冬眠しないヒグマが出て、ヘイズヴィーク中は混沌としているらしい。それも最初の犠牲者がマリオラだったとは。ノクティアは感情の整理が追いつかず、ソファで膝を抱えて震えていた。
ソフィアやイングリッドとも面識がある。彼女らも沈痛な面を浮かべていた。それでも彼女たちにも仕事がある。ソフィアは少しでも気持ちが落ち着くようにと、お茶を淹れてくれた。
それから数十分。カップの湯気は薄れつつある。ぼんやりとしたままのノクティアは今更のようにカップを取って、一口だけお茶を口に含んだ。
『ちっとは落ち着いたかぁ?』
ソファの肘掛け部分の留まったヴァルディは軽い調子で訊いてきた。しかしいつものように声にハリが無い。その隣に留まったスキルはただ心配そうにノクティアを見つめていた。
「うん、少しは。だけど、どうしてマリオラさんが。マリオラさんは私よりずっと精霊と心を通わせている。その力だって借りられる筈なのに……」
ノクティアが震えた声で言うと、スキルはすぐに首を横に振る。
『ノクティア。彼女は〝精霊と心を通わせて、力を借りられる〟と言っても攻撃する形では使えないのでしょう。見てきたところ、あくまでも彼女は精霊と共生する形で力を借りていました』
「それでも、精霊たちが危険を教えてくれたっておかしくない筈で……」
『よく考えてみてください。彼女は年老いています。何となく危険を察したとはいえ、動作が遅いですよ』
『ノクティアはヒグマに襲われているから予測不能な動きをして襲いかかってきたかなんとなく想像できるだろ? まして、冬眠していない奴って腹が減っていて気が立っているんだろ?』
二羽の考えは腑に落ちるものだった。
しかし、死んでしまったという事はヘルヘイムに渡ったのだろうか。或いは突然の死で、その場に残り続けているのか……。ノクティアは深く息をつき、二羽を見る。
「ねぇ。マリオラさんは今どこにいるの? ヘルへイムに渡ったの?」
そう訊くと彼らは首を横に振った。
『それは確かめないと分からないねぇ。婆さんが死んだと分かっていれば、ヘルヘイムに渡ったかもしれない。だけど、もしかしたらその場に残っている可能性もあるよ。突然死ってのは亡霊になりやすいからさ』
なるほど。ノクティアは頷いて立ち上がる。
「じゃあヴァルディ。私をそこまで連れて行ってくれない?」
その言葉にヴァルディはたちまち素っ頓興な声をあげた。
『馬鹿かおまえ、それじゃ旦那に怒られるだろ! 待っていろって言われただろ?』
「そうだけど……確かめたいって思うもん。スキルに頼んで目で見るにしても、屋敷からマリオラさんの家まで離れすぎているもの。それに、私も植物の精霊と少し話せるから、あんたたちも空から手伝ってくれたら、ソルヴィたちの手助けになれると思うの。それに……」
ノクティアの脳裏にあの晩秋が蘇る。
ヒグマに襲われたあの日、ソルヴィは追いかけてきてくれて、身を挺して守ってくれた。そして彼は大きな怪我を負った。
ただ刃物を持っただけの人間が相手できるだけ奇跡的。ヒグマの腕ひと振りが直撃するだけで取り返しのつかない事になる。それだけ、圧倒的な脅威に違いない。
一度ソルヴィは追いやった。とはいえ、二度目は無いかもしれない。
まして凶暴となった個体ならば尚更で……。
その意図を汲み取ったのだろう。スキルは頷いた。
『分かりましたよ。ただ確かめたら即刻戻りましょう』
『まぁそうだよな。俺たちは契約上一応、ノクティアに従わなくちゃいけない』
──いいか。すぐに戻るからな。
釘を刺すようにヴァルディは強く言う。ノクティアはただ黙って頷いた。
※
その頃、ソルヴィは獣害現場に訪れていた。そこはマリオラの家の目と鼻の先。現場には薪が転がっていたので、外に薪を取りに行った時に襲われたのだと思しい。雪の上では未だに夥しい赤い染みが広がっている。
しかし微塵も暴れた形跡が無い。恐らく、即死だったのだろうか……。
「遺体は……」
猟師に訊くと、白樺林の奥の方を指さした。
「あの林の奥に泥饅頭がありましてね。そこに埋められています」
無論回収はしていない。即刻助け出してあげたいところだが、相手は執着が強い生き物だ。回収すれば、奪われた事に腹立てて、どこまでも追ってくるだろうと言う。
「ならば一刻も早く見つけ出して討伐し、助け出してあげないとな……」
そうして、ソルヴィは猟師たちにこの近辺での待ち伏せを言い渡した。食料保存をしているのだ。間違いなく姿を現すに違いない。
