目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

56 極光の降る夜に

 まずい。本当にまずい。怒らせてしまっただろうか。リヴは俯き震えていた。

 ノクティアがますます顔を青くする。謝らなくては……。ノクティアが謝罪の言葉を述べようとした途端だった。リヴは顔を上げるや否や、ぱっと花の咲くような笑みを浮かべた。


「まぁ! なんて可愛いの! ソルヴィのママでいいわよ。ううん、ノクちゃんもうママって呼んでいいわ!」


 その反応にノクティアは瞬く間に固まった。


 怒られるかと思ったのに、何だこれは。ソルヴィを見ると、彼は半眼の呆れた顔。そんな表情は初めて見た。しかし、今にも笑いそうなのか唇は綻び、逞しい肩を震わせている。


「……リヴ落ち着きなさい」


 ソルヴィと同じような顔で前当主のハラルドはやれやれといった面で首を振っていた。

 ああ、本当に彼女は娘が欲しかったのか。自分は庶子には違いない。それなのにこうも彼の両親は暖かいのか。ああ、やはり彼らは同じ血が流れているのだ。何だかそれを理解してしまって、ノクティアは微笑んでしまった。


「確かに、ノクティア嬢は愛らしい。私ども一族の男なんて、みんな揃ってクマみたいに逞しくてな。その中でも格別野獣みたいなのがソルヴィでな。本当に息子に勿体ないほどに可憐なお嬢さんだと思ったよ」


 綺麗な所作で肉を切りながら言うハラルドにソルヴィはまたも目を細めている。


「ノッティが可愛いのは分かるが、いまだに英雄だの囁かれている父さんが一番の野獣だろう……」


 呆れた様子でソルヴィが言うと、ハラルドは軽い笑いを溢しながらも頷いた。


「だが、本当に正真正銘イングルフ様の娘だな……瞳の色も面輪がどことなく似ている」


 昔を懐古するようにハラルドは言う。しかし、ソルヴィはすぐにノクティアを気遣って「暗くて血生臭い戦の話になるだろ? 無しにしないか」と口を挟んでくれた。「そうだな」

 そう言って、ハラルドは頷く。しかし、その瞳には何か懐かしいものを見るような色を浮かべていた。


 そうして夕刻近くに、ソルヴィの兄、トールヴァルドが帰ってきた。彼も彼でとても気さくな人柄だった。しかし領主自ら、農場に行くのも凄い話である。……と、思ったが、ビョンダル領というのは酪農と乳製品加工が主な収入源なようだ。こうして手伝いに行くのは不思議な事ではないと、ソルヴィは教えてくれた。まして、冬の今は雌牛たちの出産の時期。その上濃厚で美味しいミルクが絞れるので、年間で最も忙しいそうだ。


 夜は彼も含めて夕食を楽しんだ。二度目の食事ともなれば、ノクティアも少し慣れ始めた。そして食後は彼の母リヴに呼び出されて、着せ替え人形にさせられた。


 若かった頃に着ていたドレスや昔買った宝石を譲りたいとの事。それもドレッサーの引き出しをひっくり返してあれもこれもと探るので……。一緒にいたソルヴィはもはや半眼を通り越して、殆ど目が開いていなかった。


「ソルヴィのママ……あの。ソルヴィのお兄さんにお嫁さんが来たら、その人にも譲ってあげて欲しいの」


 私がいっぱい貰ったらきっとずるい。と、思ったままを言うとリヴは感激するように目を輝かせていた。


「ノクちゃん謙虚でいい子ね」


 しかしこうも可愛がられて、温かに受け入れられるのも初めてなので、不思議な心地である。

 ヘイズヴィーク侯爵家に初めて来た時の使用人たちの反応や、エリセの態度、無関心なフィルラの視線……納屋での暴行。こんなに優しくしてもらって良いのだろうか。それでも嬉しい気持ちがいっぱいでノクティアがドレスを二着に、琥珀のブローチや、淡いピンク色の宝石のあしらわれたネックレスを貰った。


