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68 新たな命


 黄色の塗料を筆に取り、小さなエニシダの花をノクティアは皿に丁寧に描く。

 テーブルの上にはヒースや、ラベンダー、薔薇と様々な植物の描かれた食器が置かれていた。


 初めは、屋敷の厨房に数点。それがどういった経緯で広がったのか、教会のバザーに出して欲しいとの司祭である町長とリョースから直々の依頼が来た。そうして、その後……王都の雑貨屋に商品を卸す商人からの打診が来た。


 現在侯爵夫人という御身分であろうが、元は貧民街の住人だ。そして絵だって素人というのに、こんな話が舞い込むなんてノクティアは困惑した。


 ──自分の技術に金銭の価値がつくだけで、悪い話ではないだろう。自信を持っていい。ノッティがやりたければやればいい。

 ソルヴィはそんな助言してくれた。

 そして、自分のペースで絵を描いていくつか卸してくれれば良いとの事を商人に言われたので、ノクティアはそれに了承した。


 そして、生まれて初めて得た自分で得た金銭に困惑した。しかし、自分は満ち足りた生活をしているので、使い道というのは浮かばない。

 日頃のお礼にと、イングリッドやソフィア、ジグルドやエイリク、タリエに菓子を送ってみた。

 そんな中でエイリクからこんな提案をされた。


「ノクティア様、伯母様に何か贈り物をしたらいかがでしょう? 結婚式からずっと会っておりませんでしょうし、唯一の肉親でしょう?」


 その提案にノクティアはすぐに頷いた。

 母が死んでから数年。事実世話になった。少し大人になって思うが……馬鈴薯を盗んだ時に伯母がどやしたのも、貧しくとも正しい道へ引き戻そうと当たり前だったに違いなく思えた。


 伯母の住む農村は比較的王都近く。ヘイズヴィーク領は馬車で半日と、かなり離れている。

 こうも離れていて貴族の屋敷なので、伯母は結婚式以来、会いに来る事は無い。手紙のやりとりも少し考えたが、伯母も字が読めないのでやりとりをする掴みというものも何も無かった。

 金輪際会う事も無いのかと、少しだけ気がかりに思っていたもので……。思わぬ提案にノクティアも嬉しく思えた。そして依頼で受け取った金を封筒に入れてそのままエイリクに渡そうとしたが、即刻ソルヴィとエイリクに止められたのは言うまでもない。


「ノッティ……いきなり現金を送られたら驚かれる」


 そうは言っても。お金があれば色々自分が欲しいものが買えるに違いないと思うのに。しゅんとしてしまうと、エイリクは困り顔で屈み、ノクティアと視線を合わせた。


「いいですか、ノクティア様。贈り物はです。何かのお祝い金なら別ですが、お金そのものは相手に驚かれてしまいます。そうだ。ノクティア様はここに来る前、何か欲しいものってありました?」


 そう訊かれて、ノクティアは思案顔になる。


「ううん……。一番は食べ物。あとは着るもの。冬の着るショールとか。あと温かな毛布とか」


 答えると「それです」とエイリクは微笑み、ソルヴィも頷いた。


「そうだ、ノッティ。ちょっとした案だが。ビョンダルの畜産品を買ってくれないか? チーズは日持ちする。それにバターもある程度は。あとはヘイズヴィークの仕立屋で既製品の服やコートを買って送ってやったらどうだ?」


 彼の故郷にも貢献できて、自分たちの領地にも還元される。最高な提案にノクティアが何度も頷いた。

 そうしてノクティアは伯母への贈り物をエイリクに届けて貰った。

 元気な様子など話が聞けたら嬉しい。そうは思ったが、驚いた事にエイリクは伯母を屋敷に連れてきてくれた。


 あれから二年。白髪も皺も増えていて、伯母はまた老けていた。それでも向ける眼差しは強いまま。その色は、とても穏やかで優しかった。

 貧困街に来た時は、煙たくて仕方なかった。それなのに、今この再会は嬉しくて堪らなかった。


「ノクティアは少し大人になったわねぇ」


 なんて優しく微笑んでくれる伯母と抱き合い、沢山会話をした。

 あと一週間と少しで夏至だ。ヘイズヴィークの夏至祭を楽しんでいけばいいのにと言ったが、伯母も自分たち農村でも準備があると少し名残惜しそうに断り、エイリクに送られて帰って行った。


