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71 愛した人の面影

 胸の奥を締め付けるような苦しみと痛みが段々と和らいでいく……。

 イングルフは宙を彷徨う意識の中、霞んで見えるリルフィアとフィルラをぼんやりと見つめた。

 会いたかった。リルフィアにずっと会いたかった。イングルフの脳裏に遠い昔の記憶が蘇った。



 ──当時、十九歳。イングルフは両親の目を盗んでは麓町に降りていた。

 貴族の息子は義務的に騎士教育を受ける。通常であれば次男以降を騎士として育てる事が習わしだが、イングルフは一人っ子だった。上にも下にも兄弟も姉妹も居ない。なので、領主としての執務の学びは勿論、そして騎士教育も受けてはいた。しかし、自分は武道に向かないとイングルフは自負していた。


 なぜなら、どんなに身体を鍛えても筋力が人並みに付けかなかった。体躯は縦に細長いだけ。胸板はさほど厚くならず、華奢でしなやかな体躯のまま成長した。筋肉隆々なルーンヴァルド人の男に非常に珍しい傾向である。その上、戦闘のセンスも人並みかそれ以下。

 王国騎士団の詰め所なんて行けば、ヘイズヴィークの坊ちゃんだの〝ひ弱なキツネ〟なんて言われる始末だった。きっと、〝何かあった時〟あの領地は真っ先に潰れるだろう。坊ちゃんには守れない。なんて囁かれていた程で……。


 そもそも、ヘイズヴィークは長閑な片田舎。ルーンヴァルドの外れに位置する辺境地だ。

 隣の領地ビョンダルとともに国境に面していて、もし隣国との有事が起きれば、真っ先に侵攻を受ける場所だった。

 しかし、人には向き・不向きがある。きっと天性的に騎士になるには向いていない。なので、こういったものは側仕えの騎士、エイリクに任せておけば良いだろうと思っていた。

 どちらかというと知恵が働きやすく、機転を利かせるなど頭が切れる方には自信があった。だからきっと、こういった事はエイリクに任せておけば、自分は別の形できっと役に立てるだろうと思っていた。


 エイリクというのは、元は男爵家の次男。年齢はイングルフより二つ年上。下流貴族の出身でそこまでの身分では無いが、騎士として戦闘力は強く、その上、頭まで切れた秀才だった。なので、戦闘訓練は主に彼から手ほどきを受けていたものだが……。


「イングルフ様! どこに行ったのですか!」


 叫ぶエイリクの声に苦笑いしつつ、イングルフは垣根の下をくぐり抜ける。こうして、よく屋敷から脱走していた。

 そうして、抜け出して出掛ける先は、麓町に港の方など。活気のある領地の人間たちを見て回り、世間話をするのが好きだった。

 迷子の母親探しだの、逃げたネコ探しだの、生け垣の刈り込みの手伝いなど。人と関わるのは楽しかった。街の人を知れば必然的に領地を知れる。そして民が求める事が分かった。


 そんな風に出掛けていた最中、麓町で出会った少女がリルフィアだった。


 出会いは雑踏の中で買い物をしたバスケットの中身をばらまいた彼女に出くわして、拾うのを手伝ったのが発端だった。


 そして次に彼女を見かけたのは、広場だった。彼女はベンチに腰掛けて懸命に本を見ている。けれど、難しそうに眉間に皺寄せていて……。


「この前の」と、話しかけた所、彼女はアイスブルーの瞳をこれでもかという程開いて驚いていた。


 何やら、仕事仲間の先輩から本を貰ったそうだが、恥ずかしいながら読めないとの事。そこで、イングルフが文字の読み書きを教える事から関係が始まった。

 しかし、彼女の勤め先が侯爵家と知るには時間もかからなくて……思わぬ再会に驚いたのは言うまでも無い。


 そこで、イングルフは密やかに彼女に文字の読み書きを教えるようになった。

 本来、雇い主の息子と使用人。それも相手の使用人は庶民階級出身。気楽に接するのは良くないとは分かっていたが、彼女の無垢で人懐こい性格に惹かれて、度々会う約束をした。

 これに、エイリクも一人の使用人を特別視しない方が良いと強く忠告した。しかし、リルフィアに本を与えた相手がエイリクだった知り、二人は複雑な顔で笑い合った。


 結局、エイリクや彼と同期の庭師のタリエも加わり、よく納屋に集まるようになった。そして、二人でリルフィアとタリエに読み書きを教えた。


 身分を越え、同世代と過ごす時間は幸せだった。

 そして彼女と過ごす時間はイングルフにとって癒やしで──優しく可憐なリルフィアに恋するに時間はかからなかった。


 二人きりで会う場所は客間として造られた寂れた離れで。小さな庭に置かれたベンチに座り、二人で穏やかな時間を過ごした。

 だが、この庭は殺風景で寂しい。どうにかできないか。そんな安直な思いから、タリエに頼んで庭を整えて貰った。何かもっと華やかな樹木が無いかと聞けば……薔薇を提案された。〝きっとリルフィアも好きでしょう〟なんて片目を瞑られて。

