てきた侍女一人くらい付けた方が気楽になると思う。旦那様、私が付いていったらダメかい?」


 その言葉にソルヴィはすぐに了承してくれた。確かにそれも一理あると。ノクティアとしても、イングリッドが同行してくれたのは心強かった。

 しかし、理由はそれだけではないのは想像できた。ジグルドとソフィアがどうにも良いかんじの関係になりつつあるので、気遣ったと考えられる。

 なにせ、仕事に少し暇があれば、ジグルドに連れられ庭で逢瀬をしているだとか。


 元ゴロツキだが現在は当主の側仕えで屋敷の護衛。騎士階級も持っているので。今では、そこそこの立場もある。強面で口は悪いが、面倒見が良く優しく真面目。意外な事に派閥など関係無く、若い使用人たちからも好評らしい。そんな彼だ、間違いなくソフィアの家族とも馴染めるに違いない。


「今頃、仲良くやっていたらいいね」


 ノクティアがそんな風に言うと、彼女は〝姉〟の顔で優しく微笑んだ。



 着替えを終え、ノクティアはソルヴィに連れられて広間に向かった。

 通された広間には豪奢な長テーブル。そこには、彼の母リヴ、その隣に、白髪交じりの黒髪の大きな身体の初老の男が座している。一度会ったので顔は知っている。ソルヴィの父、十年も昔の英雄……ハラルド。名高い騎士とはノクティアももう存知だ。精悍で厳しそうな面輪で、ソルヴィと顔立ちは似ていないが雰囲気がよく似ている。


「ノクティア嬢、その侍女も。寒い中よく来たな」


 ソルヴィの父は見てくれに合わない程に穏やかな口調でそう告げる。ノクティアとイングリッドは淑女の礼の姿勢を取った。


「そう畏まらずに、さぁかけてくれ。ノクティア嬢の侍女……君の名は何と?」

「イングリッドと申します」


 イングリッドはもう一度綺麗な礼をして答えると。彼はやんわりと笑む。


「そうかイングリッド。君もよく来てくれた。君の食事も用意してあるが、この席では気遣うだろう。私たちの食事の後に使用人たちは食事にしている。君さえよければ、使用人たちと食事するのはどうだ?」


 その提案に、イングリッドは微笑んで頷いた。


「そうさせていただきます。ハラルド様のお心遣い、心より感謝いたします」


 普段の話し方が嘘のよう。いまだにノクティアもこの使用人モードの彼女の口調は聞き慣れない。

 イングリッドは椅子を引き、ノクティアを丁重に座らせると、彼女はまたも綺麗な一礼をして、近くで給仕をする使用人にすぐに声をかけにいった。


 とりあえず近くにソルヴィもイングリッドもいるので一安心だ。


「本当にお招きいただき、ありがとうございます」


 もう一度ノクティアが礼を言うと。彼らは微笑み、食事が始まった。

 テーブルマナーは充分にエイリクやソフィアに叩き付けられているので、ノクティアは難なく食事を楽しめた。しかし会話となればやはり気遣う。

 今は領主を引退し、ソルヴィの兄トールヴァルドが領主を引き継いだので、二人はゆったりと暮らしているとの事だ。しかしソルヴィの兄、トールヴァルドにはまだ配偶者がいないそう。そろそろ本格的に嫁探しをしなくてはなんて話をしていた。そんな彼はというと、農場の手伝いに丁度外出しているらしい。


「結婚式の時も思ったけど、ノクちゃんはお人形さんみたいで可愛いわ。ルーンヴァルド人誰もが憧れる白金髪。それに綺麗なヒース色の瞳」


 ノクちゃん。それは自分の愛称か。息子のソルヴィにも出会って間もなく、ノッティと愛称を付けられていたが……。やはりどこか親子で似ている。


「ありがとうございます。そう褒めてもらうの、ソルヴィくらいで。むしろソルヴィのママ……」


 言った途端にしまったと思った。ノクティアは慌てて首を振る「違う。お母様……」急ぎ言い直すが時は既に遅かった。


「何ですって!」


 彼女は真っ赤になってわなわなと震えていた。

 まずい。ソルヴィに忠告された事なのに。ノクティアはカトラリーを握ったまま顔を青くした。

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