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61 消せない罪の証

 その日、イングリッドとジグルドはエイリクに呼び出されていた。

 しかし呼び出されたのは、使用人たちの休憩室ではなく、エイリク本人の自室で……。


「姉貴。何かおっさんに怒られるような事やらかしたか?」


 隣を歩むジグルドにイングリッドは首を振る。


「というか、私とあんたで呼び出されるのも変な気がするが。あんたこそ変な事やってない? 風紀を乱すような……」


 たとえば業務中、ソフィアと納屋で乳繰り合っていたのを密告されたとか。なんて、イングリッドが半眼になって言うと、ジグルドはたちまち赤面する。


「んな、してねぇわ!」

「ふぅん。健全なこった」


 しかし、使用人室に呼び出しなんて、いったい何事か。本邸の一階、マラカイトグリーンのカーペットの伸びたひっそりとした奥の方。二人はエイリクに宛てられた自室を叩扉する。

 間もなくエイリクはドアを開き、二人を招き入れた。


「ああ、よく来ましたね」


 人の良さそうな。否、どこか胡散臭い笑顔を浮かべて、エイリクは二人にソファに座るように促した。

 エイリクの部屋は、侍女の部屋同様、非常に質素ではあるが、やはり住み込んでいる年数も長いので、棚には本がぎっちりと詰まっており、生活感がきちんとあった。葉巻をたしなむのだろうか。空間はほんの少しだけ、燻されたような甘い香りがする。


 そうしてエイリクは二人分のお茶を用意すると、イングリッドたちが座るソファの対面に置かれた椅子に腰掛ける。そうしてイングリッドがカップを持ち、お茶を口に含んだ瞬間だった。


「……唐突にはなりますが、イングリッド、ジグルド。私の養子になりませんか?」


 あまりの突飛も無い発言だった。


「ンゴッ……!」


 イングリッドは盛大に咳き込んだ。

 ジグルドは無言でイングリッドの背を摩るが、それでもこれでもかという程に目を丸く開き、何度も目をしばたたく。


「……待ってちょうだい、おっさん、そりゃどういう事なの」


 暫しして落ち着きを取り戻したイングリッドは唇から垂れた水滴を拭いながらエイリクを睨む。

 業務外のおっさん呼びは、もう何とも思わないのだろう。エイリクは否定する事も無く、穏やかにイングリッドに微笑んだ。


「いや、本当によく分からん。何でそうなるンだよ」


 時差式にきたのだろう。ジグルドもまた、目頭を押さえて狼狽えていた。

 エイリクは一つ咳払いで仕切り直すと、二人を交互に見た。


「あなた方、二人は将来ある若者です。ジグルドは既に騎士称号を得ているので、ある程度身分が保障できます。しかし、名字を持たない孤児は、やはり社会的立場が弱いのは存知ですよね?」


 その言葉に二人は曖昧に頷いた。

 事実、姓を持たぬ者の多くは平民以下。路上生活者、ゴロツキ、女衒、売春婦……大概社会の底辺にいる。自分たちの母は異国人の売春婦。母親が死んで置き去りにされた子どもなので、社会的立場なんてほぼ皆無に等しい。

 イングリッドが眉を寄せると、エイリクは穏やかに彼女を呼ぶ。


「イングリッド……特に貴女です。貴女は残念ながら侯爵家で働いているにしても、身元を証明できません。社会的立場は弱いままです」

「そら知ってるよ」


 即答すれば、エイリクは頷いた。

 身元の証明……しかし、今更何の為に。イングリッドは眉を寄せて首を傾げた。


「おっさん、そんなもの無くたって別に私は……」


 その言葉にエイリクは、すぐに首を振る。


「貴女はうら若い。まだ二十一の娘です。未来はあるでしょう」

「だから、その未来って。この屋敷で可愛い奥さまにお仕えするのが私の仕事だと思うけれど」


 ──それだけ与えられていればもう充分じゃないか。そんな風に言うと、エイリクはやれやれと首を振った。


「もっと簡単に理由をお話しましょうか。あなたたちだってこの先、結婚する機会だってきっとあるでしょう。その為ですよ。ときにジグルド。貴方はソフィアと良い関係を築いていますよね? 恋愛をしている時点で貴方は、妻子を持つ機会があっておかしくありません」


 その言葉にジグルドはたちまち頬を赤くする。しかし、唇をモゴモゴと動かすばかりで頷かなかった。そんな様にエイリクはため息を一つ。厳しくジグルドを見据えた。


「まさか、貴方。ソフィアと無責任に付き合っているなどありませんよね?」

「ちげぇよ、真面目に想ってはいる。いるが……」

「貴方が本当に愛おしい人と結ばれたい。そう想った時必ず、姓は更なる後ろ盾になります。必ず手助けになる筈です」


 そう言われて納得したのだろう。ジグルドはエイリクの言わんとした事が全部伝わり納得したのか、後ろ髪を掻きながら頷いた。イングリッドも納得した。しかし、その表情は曇っている。


