この様子では父の身に何か起きたのだろう。危篤状態だろうか。取り乱すエイリクの様子から想像できるが、ノクティアは何も答える事ができなかった。
本当に会うべきなのか……。
「でも私」
「お願いです。ノクティア様、貴女個人ではなくていい。聖女としての〝依頼〟と捉えてで構いません。どうか……」
深々と頭を下げられて、ノクティアは困却した。しかしこうまでして言われると断る事などできる筈もない。心の整理も付かないまま。ノクティアはエイリクに連れられ、父の部屋に向かった。
その間に少し状況を聞いた。酷い錯乱状態らしい。それも苦しんでいるようで、少しでも苦痛を和らげられないかとの事だった。
確かに、今の自分には苦痛を和らげる事はできるかもしれない。
「マリィローサ来て」
小さく呟くと、生まれたばかりの薔薇の娘はノクティアの傍らに現れて付いてきた。
屋敷の最上階。一度だけ訪れた、あの部屋のドアが開きっぱなしだった。階段を上る最中から既に呻き声に混じり、女の啜り泣く声が聞こえていた。
依頼と割り切れ。心の中で呟くが、恐くて仕方ない。ノクティアの胸の中をぎゅうと握りしめられたような緊張感が満ちる。
そうして部屋に入るとベッドの傍には医者が居て、沈痛な面のフィルラ、そして枯れ枝のようになった父イングルフに縋り付き、大粒の涙を流して慟哭するエリセの姿があった。
「お父様、お父様ぁ……」
エリセに手を握られたイングルフは呻き酷く苦しんでいた。そして──
「リル、どこだ。どこに行ったんだ……リル」
喀血しながら、妻でもない女性の名を呼んでいた。
「お父様、お父様……」
「フィルラお願いだ、一生のお願いだ、最後にリルにリルに会わせてくれ」
エリセを見つめ父は言う。娘と母を間違う明らかな錯乱状態で、幻視でもみているかのようだった。
そして、苦しげに呻きつつも父は暴れ藻掻く。
「──父さんめリルが……何をしたって言うんだ! 俺を納屋に縛って閉じ込めやがって……」
フィルラ、出してくれ。俺を助けてくれ。
父は懇願するようにエリセに言う。手を握られたエリセはしゃくり上げるように泣き首を振る。
「ちがう、私はお母様じゃない」
肩を跳ねさせ首を振るエリセは嗚咽交じりに言う。
この状況は何だ……ノクティアは青ざめた。
極夜のもと強い輝きを放っているような魂の煌めきは今にも消えそうなものに変わっていた。それはもう、本当の風前の灯火だ。
消えるのは、もう間もないだろう。しかし、苦しんでいる錯乱状態とは聞いたが、ここまでなんて思う筈も無い。
「イングルフ様。もう一人の娘様を……ノクティア様をお連れしました」
エイリクに導かれエリセの隣に来た瞬間だった。
ノクティアの顔を見た瞬間に、イングルフはこれでもかという程に大きく目を瞠り、自分と同じ淡い紫の瞳を溺れるように潤わせた。
「あぁ……リル、リル……どこに行っていたんだ。リルフィア」
その言葉にノクティアは益々青ざめた。
「エリセ様、少し下がっていた方が……ノクティア様に緩和処置を依頼しました」
エイリクの言葉にノクティアはすぐに首を振る。
「エリセの方が〝本当の〟娘だよ。引き離さないであげて」
そこに居ていいから。と、ノクティアがエリセを一瞥して言うと、彼女はくしゃくしゃに泣き濡れた顔で頷いた。
エリセは嫌いだが、ここで引き離すのはあまりに残酷だ。それに、傍に居て困る事もない。
しかし、エリセをフィルラに、自分を母と間違える程に錯乱しているのはノクティアにとっても複雑だった。先に孕ませた女と本妻。ある意味でエリセにとって残酷に違わない。何を言い出すか分からない。そんな風にノクティアが思った矢先だった。
「リル……リル……どこに行っていたんだ、もうどこにも行かないでくれ」
──俺が守るから。
そう言って、イングルフはノクティアの手を握り肩で息をする。
果たしてどこで呼吸をしているのだろう。彼の喉から痰の絡んだ妙な音がガラガラと鳴りヒューヒューとした息が漏れている。そうして咳をすると、イングルフの唇からは音を立てて鮮血が溢れた。
