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第九章 命は巡り、終える時

65 奥底に埋もれた素直な心

 アクセサリー店で髪飾りを見た後、イングリッドが足早に馬車に戻ろうとしていれば、ある男に呼び止められた。アーニルだった。


「君に大事な話がある」


 そう言われて教会の前までやってきた瞬間だった。 その場に跪かれて……「君の事を諦められない」「好きなんだ」と彼に手を取られた瞬間にイングリッドの心は大きく波打った。


 ……別に、この男に嫌悪感など無かった。

 しかし終わった恋だと四年前に自分なりに片を付けた事を、今更のようにほじくり返させるのは良い気分ではなかった。


 終わったのだ。鬱陶しい程に絡んできて、勝手に世話を焼いて、いつの間にか居なくなって、それで終わったというのに、再び会って距離を詰めてくるなど勝手にも程がある。


「──ふざけるな!」


 喉の奥から漏れた罵声は、自分でも驚く程に震えていて情けなかった。イングリッドは繋がれた手を振りほどこうとするが、それでも彼は離そうとしない。


「離せよ、やめろ。私にもう構うな!」

「どうしてだ。あの日、俺を頼ってくれたじゃないか。イングリッド、俺は君の本当の気持ちが知りたいんだ」


 あの日……真冬の獣害事件の事だろう。ノクティアが失踪し取り乱した際、本能的にこの男に頼った事はあった。イングリッドは苦虫を噛みしめた面になった途端だった。


「あらぁ。何の騒ぎかと思ったら、あの子、確かノクティア様の侍女さんの……」

「もう一人は、教会省の聖騎士様?」

「まぁ、痴話喧嘩かしら」


 街行く夫人たちが足を止めて野次馬に来たのだ。それに向こうの方からは、侯爵夫妻と同僚のソフィアと……まさに今、まさに待たせている顔ぶれもあって。

 それに気付いたイングリッドは自分の手を掴む彼の手を剥がそうとするが、その手まで包まれるように掴まれてしまった。


「おい、ふざけんな! クソ聖騎士! 離せと言っているだろ!」

「嫌だ、もう離さない。話を付けるまで離さない」


 そんな風に言ってアーニルはじっとりと目を細めてイングリッドを射抜く。もはや駄々を捏ねるようにさえ写り……。


「主人たちを待たせているんだよ! タイミング最悪すぎ、そんなの今じゃなくていいだろ。こんなに人が大勢……」


 つい感情的になってしまい、騒いだのが悪かったのだろう。周囲には人だかりができていた。イングリッドは顔を真っ赤にしてアーニルに捲し立てると、思わぬ場所から声が飛んできた。


「許可している。別に帰りの時間は気にするな」


 それは低くて平らなもの──ソルヴィのもので。一緒に居たノクティアもソフィアも目を丸くして、こちらとソルヴィを交互に見る。


 つまり、秘密裏で共謀していたという事か。確か、騎士としては同期と言っていた。屋敷に出入りするようになって、仲の良さは充分に窺えていたもので……。

 完全にしてやられた。イングリッドは目頭を押さえて、ため息をつく。


「なぁ、せめて話をするなら、人目がつかない場所にして欲しい」


 呆れ気味に言うと、彼は承諾しイングリッドの手を引いて教会の敷地に入る。


「ソルヴィ、悪いが少しだけ奥様の侍女を借りる」


 アーニルの言葉に、ソルヴィは頷いて手を振った。 生け垣沿いに歩むと、こぢんまりとした庭がある。その小さな庭の端のベンチに彼はイングリッドに座るように促した。


「イングリッド。前から察しているが、君は身分を気にしているだろ。ただ俺の生まれが平民って知っているよな?」


 座るなり彼は足早に本題を言う。しかしそんなのは知らない。てっきり貴族の出とばかり。

 イングリッドが首を振ると彼は驚いた顔をした後、後ろ髪を掻く。


「だけど、あんたは騎士階級を得ている。たいそうなもんだよ」

「じゃあ、君の弟はどうだ?」


 そこを持ってくるのか。さすがにそれは狡いだろう。イングリッドが半眼になると、彼は軽い笑いを溢す。


「ソルヴィたちを待たせているからな。なるべく手短に言う。俺が聖騎士になった理由、イングリッドにはきちんと伝えたい」


 聞いてくれるか? と真摯に言われたので、イングリッドは訝しげな顔のまま頷いた。


 ──騎士というのは、実力主義な部分があるが、やはり貴族の出の者は優遇されるらしい。

 彼は庶民出身。体力・能力を見込まれ、騎士の称号を得たが、やはり王都で警邏の騎士をしていたあの頃は立場が極めて弱かったらしい。


「捕まった君が、俺の上司から酷い暴行を受けたのを目の当たりにした時、騎士って何だろうと思ったんだ」


 アーニルは目を細めて遠い昔を懐かしむように言う。

 窃盗は悪い事に違わない。しかし、貧困に喘ぐ弱い立場の者がどれだけ必死に生きているのか、そうしていかないと生きていけないのか、イングリッドに出会って知ったのだと、アーニルは言う。


