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69 膨れる憎悪

 ──若奥様がご懐妊されたみたいですよ。

 晩春の温かな日差しの差し込む窓辺にて。フィルラがお茶を飲んでいる最中、隣で給仕する侍女のスキュルダがそんな言葉を言った。

 フィルラは唇をカップから離すなり、ぽってりとした唇を歪める。


「そう。それはまぁ、おめでたい話だ事……」


 フィルラは、スキュルダを一瞥するなりほんのりと笑む。しかし、その瞳は微塵も笑っていない。だが、スキュルダは、慈愛の籠もった優しい視線でフィルラを射抜く。


「どうなさいます?」


 そう聞かれるが、どうもこうも無いだろう。フィルラはこめかみを揉んで瞑目した。


 ……そもそも、あの庶子をどうにかして排除して、エリセにソルヴィ宛てる事を考えていたが、全て上手く行かなかった。嫌がらせを仕向ける都度、あの庶子を囲い込む、外壁は脆く崩れるどころか分厚く強固なものに変わり果ててしまった。

 怪しい部分を感じたので、教会省に異端告発したにも関わらず、それさえも崩したのだ。それどころか、異端審問に来た教会省の僧侶と聖騎士まで味方に付ける程……。


 本当ならば、路頭に迷うくらい追い込んでしまいたかったが、本物の〝聖女様〟というなら、ほんの少しだけフィルラの心にも善意があった。

 なので、僧侶の勧誘から教会省に入る事を薦めたが、あの庶子──ノクティアは断った。〝ソルヴィの奥さんという身分以外要らない〟と言って。


 妊娠は愛が実を結ぶだの愛の結晶だの、美しく喩えられる。しかし、フィルラからすれば、ノクティアの妊娠なんて、穢らわしい肉塊がその腹に宿っただけの事。

 それは間違いなく、自分やエリセの立場を追いやる存在に違いないのだ。ヘイズヴィークの姓を持つが、現在の侯爵夫妻は他人に変わりないのだから。


 ……そもそもは、この引き継ぎの婚姻を了承していたし賛同していた。


 その理由は、エリセもすぐに結婚の話が舞い込むだろうと思っていたからで……。

 そうだ、エリセがグズグズしているから悪いのだ。

 後妻としての見合いなども薦めたが、一つも話を聞かなかったから。

 それどころか、騎士はどうかなど、甘えた事を抜かしていた。確かに騎士は、爵位が関与しない階級と立場があるらしい。


 しかし、生まれた家柄というのはやはり大切だ。言う通りにすれば何一つ間違いなんて無い筈なのに。


 フィルラは眉間を揉みつつスキュルダを見る。


「そういえばエリセは?」

「相変わらず部屋に籠もっておりますね。エリセ様の侍女が言うには、何やらずっと気分が優れないようで、静かに過ごしていたいようですよ」


 スキュルダの答えに、フィルラは唇を拉げて苛々と立ち上がる。


「奥様?」

「最近私、エリセの事をあまり気に掛けてあげられていなかったわ。少し部屋に行きますわ」


 そう告げるなり、フィルラは部屋を出て、エリセの元へ向かった。

 そうしてエリセの部屋を叩扉すると、すぐに侍女が顔を出し、恭しい一礼をする。


「貴女、少し下がっていて下さる? 少し親子で話がしたいの」


 穏やかに微笑みつつそう言うと、侍女は退出する。そうして、部屋に踏み入ると、エリセは刺繍枠を持ち、窓辺で座っていた。こちらを見る視線は怯えたもの。猛獣でも前にしたかのような絶望した表情にスキュルダは唇を拉げて、ツカツカとエリセに詰め寄った。


「あら、エリセ。刺繍を? 貴女、それだけは上手だのものね」

「教会のバザーに出して貰おうと思っていますの……最近教会の人たちも出入りしているので」


 刺繍枠の中には、蝶が縫われていた。恐らくハンカチーフだろう。フィルラはエリセの手からそれを取り上げると、床に投げつける。カラン。と転がり回る刺繍枠に、エリセは驚いた顔をするが、怯えた表情で見上げてきた。