「おっさん。たしか貴族出身で、爵位は男爵家だっけ?」


 イングリッドが訊くとエイリクは頷いた。


「ええ。ですが、侯爵家に入ってから男爵家の戸籍からは外れており、家名はそのままで個人の籍となっております。扱いとしては、もう平民とほぼ一緒です」


 平民と同じ。そう聞くと少しだけ気が軽いが、それでも本家の者に許可は得なくてはならないだろう。それに彼の年齢なら妻子もいるだろうに。その旨をイングリッドが訊くと、エイリクはすぐに首を振った。


「私が若者だったあの時代、戦もありまして、縁談も破綻。結婚の機会に恵まれず、私はずっと独身です。勿論、本家の兄に養子を取る許可は取ってありますよ?」


 そんな風に言って、エイリクは少し照れくさそうに微笑んだ。

 しかし独身というのが驚いた。なんとなく、彼の年齢からして、離れて暮らす、妻子がいるのだとばかり思ったので。

 しかし、それでも姓なんてたいそうなものを貰ってよいものか。ましてや娘と息子になるなんて。未来ある……イングリッドはその言葉に眉間を揉む。

 やはりそんなものは輪郭さえ掴めない。


「ねぇ、おっさん。それはジグルドだけに与えてやりなよ。私には必要ないと思う」


 そんな予定も未来も無い。ありえない。そう言うなり、イングリッドは立ち上がった。


「お茶ご馳走様」

「イングリッド……」

「気持ちだけはありがとう」


 エイリクにそれだけを言って、お仕着せの裾を摘まんで綺麗な一礼するなり、イングリッドは部屋を出て行った。



 残されたジグルドとエイリクは顔を見合わせる。


「どうしたものか……」


 呟くエイリクにジグルドは肩を竦めた。


「さぁな。ただ〝あれ〟だと思う……」


 ジグルドは指で己の首と胸を示す。それでジグルドが言わんとしている事を理解したのだろう。エイリクはため息とともにこめかみを揉んだ。


 ※


 冬の終わりも近付く頃。ノクティアは室内で黙々と皿に絵付けをしていた。青い絵の具で描いた模様に丸い花弁の黄色の花。

 ノクティアの作る可愛らしい絵付けの皿は食堂に務める料理人たちに評判を呼んでいるそうで、何枚か作って貰えないかと頼まれていた。


 幼い頃よく、絵を描いていたものだと思い出す。母は幾度か、紙と絵の具を買ってくれて、二人で絵を描いて好きな食べ物を描いて笑い合っていた。 

 しかし最近描くのは植物ばかり。絵付け皿のデザインも全て植物がモチーフになっていた。参考の本はマリオラがくれたあの本で……。 


 あの事件から一ヶ月以上が経過するが、それでも時折思い出しては寂しい気持ちになるものだった。


 もっと話がしたかった。そんな風に寂しく思うものの、こうして花の絵を描いている時間や、精霊と繋がる時間は彼女とどこか繋がれている心地がするものだった。

 そうして別の絵の具をパレットに出そうとした時だった。叩扉がして、入ってきたのはエイリクで……。


「ノクティア様、今。侍女たちは?」

「二人ともお風呂のお掃除に行くって言っていたよ。今はいない」


 そう答えると、彼は困ったような顔でノクティアを見る。どうしたのだろう……。いつもは様子の違うエイリクにノクティアは首を傾げた。


「少しノクティア様に伺いたい事があるのです。イングリッドの事ですが……」


 エイリクは、少し苦しそうに語り始めた。


 ……何やら、最近イングリッドとジグルドに養子を組まないかと言ったそうだ。

 それは、彼らの身分の証明の為。そして未来の為。しかしイングリッドは「私には必要ないと思う」と、そんな未来はありえないと……。


「ノクティア様ならどうお考えですか? ジグルドはきっと罪人のタトゥーの事だろうと。あの子はどんな罪を重ねたというのです」


 どうしたら過去の罪から救い出せるのか。彼女の心を温め癒やせるのか。そんな風に聞いて俯くエイリクの一瞬の隙。ノクティアはすぐに立ち上がりエイリクの肩を叩く。


「ねぇエイリクおじさん。これ見て」


 そういったノクティアの手には、ハンカチーフがあった。それを見たエイリクは目を瞠る。


「……ノクティア様? これは」


 信じられないものを見たとでもいった様子だった。エイリクは唖然としてノクティアを見上げる。

 それは、エイリクの一瞬の隙を見てポケットから引き抜き奪ったハンカチーフで……。


「こんなの見せるのは初めてだよね? あの街で私は、スリだった。人の物を盗んで、奪って、分け与えて生きてきたの。それはイングリットも同じ。ただね、イングリッドは知って通り、とても腕っ節がいい」


 ……つまり強盗だ。人を傷付け脅かし、奪う事で罪人となった。


「私は人の為になって償おうとしている。イングリッドだってそうだと思う、だけど身体に……」


 それは罪を背負って誰かを守った勲章であっても、環境が変わればまた捉え方も本人は変わる。想像は容易かった。それが未来に踏み出せない足枷なのだと。


「あの子はここで真面目に働き、他の使用人も気に掛けもう充分に……」


 変わっただろう。償おうとしているだろう。そう溢すエイリクは眉間を揉んで俯いた。


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