一度会っただけで感じられるあの温かな人柄だ。家を使っても怒られないだろう。家の扉が開く事を確認し、野営地に使わせて貰えと指示をした。
「俺も翌朝には来る。とりあえず、麓町の方にも呼びかけを行ってくる」
そうして、ソルヴィは愛馬に乗って白樺林の林道を走り出して間もなくだった。
ここにはいてはいけない存在が二羽のカラスを連れていた。ノクティアだ。
「ノッティ! なぜ、ここに居る!」
屋敷で待っていろといった筈だ。馬の上からソルヴィが怒鳴ると、彼女は首を振る。
「木の精霊に話を聞いていたの。マリオラさんの事を知れると思ったから。それに、ここにマリオラさんの気配があるの。姿は見せてくれないけどいるの」
ノクティアの言葉にソルヴィは怖気が走った。
確かにいる。いるが、泥饅頭の中だ。そんなものをノクティアには見せたくないし、見知った者の損傷の激しい遺体など見れば、感受性が強い者ほどまともな精神で居られなくなる。
ノクティアはヘルヘイムを渡った冥府の女神を受けた魔女……霊的なものが見えるのは頷ける。この言葉だと、霊体の彼女を見かけたのかもしれないが……。
「私、ソルヴィや麓町の人たちを危険な目に遭わせたくない」
……自分にできる事をしたい。震えた声でノクティアは言う。しかし、そんな事はさせらない。あまりに危険だ。
ソルヴィは即座に首を振り、馬を下りると彼女をすぐに抱えあげて、再び騎乗する。
「ダメだ。それは了承できない。いくらノッティが冥府の女神の力を授かった魔女で、ヒースの聖女だの囁かれていたとしても、無謀だ」
ソルヴィはノクティアを抱き寄せ即座に馬を走らせた。
「嫌だ。無謀なんかじゃない!」
「無謀だ。足手まといになるのは分かっているだろ! ノッティは咄嗟には力が使えない。感情に支配されればそんなものは使えない。それにその力を使う代償だってあるだろ。あの時、粗相するほどに恐い思いをしただろ!」
言葉なんて選んでいられなかった。傷つこうが、泣かせようが、危険に晒す訳にはいかない。もうあんなにもヒヤヒヤとする思いなんて二度としたくなかった。ソルヴィは空を見上げてがなる。
「スキル、ヴァルディ居るだろ! どうして止めなかった! 足手まといになるのは充分に分かっていた筈だ!」
すると頭上で飛ぶ二羽はそれぞれが鳴き、雪煙を巻き上げて消え去った。
馬を走らせ、侯爵家への帰路につく。丘をのぼっていく先、片腕で抱き寄せた彼女が震えているのが分かった。しゃくりあげるような息をしているので、顔を見なくても泣いているのが分かった。
しかし、こればかりは優しい言葉をかけて寄り添う事もできなかった。
ただ、危険に巻き込みたくないだけなのに、なぜに分からないのか。ソルヴィは屋敷につくなり、ノクティアを下ろすと門付近で警邏していたジグルドに受け渡す。
「ジグルド、妻を離れから出さないように侍女たちやエイリクに言え。兎に角出すな。逃げ出さないようにしろ」
そう示唆して、ソルヴィは去って行った。
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しかし、その晩。最悪な事が起きた。
またも犠牲者が出たのである。それはマリオラの家に待機していた二人の猟師だった。
今度は激しく争ったのが目に見て取れる。
玄関の前の階段に血の染みが付着し、つるバラのアーチが崩れていた。
しかし泥饅頭に引き摺られる事もなく、庭先で二人は事切れていた。
この二人の猟師というのは、山林を熟知した腕のある猟師だった。そんな者たちは狩られる程。他の猟師たちは、完全に怖じ気づいてこの討伐に参加しない旨を言った。
最悪な事になった。自分の責任だろう。ソルヴィは前髪を掻き、考える。
猟師ができなくとも、騎士にも討伐できるだろうか。幸いにもアーニルがこの領地にいる。それに側仕えのジグルドも……。
一度戦ったから分かっている。相手の動きは予測不能だ。そして力が強すぎる。ジグルドという若い才能を潰す可能性もあれば、尊い聖騎士をこんな事のために駆り出すのも如何なものかと思う。今は謹慎中とはいえ、教会省に何を言われるか分からない。
そうなれば……領主の自分一人でも、どうにかしなくてはならない。この領地を守ってこそ領主に違いないのだから。
ソルヴィはその晩、白樺林の茂る森へ一人で入った。
その姿を見たのは、二羽の青白い蝶。そして森に潜む、暴君と化した巨体だった。