季節は冬の終わりに。三月に入って雪も止んできた。
ソルヴィは王都に用事があるようで、また今年も王都に向かっていた。今度はジグルドを連れて。なので、恐らく騎士団に向かっているのだと思しい。 王都に行けば三日ほどソルヴィが帰ってこない。 そんな中、やはり侍女たちと過ごす時間がいつもより増えていた。
しかし、エイリクからあんな話を聞いてからというものの、ノクティアはずっとイングリッドの事が気になるようになっていた。
少し前にジグルドにも話を聞いたが、養子の話は決して悪い話でないと彼は捉えているそうだが、やはり姉も承諾しない事には気が進まないという。
「唯一無二の姉貴だしな。説得したい気持ちもあるが、この問題は繊細だ。俺だって沢山タトゥーが入っているが、姉貴は女だ……男と女じゃ、環境も変わると考え方もやっぱ違うんだろうな」
そんな風に語るジグルドの言葉にノクティアは納得した。間違いなく、繊細な心の問題に違いない。
置かれた場所で咲く事はできても、花自体は変わらない。
きっと、本人に余計な詮索はしない方が良いだろうとはなんとなく思う。だが、イングリッドは察知能力が高い。そして、他人の感情にも敏感ですぐに気付くもので……。
「ノクティア。何だか、あんたってば私をやけに気に掛けているかんじするけど、おっさんから何か聞いたの?」
侍女たち含めて三人で昼食の最中。あまりに的確な言葉をイングリッドが言うので、ノクティアがギクリとする。
対してイングリッドは軽く笑い「まったく、ノクティアは分かりやすいね」なんて半眼になった。
「ごめんね。少しエイリクおじさんから聞いたの。確かに私たちはとても悪い事はしてきたけど……イングリッドだって今は」
そう言葉に出すと、食後のお茶を飲みながらイングリッドは首を振って呆れ笑い。
「私はノクティアみたいに特別な力も無い。誰かを救ってあげる事なんてできない。ジグルドのように、立派になれていない」
──変われているようでも、変われていないのさ。なんて呟いてカップを置く。
さて。片付けようね。なんて立ち上がるが、それをすぐにソフィアは制した。
「待って。イングリッド、貴女はどうしてそんな風に思うのです?」
ソフィアの言葉に、イングリッドは眉を寄せる。
「そのまんまの意味さ。確かに私は今、貴族の屋敷で働いている。だけど私自身の根本が変わったなんて思わないさ。それに……結婚だの将来だのは考えられないよ。自分が犯した罪よりずっと良いものを貰うだなんておかしい話なのさ」
そう言葉にした途端だった。立ち上がったソフィアはイングリッドを見て、呆れたように微笑んだ。
「……イングリッド、貴女って本当はとても臆病で、どこまでも素直じゃないのですね。貴女って過去に縋り付いて、変わる事を恐れ、甘えていませんか?」
ソフィアがそう言葉にした途端だった。イングリッドはソフィアに詰め寄るなり、彼女の胸倉に掴みかかる。
「誰が臆病だって? 知ったような口を聞きやがって」
明らかな怒気を滲ませていた。その声もがなりを含んでいて、まさにノクティア自身が守られてきた〝ロストベインのイングリッド〟だ。
「イングリッド、やめて!」
ノクティアが慌てて間に入ろうとするが「引っ込んでろ!」と彼女はドスの利いた声で一蹴りする。
一瞥されたが、その眼光はあまりに鋭く、彼女が本気で怒っているのが分かった。
これはまずい……。本気で怒ったイングリッドはジグルドくらいにしか任せられない。男手がなくては抑えられない程だ。けれど、今はジグルドもソルヴィもいない。エイリクを呼ぶべきか……。
しかしこの状況を他の使用人を介入させたら良くない事が起きるような予感がした。眠らせた方が良いだろうか……。
「イングリッド、落ち着いて。こっち、ちょっと見て」
ノクティアは言うが、彼女はノクティアを一瞥もしなかった。
「イングリッド、貴女は優しい。優しいけれど、貴女って、とてつもなく臆病ですよ。そして本当は脆い。脆いから逃げるのでしょう、そして誰も頼らない。だけど、貴女、たった一人に〝助けて〟と言えたらしいじゃないですか」
淡々と言うソフィアの言葉にイングリッドはたちまち唇を拉げた。
「……ジグルドか? 余計な事を教えやがってあの野郎」
しかし、何の話だ。助けてと、たった一人にだけ言えたとは……。ノクティアが眉を寄せると、ソフィアは凄むイングリッドに微笑んだ。
「どういった関係かは、どんな過去があるかは存じていませんが……貴女、アーニル様を慕っているのでしょう? たった一人頼れる相手なのでしょう」
