ソフィアとの口論の後、イングリッドは業務をさぼり納屋でぼんやりと頭を冷やしていた。
干し草の上に蹲って、一時間以上。じっと考えていれば、庭師のタリエに見つかった。顔を見るなり心配されたのは言うまでもない。
「おかまいなく」
そう静かに言ったが、風邪を引いてしまうとコートを掛けられて、庭の端にこぢんまりとある彼の滞在する丸太小屋に連れて行かれた。
ストーブの前に案内され、お茶を出されてそこで暫く暖まらせてもらった。タリエは何も言わず、黙って木を削っていた。同じような形のものが何個も並べられているので、恐らく花壇を区切る柵だろう。 そこで、ぼんやりと暖まっていればなぜだか思考は落ち着いてきた。
ソフィアの胸倉を掴むだの、さすがに冷静さに欠けていた。恐がってはいない様子だったが、あれだけは謝るべきだろう。それに、業務をさぼるなど良くない。段々と、通常の思考に戻ったイングリッドは、タリエに礼を言う。
「ありがとね。恥ずかしい所を見せたよ」
「落ち着きましたか? 確か貴女ノクティア様の侍女の。納屋で怪我をした……」
イングリッドは苦笑いで頷いた。
「泣いている使用人を匿うなんて、随分と久しぶりで懐かしかったですよ。若者は色々悩む事も多いでしょう。ですが、〝今だからこそ〟ですよ」
ナイフで木を削りながらタリエは笑う。その表情は穏やかで瞳にはとても優しい色を宿していた。
「困った事があれば来なさい。庭師でよければ話くらい聞きましょう。それに使用人頭のエイリクも頼りなさい。あれは頭の固い男ですが、いい奴です。頼りなさい」
……しかし、まさかエイリクの名を出されるなんて思いもしなかった。イングリッドは少し驚いた顔をするが、すぐにやんわりと笑む。
そうして、庭を後にして業務に戻れば、ソフィアはいつもとなんら変わらない様子で迎え入れてくれた。
「もう、イングリッド! どこで油を売っていたの! 今はジグルドさんも居ないし、探しに行っても貰えないし」
洗濯を畳んで、風呂掃除。一人で忙しかったんだからと彼女は頬を膨らませる。
「悪い悪い。それよりソフィア……」
胸倉を掴んだ事、いきなり剣幕に怒鳴った事をイングリッドが詫びると、彼女はやんわりと微笑んだ。
「ふふふ。いいですよ。イングリッドは私より二日年下の可愛い女の子なので許しちゃいます」
どこか悪戯気にソフィアは笑う。しかしその笑顔が可愛らしくて、ジグルドが惚れるのも分からなくもない気がした。きっと男だったら好きになっていたかもしれない。そんな風に思いつつ、イングリッドは破顔する。
「ばぁか。たった二日なんて、大差ないでしょう
呆れつつも笑うと、ソフィアも優しく笑んでくれた。
※
その日の夕飯の席。昼間の険悪さが嘘のように給仕をする二人の侍女はすっかり元通り。それどころか、いつもより仲良く親しげになっている事にノクティアは驚いてしまった。
「ソフィア。ワゴンのものは私が先に片しておく。あんたは煖炉でお湯を沸かしておいて」
「ええ。分かったわ」
……いい大人。ソフィアがそう言ったが、これは本当なのだろうとノクティアは思った。自分よりたったの三歳ほどしか変わらないが。
「二人とも仲直りしたんだね、良かった」
席について二人を交互に見てノクティアが言うと、彼女らは顔を見合わせて微笑み合う。
「ええ、私たち喧嘩なんてしていませんもの。イングリッドが一方的に逆毛を立てる子猫……ちがう、クズリになっちゃっただけですから」
そんな風に笑う、ソフィアにイングリッドは半眼で睨む。
「おい、ソフィア」
しかし、イングリッドはすぐに噴き出すように笑った。
「……まったく。侍女の先輩で二日年上のお姉様には叶わないよ」
ノクティアも心配掛けてごめんな。なんて、イングリッドが謝るので、ノクティアは首を横に振る。
「上手くは言えないけど。私のお姉さんが……イングリッドが元気で幸せでいてくれたら嬉しいよ」
紛れもない言葉だった。彼女は綺麗な顔で微笑み、頷き「ありがとう」と穏やかに言った。
※
春も近付く三月。そろそろ社交シーズンがやってくる。エリセはひどく億劫だった。
去年の社交シーズンは、収穫無し。作戦を変更し、義姉を追い出し、ソルヴィとエリセをくっつける戦法になった筈だが……義姉ノクティアがどうにも、聖なる力を隠し持って持っていたそうで、領地中の人間から絶大な人気を集めている。
更に、この冬ヘイズヴィークを震撼させたヒグマ騒動の際に夫である領主ソルヴィと共闘し守り、更に名声を上げた。
ただの庶子が、今ではこの領地でヒースの聖女だの囁かれる尊く思われる英雄だ。そして誰からも愛されている。まさに、幸せの真ん中にあるような人物だった。