「事実君は、窃盗で生計を立てる悪人だったが、真っすぐだった。喩えるなら、真冬の雪の中の焚き火のようだった。苛烈に燃え盛り、周囲を温める強く美しい炎みたいだった」


 その炎を守りたくなった。貧困者の居ない世にしていきたい。貧困者たちに道を与えたい。そんな風に思ったのだとアーニルは語る。

 その為には自分の立場をより強固にしたいと思った。生まれで差別されない為に実力で勝ち上がれる場所に行こうとした。それが聖騎士になる道で。


「聖騎士は特殊だ。実力さえあれば、身分など関係なく誰でもなれる。騎士階級の中でも立場がかなり良い。だが、入省したら三年は俗世から離れなきゃいけない」


 教会省に入り、聖者の付添人になる。入省する際は家族や恋人など関わりある者に教えてはいけない。そんなしきたりがあるのだと言う。一時的にこの世との縁を切る。あくまでも聖なる騎士。だからこそのしきたりなのだと。


「だから何も言わずに消えたのは悪かったと思っているよ。待っていなかったのは察している。だけど、俺は君という炎を忘れた事が無かったよ」


 ──イングリッド。と、彼は、優しく穏やかに心底愛おしそうに名を呼んだ。イングリッドの頬は再び紅潮した。それは怒りではなく、今度は照れで……。


「沢山の偶然が重なった。こうしてまた会えた。ソルヴィが道を与えていたから、俺の役目は無いかもしれないが、頼ってくれた時は嬉しかった。強い君がくじけそうになって、その炎が消えそうになった時に寄り添える男になりたいと思う」


 ──永遠を前提とした、恋人になって欲しい。だから君の心根にある声が聞きたい。

 その言葉はイングリッドの心を酷く揺さぶった。


「だけど、私にそこまでするのは、おかしいよ。私は元ゴロツキだ。暴力なんて日常茶飯事だった。窃盗で生きてきた。沢山の罪を重ねている」

「知っているさ」

「あんたは私の身体を何度か見たよね。あの頃より、タトゥーが沢山入っている。これはお守りで誇りだった。だけど、真っ当な生活を送れるようになった今では……」


 消せない罪を露わにした呪いのようだ。と口にしたいが、言葉にできない。しかし、アーニルはそれで察したのだろう。


「必死に生きた誇りだと思え。俺は君の身体に刻まれた〝強く生きた証〟を全部愛したい」


 その言葉を聞いた途端に、イングリッドの灰の瞳は潤った。


「……私だって、あんたを忘れた事は無いよ」


 無かった事にはできなかった。

 助けられたあの夜も、街頭に立ち春を売ろうとして捕縛された日も。安宿で抱かれた日も。好きだと告白された事。雪の降りしきる中、奢って貰った飯の味。二人きりの時に見せる笑顔も、精悍な顔が優しげになる面輪も何もかも。

 イングリッドの瞳には水流が生まれた。


「全部受け入れるよ。恋人になってくれるか?」


 心底愛おしむような優しい声色だった。イングリッドは頷くと、彼は微笑む。そして、頤を摘ままれ──やんわりと唇は重なった。


 ---


 それから、数日後。

 イングリッドは再び、エイリクの自室に呼び出されていた。

 そこには数枚の書類とペンが用意されている。

 既にサインの記されたものもあり、そこには〝ジグルド・エイリクソン・イスヴァン〟と荒々しい字で書かれている。間のミドルネームは息子のみ適用される父の名から取るものだ。


「イングリッド、じゃあ貴女も……ここに」


 紙を渡され、イングリッドはまだ覚えて間もない文字で名を綴る。〝イングリッド・イスヴァン〟と……。


「はは、これじゃあ〝おっさん〟なんてもう呼べないね」


 わざとらしく肩を竦めて言ってやると、エイリクはふっふと声を出して笑う。


「しかし、良かったです。あなたたち、きょうだいがちゃんとした道を歩める事、全てが順調に素敵な方向に進んだようで」


 エイリクの言葉にイングリッドはすぐに眉をひそめた。


「なんかあの件、旦那様も介入して秘密裏でやっていたけど、まさか……」


 先日のアーニルの件だ。

 あの後、ソルヴィに秘密裏に仕組んでいた事を謝られたが、雇ってくれた主人だ。文句なんて言えたものではない。それにアーニルとの蟠りが解けたのは、イングリッドとしても心がすっきりしたものだった。


 だが、どうにも、名字を与える件をかぶらせてきたので、エイリクもそこに加担していたのではと窺える。


「どうなのさ」


 半眼になって聞くと、エイリクは微笑み「さぁ」なんてわざとらしく首を傾げた。


「私も騎士ですからね。後輩が悩み、蟠りを解きたいだの聞けば応援したくもなりますよ」


 そんな風にエイリクが笑うので、イングリッドは呆れたように笑う。


「そうかい。後輩思いで優しいんだね、は」


そんな風にわざとらしく言ってやると、エイリクは目を瞠るが、優しく微笑んだ。


「勿論、可愛いじゃじゃ馬娘の幸せを願っています。インギー、貴女は心根がとても暖かい子ですから」


 そんな言葉を言われて、イングリッドは頬を真っ赤に染めて礼を言う。


「私、それ結構好きかも」


 生まれて初めての愛称に、イングリッドはエイリクに微笑んだ。





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