途端にイングリッドの頬はカッと赤く色付いた。そして、ソフィアの胸倉を掴んでいた手を乱暴に離す。
「てめぇ! 私はそんなんじゃ……! 違う!」
「もっと素直になったらどうなのです。助けて欲しい時に本当に頼れる人に言えるんですから、できるはず。過去の事より、自分がどうしたいのか、どうなりたいのか考えたらどうなのです。罪は消せなくても償えるでしょう」
そう言うと、ソフィアは振り呆れたようにイングリッドに笑む。
「ううん。貴女はもう償えていますよ。私もノクティア様も救われています。力持ちで優しい頼もしい明るい貴女に、屋敷の使用人たちは何人も救われていますよ」
その言葉にイングリッドは更に紅潮した。しかし、その瞳は妙に潤い揺れている。
「イングリッド。貴女の人生は貴女のもの。自分の為にある人生を、どうして自分がしたいように、素直に生きられないの? 貴女は未来を切り開いていかないと。もっと広い視野で見ないと」
ソフィアの言葉にイングリッドは目を瞠るが、すぐに俯いた。
「……好き勝手に言いやがって、ふざけんな」
俯いたイングリッドはぽつりとそう呟いて、部屋を出て行ってしまった。
乱雑にドアを閉めて、彼女の走り去る足音が遠くなる。
「まったく、私一人に片付けさせるのかしら」
そんな風に言って、ドアを見つめたままのソフィアは呆れ笑いを浮かべている。しかしよく見たら、彼女の胸元は随分と開けていた。胸倉を掴まれた時にボタンが飛んだのだろう。
「ソフィア大丈夫?」
心配して聞くと、彼女は首を振りやんわりとした笑みをソフィアに向けた。
「ボタンはつければ大丈夫ですよ。ノクティア様が旦那様のお母様から頂いたドレスの裾上げと一緒に、さっと縫っちゃいますから」
そう言って、彼女はいつものように笑む。
「ソフィア。怒っているイングリッド、恐くなかったの?」
思わず聞いてしまうと、彼女はクスクスと笑った。
「どんなイングリッドでもイングリッドに違いないですもの、恐くないですよ。それに、ああやって威嚇するのって、触れられたくないものがあるから毛を逆立てるのですよ。だけど目視できない傷跡を確認するには、触らなくてはいけない」
怪我を負ったネコだって、犬だって、きっと怒るでしょう。なんてソフィアが微笑む。彼女の場合はロストベインの凶獣のお姉さん。獰猛なクズリかもしれませんが……。なんて付け添えて、ソフィアはノクティアを見る。
しかし、ノクティアは一つ不思議に思えた。
「ねぇ、ソフィア。イングリッドがどうしてアーニルに助けてなんて……それってもしかして」
訊くと彼女は頷き、緩やかに唇を開く。
「獣害事件の時ですよ。イングリッドがノクティア様を心配して取り乱していたとは聞いているかもしれませんが、本当に普段の彼女とは想像も付かない程の酷い取り乱し方でした」
……あとはジグルドから聞いた話だそうだが、ジグルドと馬で街を降りてすぐに、教会に駆け込んだらしい。そして、助けて欲しいと、アーニルの名を呼んで泣いたそうで。
そんな事が起きていたとは……。
心配を掛けてこっぴどく怒られやしたが、こうも心配を掛けていたとは知らなかった。
しかし、アーニルと。ずっと、警邏の騎士とゴロツキ。その間柄は既に知っていたが、人知れず絆があったのだろうか。だがイングリッドときたら、どうにも煙たそうな顔をするばかりなので、とてもではなく分からない。
素直じゃない。ソフィアの言ったこれは本当ではないのか思えてしまった。
「だけどこんな喧嘩して。ソフィアとイングリッドが仲悪くなったら嫌だな……」
ノクティアがそんな風に言うと、ソフィアはクスクスと微笑んだ。
「ノクティア様、大丈夫ですよ。私もイングリッドもいい大人。表情を見る限り、イングリッドだって私の言いたい事も分かっていそうですし、否定したいなら強く言い返す筈。私たちは侍女ですから、話す機会はいくらでもありますし」
心配しなくて平気です。なんて、にこやかに言うとソフィアは片付けを済ますなり部屋を出て行った。
※
庭の井戸の前、イングリッドは何度も顔を洗っていた。指先は悴んで真っ赤になっている。しかしその瞼も赤くて……。
図星だった、ソフィアの言葉はあまりに的確で何一つ言い返せなかった。それがあまりに悔しくて、涙が止まらなかったのだ。
確かに踏み出すのが恐かった。アーニルの事も。
ブリキの桶の中の水にぼんやりと映る自分の顔は普段になく弱々しく情けないもの。
寒いのに瞼が燃えるように熱い。イングリッドは溢れ落ちる涙が煩わしく思って、桶に顔面を突っ込んだ。