「リル愛してる、結婚なんてしたくない……俺はリルといたい、一緒に逃げよう」
本当にどういう事だ。ノクティアは沈んだ面のままイングルフを見て首を横に振るう。
「あんたは侯爵家の当主になったんでしょう。フィルラ様とエリセがいるでしょう」
しかし、父の言った言葉で事の真相の輪郭が少し見えてきた。
……父は母を本当に愛していたのだろう。
こうも錯乱し窮地に追い込まれた人間こそ、事実を語る。しっかりと意識がある方が取り繕うものだ。
貴族の結婚は政略結婚が普通。本当は、望まない婚姻だったのだろう。
そして、納屋に監禁されていたと。
いつだかタリエとエイリクが言っていた。父イングルフの親世代の侯爵夫妻にも使用人派閥があり、母リルフィアは夫人に逃がされ、侯爵側の使用人に追われていたと……。
だから、その頃の父は本当に〝身動きが取れなかった〟のだ。そして父親に監禁されていたのだと……。
報われもしない恋に苦しんできたのだろう。そして一人の女性を不幸にしてしまった事を悔いていたのだろう。
だったら、初めから愛するな。そうは思うが、ノクティアだってもう分かっている。
──初めから愛さないと決めていたとしても、愛を与えられ、愛に触れ、幸福を覚えて、自分だって自然と一人の男性を愛してしまったのだから。
そんなものは止められない。動き出した感情は止められる筈がないのだ。
父は母を本当に愛していた。この発言だ。悔いていたと想像も容易い。だから娘である自分に、ああも〝幸せになれ〟と望んだのだろう。
ノクティアはそれを改めて理解して、父の手を初めて握り返した。母の顔を、声を、話し方をノクティアが頭に思い浮かべる。
「──ねぇ、イングルフ。私の目を見て」
自分とは違う、花の咲くような柔らかな微笑みを。穏やかで優しい声色を。ノクティアは自分の知る大好きな母を再現した。
「大丈夫よ。私はここにいる」
そうして、ノクティアは隣に座るエリセに目を向けた。
「フィルラ様お願い。フィルラ様も彼の手を握ってあげて下さい」
ノクティアは精一杯エリセに微笑んだ。
エリセは一瞬驚いた顔で目を瞠るが──涙で濡れたくしゃくしゃな顔のまま頷き、父の手を一緒に握りしめる。
「イングルフ、泣かないで。私は仕方ないの。お願いだから、フィルラ様を困らせないであげて」
──女の人をこんなに泣かせて、あなたって本当に酷い男ね。なんて、ノクティアが微笑むと彼は大粒の涙を溢す。
「すまなかった。俺は……俺は……二人を不幸にさせてしまった」
しゃくり上げるように嗚咽を溢す都度、血液は噴き出す。本当に辛そうだ。もうこれ以上、話させるのは酷だろう。ノクティアは傍らで浮かび悲しげな顔をするマリィローサに目配せをする。
「……神聖なる夜の名のもとに命じる。マリィローサ、イングルフの苦しみを和らげて」
静かに穏やかにノクティアが告げると、マリィローサは父の周りをふわりと飛び──薔薇色の光の粒子を注ぐ。その光が彼に触れると、たちまち金色の光の蔓が芽吹き、彼の身体を抱き寄せるように包み込んだ。
やがて、彼の乱れた呼吸は整い始める。
「お義姉様……これは」
エリセは目を瞠って、ノクティアを見る。その瞳に僅かな期待が込められていた。しかし、ノクティアは彼女を一瞥してすぐに首を振る。
「私、見えるの。残念だけど、この人の命はもう消えかかっている。間もないよ……苦しみを緩和させているだけ。こんなに辛そうなの、もう見てられない」
……本妻の子なのに。あんたをフィルラ様と間違えるなんて。
そう言って、手を握り直すと、エリセも同じように手を握り直した。
父の表情は段々と和らいでいった。
何か遠い記憶でも見ているのだろか。ぼんやりと虚空を見つめ、ただただ穏やかな表情を浮かべている。
憎くて堪らない父だった。けれど、苦しんで死んで欲しいなんて思えない。この最期が穏やかなものになりますように……。ヘルヘイムの女神様、どうか。
……ママお願い、この人は、ママを本当に愛していた。どうかこの人を迎えに来てあげて。
父の手とエリセの手、双方を包むように両手で握りノクティアは瞑目して祈った。