目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

60 悪しき獣に鉄槌を

 その頃、ノクティアはヴァルディに森の中で下ろされた。


『恐らく旦那の気配はこの周辺だと思うけど』

「運んでくれてありがとヴァルディ」


 ノクティアはヴァルディの頬を撫でて礼を言うと、彼は少し渋った顔をする。


『言っておくけど、怒られても知らねぇーからね』


 ノクティアは微笑み頷いた。周囲を見ると、少し離れた所に、明かりが見える。恐らくソルヴィの持つカンテラだろう。


『旦那様に違いないです』


 肩に留まるスキルは言う。ノクティアは頷き、明かりの方へ向かった。

 そうして歩んでいれば、あちらも気配に気付いたのだろう。明かりはどんどんと近付いてくる。やがて、大斧を担いだソルヴィの姿が確認できると、ノクティアは急ぎ走り出す。


「ソルヴィ!」


 彼は信じられないものを見るような顔で目を瞠る。しかし、たちまち顔を険しく顰めた。


「何をしている! 家に戻れ! またスキルとヴァルディか!」


 彼が本気で怒っているのはノクティアがすぐ分かる。しかし、ノクティアは食い下がらなかった。


「二羽は何も悪くない! 二羽に命じた私の責任だよ! ソルヴィの方が冷静じゃないよ、無謀でしょ! 一人でなんでも背負って、普通じゃない!」


 ノクティアの叫びにソルヴィは目頭を押さえて、首を振る。


「確かにそうかもしれない……だけど、誰が領地を守るんだ、猟師も怯えて誰も立ち向かえない」


 ──これ以上犠牲なんて出したくない。誰にも悲しい思いはさせたくない。


 そう溢す彼は見た事無い程に憔悴していた。

 ノクティアは彼の手を握り、首を振る。


「ソルヴィは強いし優しいけど、責任感強すぎだよ。全部一人で背負わなくたっていいでしょ」


 その言葉にソルヴィは眉を寄せる。


「私、心配してるの。前にソルヴィが私をヒグマから守ってくれた時の事、よく覚えてる。きっと運が良く逃げてくれたと思う。私ソルヴィに何かあったらって思うと恐くて堪らなかった」

「心配してくれるのは有り難いが、だからといって危険だ。エイリクや侍女たちも心配する。イングルフ様だって……」


 そこで父の名を出されるとは思わなかった。ノクティアは少し驚くが、すぐに首を振った。


「私も力になりたいだけ。私は魔女だよ。契約上命じれば二羽は従うし力になって貰える。精霊の力も借りられる。領地のために力になれると思う。奥さんが旦那さんを助けたいってダメなのかな」


 助けたい。一緒に考えて背負いたい。そう改めて言葉にすると、彼は沈痛な面を浮かべて深く息をつく。


「……ノッティ、すまん。きつく怒って悪かった」


 ソルヴィが謝罪を入れた途端だった。雪をかぶった笹が揺れ動き──途端に、巨大な猛獣が姿を出す。


『──っ危ねぇ!』


 途端にノクティアの身体は宙に浮き、ヴァルディに担がれて空に避ける。

 獣臭だってしなかった。ほんの一瞬でこうも襲いかかってくるのか。確かにこれではマリオラも、ひとたまりもなかっただろう。

 風向きの関係で感じなかったのだろうか。ノクティアは心臓がばくばくと喉元で動くのを感じた。


 しかし本当に大きなヒグマだった。あの晩秋に襲ってきた個体よりも一回りは大きい。

 赤い毛色に胸元にはクリーム色の半月模様。猛獣は低い唸り声をあげて、威嚇に立ち上がる。


「ソルヴィ!」


 下界で彼は大斧を構え、ようやく姿を出した真冬のヒグマを睨み据えている。その形相は普段の彼とは違い、やはり恐ろしかった。


「出やがったな化け物……」


 相手は人を三人も殺した怪物だ。それに、想定よりずっと大きいのだろう。長身な彼よりも遙かに高い。彼の斧を持つ手は僅かに震えている。


 自分も攻撃手段が無いものか。精霊に力を借りるにしても、植物の精霊は攻撃の力を恐らく持っていない。そこで浮かぶのは自分と最も相性の良い者たち……。


 突発でできるか分からない。それでも一か八かノクティアは叫ぶ。


「神聖なる夜の名のもとに命じる──冬の精霊たち、私に力を貸して!」


 頭でイメージしたのは鋭利な刃物のような氷塊だった。するとたちまち、空気中に集まった氷精たちの甲高い笑い声が聞こえた。 刹那──ピキピキと高い音をあげ青白い氷塊がノクティアの周囲に出現する。


「あのヒグマ、人を三人も殺してるの! お願いこらしめて!」


 ノクティアがそう懇願した途端──氷塊はヒグマをめがけて砲弾のように降り注ぐ。

 途端に獰猛な悲鳴が響き渡る。鮮血が雪の上にハタハタと落ち、目の前で斧を構えるソルヴィの顔をも赤く汚す。


 彼は、少し驚いた表情をするが、すかさず斧でその巨体を切り込んだ。


 耳を塞ぎたくなる程に激しい叫びだった。相当痛むのだろう。血がどろどろと噴き出している。致命傷となっただろう。だが生への執着は凄まじいもので、暴れ藻掻きながらソルヴィに牙を剥く。


