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59 喪うのが何より恐かった

 その日の晩。ノクティアの周囲にはソフィアとイングリッドの二人が付きっ切りだった。

 夕刻、ノクティアを連れて戻ってきたソルヴィはひどく険しく切羽詰まった顔。ノクティアを何としてでも出すな、部屋から出すなと侍女たちに示唆したのである。


「ノクティア。さすがにそりゃ旦那様は怒って当たり前だと思うぞ? 足手まといだの言っても、旦那様の事だ。あんたを危険に巻き込みたくない。いくらあんたが凄い力を持っていたとしても安全の保証なんて無い。だからだと思うよ?」


 嗚咽を溢して泣き濡れるノクティアの肩を摩って、イングリッドはそう言った。ソフィアも同じように背を摩って宥めてくれたが……。

 それでも、ノクティアはあの晩秋の日が頭の中にぐるぐるとまわり続けていた。


 あの時、彼はヒグマを追い払う事に成功したが、きっとあれは運が良かったのだろうと思う。

 立てば長身の彼よりずっと高い。鋭い爪は一撃で皮膚を切り裂いた。間近で見て思ったが、絶望的な強さの生き物だった。

 本来なら、人間を恐れる、臆病な性格とは言われているが……それでも圧倒的強者だった。

 食事中も、就寝前もずっとノクティアの脳裏にはあの日の事が離れなかった。


 そうして、消灯時間。そこでようやく侍女たちは各自部屋に戻った。ノクティアはいつもより広いベッドで一人身を丸めて震えていた。


(もしもソルヴィが死んじゃったらどうしよう……)


 彼の強さを信じていない訳ではないが、どうにも不安で堪らない。最悪な想像と直感が頭を駆け巡って嫌な胸騒ぎがして仕方ないのだ。

 ノクティアは暫し耳をそばだてた後、真っ暗な室内をぐるりと眺めた。


 奥部屋の侍女たちももう眠っているのだろう。静けさを確認すると、ノクティアは小さな声でスキルとヴァルディを呼び出した。


 瞬く間にノクティアの頭上に雪煙が巻き上がり二羽はすぐに姿を現す。


「お願い、本当の姿に戻って」


 二羽が話す前に頼むと、彼らは顔を見合わせる。そうして、本来の姿になった。


「ごめんね。カラスの姿だと鳴き声がするから。二人が気付いちゃうかもしれないから……」


 そう言うと二羽は顔を見合わせて困り顔。


『ノクティア。まさかとは思うが、おまえ旦那の所に行こうとしてないか?』


 ヴァルディに訊かれて、ノクティアは複雑な顔を浮かべる。


「でも、だって……」

『気持ちは分かりますよ。ノクティアが不安そうにしているだろうなって分かったので、一応私たちも旦那様の安否は確認しています』

「そうだったんだ。ありがとう……それでソルヴィって」


 ノクティアが不安そうに訊くと、二羽はそれぞれため息をつく。


『旦那さんはずっと森の奥を歩んでいますよ。特に変化はなし。ヒグマは目視できませんでしたが、周囲でずっと見ているでしょうね』

『あいつら頭の良い動物だ。旦那が強い事は分かるだろうし、殺気立っているからすぐには出てこないんだろうな。そうだ、ノクティア。野生動物ってどんな状況になると狩りの姿勢に入るか知ってるか?』


 ヴァルディに訊かれて、ノクティアはすぐに眉を寄せる。しかし、少しだけ想像できた。


 自分は、王国の汚点とも呼ばれたあの街で泥棒をして生計を立てていた元スリだ。狙う獲物というのは……。


「一瞬でも隙ができた瞬間、そこを狙う」


 そう言うと、ヴァルディは唇を引き上げて頷いた。


『よく分かったな。そう。だから気を張っている旦那の前に姿は現さない。ただなぁ、旦那だって無限に体力がある訳じゃない。そこを狙う可能性は充分にある』


 ──まぁ、旦那も野生動物みたいな気配だ。危機管理能力が異常に高いから大丈夫だろうけど。なんて付け添えて。ヴァルディは言うが、ノクティアはたちまち青ざめる。


 ソルヴィに屋敷に連れて戻された直後、エイリクとジグルドが〝猟師が二人死傷した〟と話していたのを聞いた。しかしどうしてだか二人は、獣害現場に戻ろうとするソルヴィを止めるべきだったかと悩ましげに言っていて──


「スキル、ヴァルディ……今更だけど、ソルヴィって今、誰かといるの?」


 震えつつ訊くと、二羽は首を横に振る。

 その途端にノクティアは跳ね起き、ナイトドレスを脱ぎ捨てた。


『ノクティアダメですよ!』


 旦那様が危険に巻き込みたくないとノクティアを屋敷にいさせている。ノクティアはとソルヴィはもう白い関係では無い。今月は月のものがまだ。腹の中に子どもがいてもおかしくないのだ。