「エリセ。貴女に慈善活動などする暇あると思っているのです? 立場を考えなさい」


 静かに、淡々と告げると若苗色の瞳はたちまち潤った。


「でも……」

「でもではありません。なぜ夜会に行かないのです。こうも甘えて!」


 ──情けない。だから嫁ぎ遅れる! そう、言い放つと、エリセの瞳からははらはらと大粒の涙が溢れ出す。


「お母様ごめんなさい……」


 震えた声で許しを請うエリセに苛立ちが募った。思わずその頬を叩くとエリセは唖然として頬を抑えて、堰を切らしたように慟哭する。


 娘の悲壮な泣き顔を見た瞬間──フィルラは戸惑いと同時、この滞りに苛立ちを覚えた。

 生き写しのように可愛くて堪らない唯一の娘に違わない。娘には、貴族の女としての幸せを受けて欲しいとは思う。だがどうして娘はこうも上手くいかないのだ。


 しかし、撲つのは〝一般的に考えれば〟良くない事だろう。フィルラは慌てて、声をあげて泣くエリセを抱き寄せる。


「ああごめんなさい、エリセ。お母様、貴女を撲つつもりなんてなかったのに。ごめんなさい」


 跳ねる背を宥めると、彼女は震えつつも頷く。


 ──私だって頑張ったのに。でもダメだったの。ごめんなさいお母様。

 嗚咽が絡んで聞き取りにくいが、確かにそんな言葉が聞こえた。フィルラはエリセの後ろ髪を梳くように撫でて背を摩る。


 しかし、このままでは立場も危ういのは事実。自分たちはこれまで通りの生活ができなくなってしまうのだ。その言葉を静かに告げると、エリセは理解したのか、コクコクと頷いた。

 そして少し落ち着きを取り戻した頃、フィルラはエリセと向き合った。


「……エリセ。貴女の義姉が妊娠しました」


 そう告げると、エリセは目をしばたたき、案の定複雑な面輪を浮かべた。


「そうなんですか」

「ええ。だからこうも言ったのです。私は何としてでもあの庶子を追い払おうと思っています」

「でもお母様……」

「私は、誰よりもエリセの幸せを願っていますもの」


 まだ大粒の涙を溢す、エリセの頬に伝う雫をハンカチーフで拭き取りフィルラは微笑む。

 そうして、エリセの嗚咽で跳ねる背を宥めるようにやんわりと叩き──立ち上るなり、フィルラは退出した。


扉が閉まった時、エリセが複雑な面輪のままだったのは、知るよしも無く──。


 ---


 しかし、どうしたら良いものか。

 妊娠初期は繊細だ。どうにかして脱胎を促すように仕向ける事も考えたが、それは少し残虐に思えて情けをかける事にした。


 だが、存外その答えが出るのは早かった。

 もはやこれ以外無いだろう。エリセを幸せにさせるには、自分もこの満ち足りた生活を維持する為にはあの夫婦共々、引きずり下ろすにはこの手段しかもう無い。


 もう充分だ。この選択が最善に違わない。躊躇う事など何一つ無い。


 フィルラは、引き出しにしまった茶色の遮光瓶を取り出しほくそ笑んだ。


 ※


 妊娠発覚から二週間が経過した。季節は初夏に移ろうとしている。相変わらず体調が優れないノクティアではあるが、別に病気では無い。

 その体調の悪さが苦しくとも、愛おしいものに変わらず、ノクティアの表情は日に日に穏やかで柔らかいものに代わり、母親らしいものになりつつあった。


 離れに来る誰もが、懐妊を喜んでくれた。

 特にエイリクとタリエはまるで孫でもできるかのようにそれは、大いに喜んでくれた。


 エイリクに関しては目に涙を滲ませて「無礼を承知ですがノクティア様を抱き締めて良いですか」と言われた程で……。


「リルフィアも祖母に。きっと海の底のヘルヘイムで祝福しているでしょう」なんて微笑んで彼は言っていた。


 母の同僚は温かで優しい人たちだった。エイリクに関しては、当初は詐欺師のように思って一つも信頼できなかったが、いつだって温かに見守ってくれた。今は心から信頼できる掛け替えのない存在に違いなかった。


 そして、絵付け皿を回収に来たリョースやジグルドの稽古に来たアーニルも祝福してくれた。


 そんなリョースの持つバスケットには、綺麗な刺繍のハンカチーフが先に詰められていた。あまりに綺麗な出来映えでいったい誰が刺したのやら。不思議そうに見ていれば、エリセが縫ったのだとリョースが言いノクティアが驚いたのは言うまでもない。


 ここ半年程、エリセを屋敷の中で見かける事は激減した。侍女たち経由で聞いたフィルラ派の使用人の話によると、エリセは最近部屋で過ごす事が多いそうで、あまり外に出ていないそうだ。

 擦れ違ったとしても元々、お互い目を合わせる事も無いが、悪態を付く事は明らかに減ったもので……。


 いったい、どうしたのか。だが、お互いに嫌いあっているので、関わる必要も無ければ知る必要も無いとノクティアも思っていた。

 それにこんな繊細な時期だ。妊娠なんて初めての経験なので気遣うもので……。


 そうして、ノクティアがバザーに出す絵付け皿をリョースに渡し、彼らの帰りを見送った直後だった。


「ノクティア様!」


 血相を変えたエイリクが走ってきた。


「体調が優れない中、申し訳ないです」


 肩で息をして、明らかに取り乱した様子のエイリクは、見た事も無いほどに憔悴した顔で懇願するような視線を向ける。


「エイリクおじさん、どうしたの……」


 落ち着いて。と、彼を宥めようと肩を摩ると、彼の瞳から涙が溢れた。


「イングルフ様が……ノクティア様。どうか、どうか私の一生のお願いです」


 お父様に会ってあげて下さい。と、彼は震えた声で告げた。


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