新年を迎えて半月程。ルーンヴァルドはようやく数時間だけ太陽が顔を出すようになり、ぼんやりと薄明るい昼が訪れ始めた。
しかし、外はしんしんと雪が降り相変わらず寒い日々が続いている。
このヘイズヴィークは、冬期は随分ひっそりとしている。湾に面しているので、平地の続くビョンダル領のように大きな酪農や農業が行える訳でもないし何か、地域が活気溢れる産業に結び付ける事ができれば良いが。
ソルヴィは、そんな事を考えつつ書類の山に向き合っていた矢先だった。叩扉もせず、荒々しくドアが開く。そこに立っていたのは側仕えのジグルドで……。
既に彼も最低限のマナーは既に身についている。叩扉もせず入室などまずしない。尋常でない事態と分かり、ソルヴィは席を立つ。
「ジグルドどうした?」
咎める事も無く訊けば、彼は真っ直ぐにソルヴィを見る。その表情は硬く苦しげだった。
「旦那。麓町で穴持たずが出没して犠牲者が出た。町長が来ている。応接間に通した」
──穴持たず。つまり冬眠しなかったヒグマを示す。
冬の森は木の実や草の芽など食べるものが皆無に等しい。冬眠をしなかったクマが食べるのはシカやウサギなどの肉。しかしそれでも食料に困ると、人里にやってくる。当然餓えから凶暴化しているので、人を襲う事もある。
しかしこういった事は決して珍しい事でもない。数年に一度は真冬に足跡を見ただのの目撃がある。そうして猟師に依頼して駆除してもらう事があるのだが……。だが犠牲者と。
「ジグルド……犠牲者は麓町の者か?」
ジグルドの唇が動く。紡がれた名にソルヴィは目を瞠る。
そうか。だからこうもジグルドが取り乱したのか。ソルヴィは眉間を揉み、応接間に向かった。
応接間に入ると、既に町長と護衛の猟師が二人。そして、丁度騒ぎを聞いてしまったのか、ドアの前にはフィルラとエリセの姿もあった。騒動を分かっているのだろう。二人の表情から明らかな畏怖が窺えた。
「フィルラ様もエリセ様も良ければご着席してください。一緒しても構いません」
ソルヴィが言うと、二人はソファに座す。そうして町長も椅子に座らせて、話は始まった。
……何やら、三日ほど前の深夜。麓町の外れの民家で厩舎の馬が尋常でないほどに嘶いていたらしい。そして翌日、見に行けば餌入れを荒らされていたそうだ。雪原に巨大な足跡があったので、それがすぐにヒグマの仕業と分かったそう。馬自体に怪我などは無かったらしい。だが、冬のヒグマは危険だ。猟師を即刻手配し、探し回ったという。だが、なかなかにこの個体は頭が良いそうで、森の中で止め足を使い追跡する猟師を欺いたそうだ。
「そして、昨日です。猟師が雪原に何かを引き摺った後と夥しい血痕を見付け、その先にヒグマが餌を備蓄した形跡……泥饅頭を見付けました」
そこで見つけ出された犠牲者……それがマリオラだった。
「ソルヴィ様。ノクティア様とマリオラは親交が深かったと知られていますが、ノクティア様にこの件は……」
町長の質問にソルヴィは首を振る。
「伝えていない。俺も今聞いたばかりだ。皆も知っている通り、妻は神秘の力を持っている、だから俺が言わずとももしかしたら、伝っている可能性もあるかもしれないが……」
だが、それも確定ではない。ノクティアの悲しむ顔が目に浮かび、いたたまれない気持ちに追いやられる。
しかし、なぜよりにもよってマリオラが。彼女にも神秘の力があった筈。あの雑木林で随分と長い事暮らしているのに。しかし、一つだけ想像できるのは、咄嗟だったという事。
ノクティアもそうだ。彼女は人や動物を眠らせる事ができるが、咄嗟の状況下や精神状態が乱れているとその力がほぼ使えないと言っていた。
ソルヴィが眉間を揉んで黙考していた矢先だった。
「起きてしまった事はどうにもなりませんよね」
フィルラは淡々と口を開く。確かにそうではあるが……。ソルヴィは彼女に目をやった。
「犠牲者の方は非常に気の毒で可哀想です。ですが、大事なのは次の犠牲を出さない事ではないでしょうか。今すべき事を提示して、様々な対策を練らねばいけません」
続けて言う言葉に、ソルヴィは感心してしまった。
感情の一切を取り払った冷静な分析だった。さすが、領主の代理に執務をこなしてきただけある。ソルヴィは深く頷く。
「そうですね。フィルラ様の言う通りです。麓町の人たちへの呼びかけを。あとは猟師の配置し足跡の追跡。ビョンダルの猟師にも取り合って貰えないか聞きましょう」
ソルヴィの指示に皆頷いた。
「ソルヴィ様……」
震えた声で言うエリセにソルヴィは目をやった。
「この屋敷は安全ですの?」
その顔は血の気が失せて、純粋に怯えている表情だった。散々にノクティアを糾弾し、小憎たらしい印象があまりに強いので少し意外にも思えてしまいソルヴィは少し驚いた。