 スキルはその旨を言ってすぐに止めに入るがノクティアは構わなかった。


 静かにクローゼットを開いて、ブラウスにジャンパースカートを纏ってモコモコと毛皮のついた外套を纏うと、すぐさまヴァルディに向き合った。


「ヴァルディ、私の翼になって。私に行動を促すのがあんたの役目なんでしょ?」


 いつだか、ヘルヘイムでの出会いが自然と頭に過ぎる。

 遠くを見つめる目となるスキル。そして、行動を促し助けるのがヴァルディと。


「お願いヴァルディ。私をソルヴィの所へ連れて行って」


 ノクティアが今にも泣きそうな顔で懇願すると、ヴァルディは心底困った顔をして髪を掻く。その隣でスキルも眉をひそめて困った顔をしていた。


 この二羽は契約上、ノクティアがしたい事を断れない。しかし、こうも渋るのを見るのは初めてで……。


『あ~くそ! 僕だってオスだから、旦那の気持ちも痛い程分かるんだよ。けど、主人の望みだ! 怒鳴られても知らねぇからな!』


 ヴァルディは髪を掻きむしりながら言った。


  ※


 遠くで柱時計が二つ鐘を打つのが聞こえた。ぼんやりと目を覚ましたイングリッドは、喉の渇きを感じて起き上がる。 

 隣のベッドに眠るソフィアはすやすやと静かな寝息を立てていた。

 イングリッドはベッドサイドのテーブルに置かれた水差しからカップに水をなみなみ注ぐと一気に煽る。


 ……しかし、本当に酷い事になったものだ。片田舎の領地だからそこかも知れないが、こうも恐ろしい獣害が起きるだなんて。


 ほぅと一つ息をつき、イングリッドは部屋を出た。なんとなくノクティアの様子が気になった。 

 襲われ死傷したのは大事な知人。ノクティアからすれば大先輩のような人物だっただろう。そしてソルヴィを心配するあまり彼女は屋敷を出て行った。そうしてひどく怒られて、まるで幼子のよう彼女はずっと泣いていた。


 ノクティアはもう妊娠していてもおかしくないのだ。だからソルヴィが心配するのもイングリッドも分かっていた。

そしてノクティアがソルヴィを案じているのがよく分かる。以前、ヒグマと対峙して守られたが負傷したとも聞いていた。どちらの気持ちもよく分かる。それぞれが大事だからこそ、思いやる気持ちの重点がズレて擦れ違っているのだ。 


 さて。小さく可愛い奥様はしっかり眠っているだろうか。


 イングリッドは主人の寝室に静かに入り、ベッドを見る。しかし布団に膨らみが無い。それどころか、布団も毛布も捲り上がっていて……。


「ノクティア!」


 イングリッドは急ぎ、部屋に戻り、ソフィアを叩き起こした。


---


 それから幾何か。イングリッドはジグルドと馬を相乗りしてヘイズヴィークの丘陵を下っていた。

 馬が走る都度白い粉雪が舞い上がる。氷のような空気の冷たさに、ジグルドの腰を掴んでしがみつくイングリッドは小刻みに震えていた。


 お仕着せに着替え外套を来て、急ぎ探しに出ようとしたが、騒ぎを聞きつけたジグルドとエイリクに止められたのである。現在このヘイズヴィークは獣害に震えている最中だ。


「イングリッド、気持ちは分かりますが冷静になりなさい」


 エイリクに諭されて、ジグルドも含めて話した結果……麓町の人間に協力を仰いだ方が良いだろうとの事。皆が怯えきっている。それもこんな夜半だ。どれだけ協力してくれるかは分からない。

 それでもイングリッドは一人だけ、この人はきっと頼らせてくれるかもしれないという心当たりがあった。

 街の広場で馬を留め。馬から下りるなり、イングリッドは駈け出した。


「おい、姉貴!」


 なるべく街中でも二人で行動するように。そうエイリクにも言われたが、イングリットは一目散に駆け抜けた。


 辿り着いた先は教会だった。イングリッドは冷たい雪が降りしきる中。冷え切った鉄のノッカー扉を何度も叩扉する。


「助けて! ねぇ! 開けてよ! 助けて!」


 イングリッドの叫ぶ声はひどく震えていた。その頬には大粒の涙が後から後から溢れ落ちる。


「助けて! 起きてよ!」

「姉貴、落ち着け! 大丈夫だ。二人とも来るから、すぐ起きるからきっと」


 ジグルドは嗚咽を溢し始めたイングリッドの肩を抱く。それから間もなくだった。扉がゆったりと開き、姿を現したのは、寝間着姿のアーニルだった。

 イングリッドは彼を見るなり、すぐにその胸に飛び込み、彼を見上げる。


「助けて、助けてよ……お願い、お願いだからアーニル、助けて」


 嗚咽を溢し慟哭するイングリッド。アーニルは自然とイングリッドを抱き寄せ跳ねる背を宥めた。


「イングリッド何があった、何が起きたんだ?」


 極めて冷静にアーニルが訊く、しかし感情が決壊したイングリッドは嗚咽が絡み、言葉にできなかった。


「何の騒ぎだ……」


 少し遅れて来たリョースは来るなり、困惑した顔でイングリッドとジグルドを交互に見る。


「ノクティアが失踪した。一人で凶暴なクマを狩りに行った旦那を探しにいったと思う。あいつ、多分神秘的な力を使って出て行った。これまで来た、道も雪原も足跡一つない」

 ──お願いだ、力を貸してくれ、助けてくれ。リョース様、アーニル様。


 ジグルドは胸に手を当て、二人に深く頭を垂れた。



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