 それから入浴を済ませて部屋に戻ると、寝間着姿になったソルヴィは冷たい窓辺に立っていて……ノクティアを手招きする。


 何だろう? 彼のもとまで行き、窓の外を見た瞬間ノクティアはぱっと目を輝かせた。

 金銀の煌めく快晴の夜空には緑の光の帯が流れている。それはやがて、靡くように動き始め、赤や緑、青の光を含み生き物のように動き始めた。


 オーロラだ。ルーンヴァルドに住んでいるとさして珍しくない自然現象だが、それでも見る時々によって表情が全く異なるので面白い。

 以前見たのは現実世界ではなく、スキルの目を隔てて、ヘルヘイムだったか……。

 そんな事を考えていた時、軽やかな叩扉が響き、部屋に入ってきたのはイングリッドだった。彼女はティーセットを持って入ってくる。


「旦那様、ノクティア。お茶が入ったよ……ん? 何してんだ?」


 不可思議そうに彼女が首を傾げるのでノクティアが今度は手招きすると、彼女は近付き、同じように空を見上げた。


「オーロラか。綺麗だな、久しく見たよ」


 感嘆するように言って、彼女は颯爽と立ち去ろうとするので、ノクティアが彼女のお仕着せの袖を掴む。


「イングリッドも見てけば良いじゃん」


 ノクティアが言うと、彼女は噴き出すように笑う。


「そういうロマンチックなものはね、恋人や夫婦で楽しむのが良いもんさ。野暮ってものよ」


 ──ねぇ、旦那様。なんてイングリットは少し悪戯っぽく言う。


「いや別に居たって構わないが。まぁ確かに実家だし、羽目外して深夜はノッティと二人でイチャイチャ仲良ししたいとは思うが」


 何を言っているのだこの巨漢は。ノクティアは硬直するが、しかしイチャイチャ仲良し……と。

 つまりそれって。ノクティアは連想できる事に、一瞬にして耳まで真っ赤になった。


「ほらみろ、おやすみ」


 悪戯っぽく微笑んで、イングリッドは颯爽と部屋を出て行った。部屋の扉が静かに閉まる。その途端、彼にひょいと抱きかかえられて、甘い口付けを与えられた。



 ※


 その頃、ジグルドとソフィアはノクティアたちと同じ空を集落から少し離れた雪原で見上げていた。


「すごい! オーロラですよ! 私、久しぶりに見ました、綺麗ですね! 見て見てジグルドさん!」


 自分より一つ年上。普段は淑やかな彼女がはしゃぐのが余計に可愛らしくて、ジグルドは思わず微笑んでしまう。

 普段のお仕着せとは違う。村娘のよう、質素でも可愛らしい民族衣装を着ているせいもあって、何だか新鮮だった。


 この一年以上で本当に様々な事があったとジグルドは感慨深く思っていた。

 まるで星に導かれるよう。こうも人生が変わるものか……と。寒空を見上げてジグルドは笑む。


「おい、ソフィー寒くねぇのかァ? 夜に男と外に出て行ったら、母ちゃんや妹とチビが心配するんじゃねぇの?」


 そんな風に言うと、彼女は自分を見上げてやんわりと笑む。

 ソフィアに内緒で。と、この雪原に連れ出された。恐らく窓の外を見た時にオーロラの前兆でも見ていたのだろう。


「寒いけど幸せですよ。お母さんと妹たちも多分何も言いませんよ。お父さんが帰っていたら怒るかもしれませんけど」


 そうしたら一緒に怒られてくださいね。なんて彼女は笑う。


「それ、俺が一人で怒られるだろ」


 笑いつつ答えると、ソフィアも笑った。

 何やら、彼女の父は漁師なので港に居着いてあまり家に戻らないそうだ。けれど、新年も迎えるので恐らく帰ってくるだろうが、いつ来るかは分からないと。


 元ゴロツキでも現在は騎士。それなりの身分が証明できる。それもあってだろう。彼女の母も妹や幼い弟も歓迎してくれた。そして集落の人たちには雪かきや雪下ろしを手伝えば喜ばれたもので。


 こんな自分が、誰かに喜ばれる日が来るとは……。

そんな部分さえもジグルドは感慨深く思えてしまった。


「じゃあさァ、ソフィーの父ちゃんに怒られたら、〝娘さん幸せにするので許してください〟って言うわ」


 思ったままを告げてソフィアを見る。暗がりの中でも彼女が紅潮しているのがどことなく分かった。


「ジグルドさんはずるいです……」


 そんな風に彼女が言うので、ジグルドは堪らなく愛しい気持ちが込み上げ、ソフィアを抱き寄せた。


***


 片や、イングリッドはその頃、宛てられた部屋でオーロラが靡く空を一人見上げていた。

 ノクティアは無理やりな政略結婚であったし、沢山の葛藤もあっただろうが、愛し愛される幸せを手に入れた。そしてジグルドも、色々あったが騎士となりこの屋敷に来て、新たな恋をして順調そうだ。


 家族の幸福が嬉しい。しかし、少しだけ羨ましくは思う。


 生きるためとはいえ、沢山の悪事を働いた。ジグルドもノクティアもそうだ。それは自分も同じ。罪人の入れ墨が刻まれた女がまともな仕事に就けるだけ幸運だ。けれど、女としての真っ当な幸せを手に入れる事だけは夢のような話で無理に違わないと思う。


 とっくの昔からそんな事は分かっていたのに、どうして今更。イングリッドは悩ましく思った。

 それでも現状は幸せだ。満ち足りた生活である。


 ほぅと息をついた途端、なぜか黒髪碧眼のあの男……アーニルの姿が浮かびあがる。


 イングリッドは煙たげに顔をしかめてこめかみを揉む。いや嫌いではないが。なんであいつを思い浮かべたのかと。昔言われた言葉が頭に蘇り、それが無性に切なくなる。


「下らない事、考えてないで寝よ」


 気持ちを切り替えようと、颯爽とナイトドレスに着替えた彼女はすぐにベッドに入った。


 ※


 それから新年を迎え、穏やかな日が続いた。

 しかし、一ヶ月も経たぬうち、ヘイズヴィークの麓街は戦慄に包まれた。


 雪原に巨大な足跡と夥しい血液の染みと引き摺った痕。その先には、その生き物が食物を保存するための泥饅頭。

 そして、最悪な事に最初の犠牲者が出てしまった。






 ……マリオラだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?