その事にエリセはむしゃくしゃとしていた。しかし、彼女に当たる事は何もかもが空回りする。
たとえば、先日屋敷内で擦れ違った際、随分と古めかしいデザインのドレスを身に纏っていた。それはもう自分の母親が娘時代に流行ったようなデザインで……。
「あらぁ~お義姉様。随分古典的なデザインのドレスですわね。古めかしくて恥ずかしい」
なんて言ってやれば、隣に控えたソルヴィは途端に満面の笑顔になる。
「エリセお嬢様、確かにそうでしょうね。妻の服は、私の母のお下がりです。母が大変ノクティアを可愛がるもので」
──どのようにしたら、もっと今風に愛らしくなるのか。どんな加工を施すと良いものか、瀟洒なお嬢様に聞きたいです。なんてソルヴィ本人に聞かれてしまったので、困惑した。しかし、即刻そんな序言なんて浮かぶ筈もなく……。
本当に何もかも上手くいっていない。何もかも、ノクティアが上手くいきすぎていて、羨ましさを素直に感じていた。
その一方、母は年々と凄みを増して機嫌が悪くなっていた。エリセ自身、母の事は大好きだが、ここ最近は手厳しく怒られてばかり。近付くのが億劫になっていた。
もう結婚なんてどうだって良かった。
身分が高く、頼りになる殿方が良い。そんな理想論はあるが、それでも、何よりも、こんな自分を大切にしてくれる人が良い。そう思うようにはなっていた……しかし、それでは母も許さないだろうと。やはり身分は大事に違いない。
……そこで着目したのは、騎士階級者だった。
ふと、すぐに目に入ったのは、この冬よくこの屋敷を出入りしていた教会省の聖騎士だった。
青光りするほどの艶やかな黒髪に、アイスブルーの瞳。その面輪は精悍で、麗しい男だった。
名はアーニル。しかし彼の家の出を調べさせた所、平民出身だった。それに、彼の視線の先には、義姉の仲間だったという赤毛の侍女がいた。
王都の警邏の騎士と王都で悪名高い貧困街の元ゴロツキという間柄。何か因縁……否それ以上の絆でもあったのかと想像は容易い。二人が話す様を遠目で見た事があるが、赤毛の方は煙たそうな顔をするものの、頬を赤らめるもので……。
(どうして私が気になった人には、みんな相手がいるのかしら……)
王子も侯爵家の嫡男も、ソルヴィも、この聖騎士も……。
この世界のどこかに、本当に自分の事を心から愛してくれる人がいるのだろうか。それでいて、母を納得させられる程の身分ある男性はいるのだろうか。エリセは暗いため息をついて、本邸最上階へと向かった。
そうして階段の突き当たりの部屋を叩扉する。内側からは静かな返事が聞こえて、エリセはドアを開けた。
痩せ細って枯れ枝のようになった壮年の男が、エリセを見るなりに微笑んだ。その面輪はどこか、義姉のノクティアに似ている。それでも、慣れ親しんだ顔。大好きな父で……。
「お父様、今日は起きていたのね」
「なんとなく今日はエリセが会いに来てくれるかな、なんて思ってな」
悪戯気に父は笑う。しかし、本当に日が経つ毎に窶れている気がする。まるで日々、その命を削られているような心地がして、詫びしさを感じてしまう。
エリセは父の横たわるベッドの傍に備え付けられた椅子に座り、不安そうな瞳で彼を見た。
「お父様、死なないで……お父様だけは私を一人にしないで」
心の不安を吐き出すと、父はすぐに破顔し手を伸ばしエリセの手を握る。
「エリセ、俺がそう長くは無いのは見て分かるだろうが、可愛い娘を一人になんかさせないさ。どんなになってもお前の事は見守っているよ」
「長くないなんて言わないで。良くなってよ」
遠からず見える死に涙が勝手に滲んだ。それを悟ったのか、父は身体を起こし、エリセを抱き寄せる。か細い腕だった。それでも見つめる瞳の力は強い生命力をまだたたえていて……。
「俺はエリセが幸せになってくれたら嬉しい。きっとフィルラに怒られたのか? 焦らないでいいさ。エリセが幸せになれる結婚をしてくれればいい。俺はエリセの幸せを祈っているよ」
そう言って、髪を撫でられると、幼い日の事をふと思い出す。
父に庶子がいた。その話を聞いた時やはりショックを受けて泣き崩れてしまった。
しかしその時、父は言ってくれた。平等に娘だと……平等に愛していると。
庶子がいたと知っても父だけは嫌いになれなかった。
義姉ノクティアを見て、ないものねだりの嫉妬や羨望はあったが、やはり羨望は消えなかった。
灰金髪、或いはヒースに似た淡い紫の瞳。どちらでも良いが、大好きな父の色が一つでも遺伝して欲しかったとやはり思う。エリセは父の胸の中で静かに泣いた。
神様。まだ父を連れて行かないで、私を一人にしないで。ただそう願わずにいられなかった。