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66 甘やかな薔薇の娘

 五月の中頃。麗らかな春、真ん中のルーンヴァルトは、様々な植物が芽吹く時。ノクティアはその日の早朝、目を覚ますなり、何だか急に庭に出たくなった。


 薔薇が花を付け始める季節だ。昨日庭に出た時に一輪の蕾が大きく膨らんでいて、今にも一番花が綻びそうだった。

 植物の精霊たちと関わるようになってからだろう。ノクティアは毎日、そんな些細な変化を見るのが、楽しみで仕方なく、自然とウズウズしていた。


 とはいえ、寝起きすぐは身体が動かない。その理由はノクティアの隣に。ソルヴィはノクティアを抱き締め、静かな寝息を立てて眠っていた。

 ベッドの下には脱ぎ散らかした二人の夜着と下着。身体を僅かに動かすと、ほんのりと甘い夜の残り香がして気恥ずかしい。それでも、こうして何度も抱かれれば、ほんの少しだけ慣れてきていた。

 ノクティアは彼の頬に〝おはようのキス〟をすると、ソルヴィはゆったりと瞼を持ち上げる。


「ノッティおはよ……」


 そうして抱き寄せる腕を更に強めるが……やがて、その手は背を伝って臀部に。おしりの肉の合間から内ももを撫でようとするので、ノクティアは真っ赤になって身を捩る。


「ソルヴィ、もう朝! 朝なの!」


 このまま、愛撫に移行して熱が燻ってしまうと……朝から再び組み敷かれる事になる。もうこの流れは数え切れない。どうにもソルヴィは寝起きの手癖は悪かった。


「連れないな……ノッティ」


 何を言っているのだ。昨晩、既に複数回……どれだけ元気なのだ。

 ノクティアが目を細めると、今日は観念したのか、ソルヴィは名残惜しそうに太ももを撫でていた手を引っ込めた。そうして、ノクティアの額に頬に口付けを落とした。


「ノッティ今日は随分と早起きだな……」

「少しだけ庭に出たくて。薔薇の蕾が膨らんでいたから。一番花がそろそろ咲くのかなって」


 そんな風に言うと彼はノクティアの後ろ髪を撫で「行っておいで」と微笑んで言う。

 精霊と心を通わせ、芽吹きの力を借りる。植物の精霊との触れあう時間も大切にしている事も理解しているからこそだろう。彼は、ノクティアのしたい事をやはり優先してくれた。


「じゃあ、ソルヴィちょっと見てくるね」


 そう言って、再び頬にキスを。

 ノクティアはベッドの下に散らかった下着とナイトドレスを着直すと、上にガウンを羽織り、そのまま中庭に向かった。



 夏に向かいつつある季節とはいえ、早朝の外はひんやりと肌寒い。周囲はほんのりとミルク色の靄が掛かっていて、霧雨のような細やかな雨が降っている。ノクティアは羽織ったガウンの襟を正し、ウッドデッキを出た。

 しかし、今日はどうにも妙だった。精霊たちがやけに多い。はっきりと可視できるほどに、淡い紫や、緑、薄紅と……小さな光がそこらじゅうを踊っている。


〝おはよう〟

〝愛おしい、恵みの夜〟


 囁くような呼びかけにノクティアは「おはよう」なんて返事をして、蔓薔薇のもとに向かう。そして、昨日見付けた蔓薔薇の蕾みを見た途端、ノクティアは目を瞠る。


 今にも開きそうな薔薇の蕾の中に明らかに〝人に見えないもの〟がそこに存在した。


 ──淡い薔薇色の透けた身体に長い髪、ガラス細工のような翅。薔薇の花びらのドレスを纏った小さな少女が蕾の中で眠っていたのだ。

 ノクティアの存在に気付いたのだろう。少女は瞼を擦って欠伸をしながら起き上がると、ノクティアを見てニコリと笑う。


 その面輪はまるで精巧な人形のよう。目の比重がとても大きかった。ちょこんとついた小さな鼻に小さな唇が印象的で……。


「か、可愛い……」


 ノクティアが堪らず言うと、彼女は目を大きく開いたかと思うと、頬を手で包み照れたようなそぶりをする。

 そんな仕草までも愛らしくて、ノクティアは思わず唇を綻ばせてしまう。


 ……しかし、この愛らしい顔を見ていると、ふと古い記憶がちらついて蘇った。


 遠い昔の夏。母と王都に行った時を思い出した。既製品の衣類を扱う店でこの精霊のように目が大きく、可愛らしい顔立ちの人形を見かけた事があった。

 欲しいなんて強請ってみると、母は困り顔で「ノクティアは絵の具が欲しいんでしょ?」なんて言った。

 だけど、どちらも欲しかった。そうして道端で駄々を捏ねて泣いて母を本気で困らせてしまった。


「じゃあお人形さんは次のお誕生日にね。ノクティアがいい子にしていたらママが買ってあげる」


 優しく微笑み、母はノクティアの涙を掬って、優しく微笑んでくれた。

 そんな事があった。あったけれど……その冬には母は壊れてしまった。当然人形がプレゼントされる事も無く、その翌年の冬には、母が亡くなった。


 ほんのり切ない気持ちが込み上げるが、それでも忘れかけていた母との記憶を思い出せたのは何だか嬉しい。 


 物の価値なんて、子どもの頃の自分には分からなかったが、その日食うのもやっとだった。恐らく、ノクティアが欲しがった絵の具を買うのだって、母がどうにかやりくりして捻出していたのだ。きっと人形は容易く買えるようなものではなかっただろうと思う。ノクティアはあの日欲しかった人形にどこか似た精霊にほんのり笑む。