 そうして一週間──この地での二回目の夏至祭が来ようとする中。ノクティアは突如として、体調を崩した。


 五月頃から眠気があった。しかし、伯母が帰った頃から身体が怠くなり、酷い吐き気を催した。

 食べ物の匂いで気持ち悪くなり、食べ物の好みが変動する。尋常ではない状態ではあるが、侍女たちはすぐにある可能性に気がついた。


「そういえばノクティア、月のものが随分と遅れてないか? 最後はいつだ?」


 吐き気を催し、背を摩るイングリッドに訊かれて、ノクティアが考える。思えばもう一ヶ月以上は……。しかし、一ヶ月以内のズレなら、貧困街にいた頃も遅れる事は度々あったので気にしていなかったが。


「ノクティア様。明日お医者さんを呼びましょう」


 ソフィアは安心させるように、穏やかに言った。


 翌日の昼頃──ソルヴィは夏至祭の準備がある筈だが、ノクティアの体調が心配と検診に付き添ってくれた。

 そして、ジグルドやエイリクは夏至祭の準備にと街に降り、それと入れ替わりに屋敷にやってきた医者はどこか見覚えのある顔だった。

 どこかで会ったような。と、思うや否や医者は『ソルヴィ様の奥様だったのですね』と、にこやかに言う。人の良さそうな笑み方、そして助手として一緒に連れてきた妻の方を見て分かった。


 ソルヴィに初めて会った時、看てくれた医者だ。思わぬ再会にノクティアは照れくさくなりながらも、頭を下げた。

 そうして問診と診断が行われた。しかし存外、その診断も早く終わり……。


「ソルヴィ様、ノクティア様。間違いないです。ご懐妊おめでとうございます」


 そう言って、医者と助手の妻は微笑んだ。

 その言葉にノクティアは目を瞠る。


 まるで夢でも見ているような心地だった。にわかに信じられない。しかし、医者が言うくらいなので、本当なのだろうと。


 一緒に診断を聞いていたソルヴィを見ると、目を丸くして驚いた顔をしていたが、その蜂蜜色の瞳は瞬く間に溺れるように潤っていた。


 しかし、人前で泣けぬだろう。彼は目の縁をほんのり赤くして医者に礼を言う。


 それから医者夫婦はイングリッドの案内で退出した。

 部屋に誰も居なくなってから。二人掛けのソファに座るソルヴィはそっとノクティアの肩を抱き寄せる。


「ノッティありがとう」


 そして額に、頬に、唇に……とキスを降らせるとノクティアを抱え、横抱きにする。

 そしてもう一度唇をやんわり塞がれて、ゆるやかに顔を引き離した彼の瞳からは涙が溢れて潤っていた。

 つられてノクティアの瞳も潤った。どうしようもない程に幸せで堪らない。


 あんなに愛を受け入れるのが恐かったのに。どうしようもなく恐くて仕方なかったのに。その成れの果ての結晶が今、腹の中に宿ったのだ。


 まだ膨らんでもいなくて存在さえ分からないのでにわかに信じられないが、この急激な体調変動こそその証。確かに、命が宿りそこにいるのだ。

 ノクティアとソルヴィは二人は抱き合い、頬を寄せ合って静かに喜びに涙した。


 本当に一人ではなくなる。母になる。そんな実感はまだ無いが、胸の中が熱く幸せで堪らなかった。

 ただ愛した人が愛した人が与えてくれた奇跡が、心の底から愛おしくて堪らなかった。


 そんな時、ふとノクティアの脳裏には憎くて堪らない父の言葉が浮かんだ。

『おまえが欲しかったものを子どもに与えてあげなさい』と……。


 父はあれからどうしているのだろう。相当容態が悪い事は聞いている。

 だが、今更話す事も何も無い。しかし胸の中に滞りはあった。


 どうして庶子である自分の幸せを望んだのか、そしてどうして母を愛していたのに、フィルラと結婚しエリセが生まれたのか。


 後者に関しては、貴族の政略結婚故など、理由は様々あっただろう。


しかし、庶子をこうして次期侯爵の夫人として迎え入れる時点で、この侯爵家は寛容だ。


 初めこそは、使用人は皆恐ろしかったが、エイリクを筆頭とする、父派の使用人たちの扱いは極めて丁寧だった。そして、厨房の者たちや、タリエや他の庭師だって……。

 この一年は目立った事はしてこないが、邪険にするのは義母派の使用人たちのみ。

 しかし、イングリッドやジグルドが加わった事で、義母派の使用人の結束は解け始めて、中立派まで出てきている。


 自分は庶子だから仕方ない。初めからそうは思っていたし、父を許せず感心など持たないようにしてきたので彼の事は極力思考の外に追いやっていたが、まじまじと見つめると、不可思議な点が多かった。


 こんなにも寛容なら、政略結婚だって覆ったのではないのか。母の事をどうにかできたのではなかったのだろうか。愛していたというならば……そんな疑問が過ぎってしまう。


「ノッティどうした?」


 ぼんやり考えすぎていた。ソルヴィに呼ばれて、ノクティアは首を振った。

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