 何でも、麓町に花に詳しい初老の女が居るそう。侯爵家の庭師はいつも彼女から種や苗を買っているとの事。


 初夏、その女の家を訪ねた。そこで見かけた玄関前の蔓薔薇があまりに見事で、接ぎ木された苗木を譲って貰い、それをいつもの四人で植えた。

 薔薇の新苗は株を強くするために花を付けない方が良いらしい。一年目に付けた蕾を摘心する。

「来年の楽しみにしよう」そんな風にイングルフはリルフィアと二人で微笑み合った。


 そうして季節は巡り、長い冬を越えると春を迎え短い夏に差し掛かる。

 蔓薔薇は沢山の蕾を付けて見事に咲き誇った。二人で薔薇を見て微笑み──イングルフは初めてリルフィアに思いを告白した。

 消して許されない事だと分かりながら、二人静かに愛を育んだ。

 必ず守るから一緒になろう。段取りに時間をかけたい。

 幸せな未来を語れば、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。だから、必ず現実にしようと思えた。


 そして次の年の春、太い蔦を這わせて立派になった二年目の薔薇の蕾を見上げて彼女は言った。

 ──貴方の子どもを身籠もったと。彼女は少し不安そうに言った。

 必ず守る。跪いて誓い、不安そうな彼女を強く抱き締めた。


 当然ヘイズヴィーク姓で結婚できない事は分かっていた。かつて、この国の信仰を変えた海の向こうの国……そこはルーンヴァルドの貴族ならば爵位を買う事ができた。だから、爵位の申請を待っていた最中だったが、あと半年以上はかかるとの事。

 しかし到底待てる状況で無く、駆け落ちをしようとした。海を渡って、あの国に行けばどうにかなる筈だった。


 当然この愛は許される筈もなく、計画は失敗に終わった。


 そして、イングルフは父親に納屋に閉じ込められてしまった。


『庶子は認知しよう。だが、庶民との婚姻など許さん。庶民など愛人にもならん。この馬鹿息子、恥知らずが。私の見繕った令嬢と婚約しろ』


 浴びせられたのは冷ややか叱責と、酷い折檻だった。

 その折檻で足を骨折した。当然逃げだす事も、リルフィアを追う事もできなかった。


 口ではああ言うが、父は真っ直ぐで隠し事が嫌いだ。きっと庶子を認知などせず、全て無かった事にする。だからきっと、リルフィアに危険が及ぶと分かった。

 彼女がその後、どうなったかは分からない。

 エイリクとタリエは彼女を逃がすのを手伝ったらしいが、その後の事は分からないというだけ。

彼女の消息も知れず、状況も分からぬまま。イングルフは東部の伯爵令嬢フィルラとの結婚があっさりと決まった。


 ──子は作れない。一人の女性を不幸にさせてしまった事を悔やんでいる。君と面識があるが、俺を慕っている訳ではないだろう。恋人を作ってくれても構わない。君に子ができたとしても娘として養う。生活は全て保証する。


 フィルラはこれに了承してくれた。

 その結婚から間もなく、フィルラは妊娠した。

 勿論それは、イングルフの子ではない。フィルラの恋人の子で……。

 その事実は誰にも明かさず、その子──エリセを二人の子として育てる事にした。


 それと同時期。エイリクがリルフィアの消息を掴んだ。あの年の冬至頃、女の子を出産したと。名はノクティア。イングルフと同じ、淡い紫──ヒース色の瞳をした子だと。

 当然会いたかったが、自分は結婚してしまった。これ以上はリルフィアを不幸にしてしまうのは分かっていた。父母が亡くなった後、愛人として迎え入れる選択もあるが、それができる自信が無かった。

 唯一愛した女性に失礼だ。それに、結婚したフィルラにも失礼に当たる。その選択は間違いなく二人を不幸にしてしまう。

 ゆえに、影ながら気に掛ける以外に選択は無かった。


 そしてエリセの生まれた年の冬、大帝国から侵略を受け戦乱が始まった。その戦で父が死に、代わりに指揮を執るのはイングルフとなった。


 最終作線はもはや捨て身だった。自分が囮になった事で敵を半数に減らせたが、イングルフは捕まり窮地に追い込まれた矢先、ビョンダルの領主に救われた。


 大斧を担ぎ、たった一人で敵軍を薙ぎ倒すその様は猛獣の如し。まるでヒグマの如く獰猛な男だった。 

 そんな彼に救われ、あの縁談の話が出た。


「俺、娘が二人居るんだ……」


 あんたは口が堅そうだ。結婚した女の子どもで実子じゃない。そして庶子が居る、そっちが実子とイングルフは言うと、ハラルドは苦しげに話を聞いてくれた。


「俺の世代が終われば、あんたの息子どちらかに領地を譲りたい。実子じゃない娘も良い子だ。結婚相手にどうだろう。恩返しになるか分からないが、悪い話でないだろう?」 


 頼めないか? と。訊けば、怪我の処置をしてくれたビョンダルの領主、ハラルドは困り顔で頷いてくれた。


 ---


 全部自分のせいでこうなった。どれだけの人間を傷付けて不幸にさせてしまったのだろう。

 イングルフは考える。だが、リルフィアに出会えたのは幸せだった。ぼんやりと見えるリルフィアの顔を見て、イングルフは一つ違和を覚えた。


 リルフィアの瞳はアイスブルー。しかし今目の前に居る彼女の瞳は自分と同じ、ヒースの色……。


 イングルフはたちまち目を瞠った。


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