 その時だった。

 視界の端で雪煙が巻き上がり、二羽のワタリガラスが姿を現す。


『おはようございますノクティア』

『うぇーい、おはよ』


 そんな風に言うなり、二羽はノクティアが差し出した腕に止まる。そうして薔薇の精霊を見るなりに、二羽はノクティアと同じ反応をした。


『あらぁ……この子、多分生まれたばかりですよ可愛いですねぇ』

『ぴちぴちに若いじゃねぇか、おまえ本当に可愛いなぁ~こんな可愛い精霊初めて見た』

 ──なぁ~どこから来たの? なんて続けて聞くヴァルディにスキルは思い切り噛みついていた。


 アギャー。酷い声がこだまして、ノクティアは慌てて唇の前で指を立てた。


「今、早朝。ヴァルディ静かにして……」

『おいおい、今の、どう考えてもスキルが』


 その言葉に対してスキルは目を細めてヴァルディを睨むだけ。

 ……まぁ確かに、あんな言い方は王都で聞いた事がある。君、可愛いね。どこ住み? これから暇? まるで若者市民の冷やかしやナンパのようだった。


「……多分、ヴァルディが悪い。言い方が」

 そんな風言うと、スキルは、ノクティアに頬を擦り寄せる。


『ノクティアは私の味方してくれるって思っていました~私という者がいながら、この浮気者!』

『だぁああ……悪かったって。そうじゃねぇって。僕のスキル、許してよ』

『ヴァルディの一番は私じゃなきゃ嫌です! 私が一番美しくて可愛いのです!』


 朝から何を見せられているのだろう……。

 同じ源から生まれた片割れだの言っていたが、これで本当にではないのか。いや、もうだろうこれは。

 ノクティアは腕に止まった二羽のやりとりを半眼になって見つめる。薔薇の精霊は、カラスたちの痴話喧嘩をクスクスと笑って見ていた。


 しかし、ノクティアはこの時、不可思議に思った。

 妙だ。この精霊は話しかけてこない。ノクティアの知る植物の精霊は存外おしゃべりで、よくクスクスと笑って、そこらじゅうを飛んでいる。そして、たまにからかったりもしたりして……。


「喋れないの?」


 聞くが彼女は首を傾げて微笑むだけ。


『ああ。それ、多分だけど……この子、生まれたてだからだろ? それとさぁ、ノクティア。多分だけど』


 ──この子、既にノクティアと契約してると思う。

 と、ヴァルディは言う。スキルも同時に頷いていた。


「え? 契約? え、いつ……だって私、さっき起きて、ここに来たばかりだよ?」


 慌てて聴くと二羽は首を捻る。


『それは分からないですね……。恐らくノクティアが。この蔓薔薇をよく世話をしているからではないですか?』


 たとえば、この薔薇の手入れの際に怪我をして血液が地面に染みて根に染みただとか。なんて、スキルが聞くが、心当たりは無い。


 どちらかというと、この薔薇の周辺で散々に腕立て失せや腹筋をしていたジグルドの汗の方が盛大に染みこんでいそうだが……。

 彼がこの屋敷に来たばかりの時、庭仕事をしていれば、彼に周囲に張り付かれていた暑苦しさを思い出してノクティアは苦笑いを浮かべてしまった。


「でも、どうして契約……」

『そもそもさぁ、自然界の精霊がこうもしっかりはっきりとノクティアに見えているって事は、それって契約できているからなんだよ。だって本来ノクティアの冬や夜の属性。植物と離れた属性だろ? たとえ植物の精霊の声を聞き取れても見える事はそうそう無い。だって見え方は姿形の無い光の粒子みたいなかんじだろ?』


 そうだったのか? ヴァルディの言葉に納得はした。確かに、気配や光を感じ取れても、こうもはっきり植物の精霊を見た試しはなかったのだ。

 ノクティアは今一度薔薇の精霊を見る。彼女は薔薇の上で伸びをしていたが、ノクティアの視線に気付くと、ニコニコとした笑みを浮かべた。


 やはり愛くるしい……。そう思うのは二羽も同じだろう。スキルとヴァルディも和やかに精霊を見ていた。


『ノクティア。とりあえず、この子に名前を付けてあげたらどうです?』

「え? 私が?」


 思わぬ提案にノクティアは何度も目をしばたたいた。


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