だが、本当に恐いのだろう。その肩が震えている。ソルヴィは口元を緩めて、エリセに改めて向き合った。
「ここは一番安全といっても過言ではないですよ。屋敷の周りが高めの塀で囲われていますし、庭師や私の側仕えのジグルドだって見回りをしています。ましてやお屋敷の中、部屋の中に居れば大丈夫です」
ソルヴィは言葉を正し、宥めるようにエリセに言う。
「でも、私また、いつだかみたいにトロールに攫われたら……」
その言葉に、ソルヴィは内心ギクリとした。ノクティアに出会ったばかりの時のあれか。
屋敷をカラスが飛び回った怪現象があったと言われているが、あの件はノクティアの所行と結び付けられていない。そもそも、ノクティアに懐くカラスは庭に来るただのカラスだと思われている。しかし、エリセがこうも心的外傷のようになっていたとは。
「大丈夫です。私の妻が居る。この状況下でトロールに悪戯なんてさせやしませんよ。いくら姉妹仲が悪かろうが、嫌いあっていても、あの子はエリセ様が不幸な目に遭ってるのを見て喜ぶような子ではないです。私は誰よりもそれを知っている。ノクティアは屋敷ごと守ると思いますよ」
──教会省の聖者が認める程の力の持ち主だ。安心してください。と、その旨を言うと、エリセはどことなく腑に落ちないような複雑な顔を浮かべつつも頷いた。
この少女は本来素直なのだろう。しかし、どこか認識が捻じ曲がってしまっているのだろう。なんとなくそんな風にソルヴィは思えてしまう。
そうして、解散を言い渡し、ソルヴィも町長や猟師とともに麓町に降りる事にした。
だが、その前にノクティアに状況を説明しなくては。ソルヴィは重たい足取りで離れに向かった。
離れの部屋に戻ると、ノクティアは煖炉の前に設置された安楽椅子に座り、帳面に向かって何やら一生懸命にペンを走らせて熱中していた。
彼女のここ最近の過ごし方は読書か絵か。どちらかである。
ソルヴィは最近ノクティアの意外な特技を知った。
彼女は絵が上手かった。それは決して、絵画のような本格的なものではないが、書物に描かれた草花の絵を上手に簡略化させて描くのが上手いのだ。それをタイルのようパターンにして並べて描くなど、とても可愛らしい絵を描く。その絵を見てソフィアは皿やポットなどの陶器に絵付けなどをしてみたらどうかなどの提案をしていた程だ。
だからいつかそんな機会があれば……と、練習に最近は絵を描くのも楽しんでいるらしい。
かなり集中していたようだが、彼女はひと息つくと、すぐにソルヴィの方を向く。
「あれ。ソルヴィお仕事は? 今日は終わりなの?」
いつもより早いなんて笑む。
この状態ではどうにも、マリオラの事は知らないようだ。スキルとヴァルディは冥府のカラスといったが、彼らも知らないのだろうか。ソルヴィは惑いつつもノクティアに向き合った。
「ノッティ。大事な話がある。どうか落ち着いて聞いて欲しい」
ソルヴィはノクティアの前にしゃがみ、彼女の手を握りしめると、麓町で起きた事、マリオラの事を一つずつ話した。
話し終えて、彼女を見るとやはり、沈痛な表情を浮かべ、ヒースを思わせる薄紫の瞳に大粒の涙を溜めていた。表情を見るからに何一つ知らなかったと思しい。
「ノッティ、スキルやヴァルディから聞かなかったか?」
そう聞いた途端。雪煙を巻き上げて二羽のカラスが現れて、ノクティアの肩に留まった。
「二羽も今知ったみたい。スキルがいうにはね。私の事は見守っていて、いつも傍に居るけど、いくら冥府のカラスだからって広範囲に見ていないって。屋敷内なら察するけど、麓町は遠いからって」
そう語る彼女の瞳からは大粒の涙が溢れ始めていた。その表情だけで、いたたまれない気持ちなる。ソルヴィは彼女の眦から流れる涙を拭いながらも静かに語り始めた。
「……なぁノッティ、俺はこれから麓町に行かなきゃいけない。被害状況を確認しに行く。ノッティは、ここで俺を待っていてくれないか? 屋敷の人はノッティがここに居てくれれば安心すると思うんだ」
その問いかけにノクティアは即座に首を振り、ソルヴィの服の裾を掴んだ。その表情は明らかな不安を強く示している。
「嫌、置いてかないで。私も行く……」
ぐずぐずと嗚咽を溢し始めたノクティアの手をやんわりと剥がしてソルヴィは優しく手を握る。
「ダメだノッティ。ここに居ろ。ノッティを危険に晒す訳にはいかないんだ」
そう説得するが、ノクティアは首を横に振る。
言い合いを聞きつけたのか、すぐに二人の侍女が来た。
「ノッティ分かってくれ。ここで待っていてくれ、俺はすぐに帰るから」
そう言って、ソルヴィは侍女たちに妻を任せて部屋を出た。