 手負いの獣は、恐ろしい底力を見せる。そんな言葉をいつだか聞いた事がある。激しい勢いでソルヴィに爪をかけようとした。


『ノクティア、ヒグマの足を凍らせろ!』


 ヴァルディが叫ぶ。ノクティアは即座にイメージする。まるで蔓草が芽吹くよう。氷がその足に絡みつく様を……。


「冬の精霊たち! お願い!」


 そう告げた途端だった。地面から雪煙が立ち上がり、マメの蔓のように、氷塊はヒグマの足に絡み……動きを完全に封じた。


 そこでヴァルディはようやく、地面にノクティアを下ろした。

身動きの自由は奪ったので、あとは一方的に命を奪える。否、もうソルヴィが致命傷を負わせているので放っておいても死ぬに違いない。ソルヴィは斧を担ぎ直して、今まさに命を奪おうと歩み寄る。


「待って」


 地上に降りたノクティアはすぐにソルヴィを止めた。彼は〝猛獣騎士〟らしい、恐ろしい表情のまま、ノクティアを見る。


「このクマ、悪い獣だけど刃物で切るのは痛いと思う」

「ノッティ憎くは無いのか? この獣は三人もの命を奪った。ノッティが尊敬するマリオラの命だって奪った。犠牲者はもっと痛い思いをした筈だ」


 それなりの報復だろう。と、彼は言うが、ノクティアは首を振る。


 確かに許せない。だが、このクマは偶然にも眠る事ができなかったのだ。空腹で凶暴になり、人を襲ってしまった。色々間が悪かった結果なのだろう。

それに、マリオラなら……恐らく痛め付けようだのしないだろう。

彼女の笑顔が頭に過って、ノクティアはソルヴィに向きあった。


「私が看取る……これ以上、痛くないよう苦しめないように眠らせてあげたい」


 そう呟き、ノクティアはヒグマに近付き手を伸ばす。


 脳裏に鼓動が響く。イメージするのは氷の手。それで心臓をやんわりと優しく撫でる。やがて心臓が凍り付き……鼓動が止まる。そうイメージして間もなくだった。ヒグマは緩やかに瞼を伏せた。


「おやすみ」


 ノクティアが呟いた途端、クマの足を縛っていた氷は砕ける。ドシン。と鈍い音がして巨体は倒れた。

 終わった。これで全て終わったのだ。ノクティアの瞳は僅かに潤った。しかし、やはり身体がだるい。ノクティアがふらりとした途端。その背をソルヴィに支えられた。


「大丈夫か?」


思いの原動力的にきっと害は無いと分かっていた。そうでなければ、ヴァルディだって指示しないし信頼していた。ノクティアが「大丈夫」と答えると、彼はほっとした顔をする。


それから間もなくだった。幾つものカンテラの明かりがこちらに向かってくるのが分かった。

 その声は、間違いなくアーニルやリョース、ジグルドのものだった。


---


 真冬のヒグマ騒動後、帰宅したノクティアがイングリッドとソフィア、エイリクにひどくどやされ怒られたのは言うまでもない話である。


「ノクティア様……貴女は特別な地力を持っているようですが、旦那さんの手助けをしたいのもよく分かりましたが、夜中に無断で出て行くなど良くないです」


 どんな動機であっても、それは褒められた事ではない。誰もが心配して不安になる。貴女が思う以上、想っている人間は沢山いるのだと、エイリクに強く咎められた。


 何でもその時のイングリッドはひどく取り乱していたようで……本当に心配をかけたのだと、ノクティアは後で知った。そしてエイリクは、ソルヴィも咎めていた。


「無礼も承知で言います。としての立場になりますが先輩であり、年配者としての忠告ですが、ソルヴィ様は責任感が強いのは良い事です。ですが、無謀という言葉もありますでしょう」


 冷静さが欠けていた、もっと沢山の人を頼りなさい。ノクティア様を不安にさせないようにしなくては。彼は、そんな風に言っていた。

 そうしてノクティアとソルヴィ、夫婦は顔を見合わせる。


「心配かけてすまなかった」

「エイリクおじさんみんな、心配かけてごめんなさい」


 それぞれが謝ると、その場に居たエイリクとジグルドも。また、ソフィアとイングリッドの侍女たちもどこかほっとした顔で頷いていた。



 その日の夜半だった。ノクティアが髪を撫でられる手つきの優しさに目を覚ますと、そこには見知った姿があった。

 ……マリオラだった。彼女はやんわりと微笑み、ノクティアを見ていた。しかし、実体が無い。つまり霊体なのでその身体は透けていた。


「マリオラさん」


 ノクティアが彼女の手を触ろうとするが、やはり掴めない。しかし一言も彼女は話さずニコニコと笑むだけで。


『ノクティアに最後に挨拶に来たのでしょう』


 雪煙とともにスキルとヴァルディが現れる。そして二羽は本来の姿になるとマリオラを労るように背を支えた。


『ノクティア。僕ら少し婆さんをヘルヘイムまで運んでくるよ』


 ……婆さん、ビスケットとミルク旨かったよ。そんな風にヴァルディが言うと、彼女はやんわりと微笑んだ。そしてやがて、二羽とマリオラは見えなくなる。

 ほんのり残ったのは、爽やかで甘いカモミールの優しい匂い。

マリオラの匂いだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?