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72 たった一人の〝パパ〟

 やがて視界が鮮明になり、イングルフの瞳に分厚い水膜が張る。

 そうだ、なぜ分からなかった。リルフィアとフィルラが一緒に居るはずない。それに、リルフィアはもう十年以上も前に訃報を聞いている。

 なぜ分からなかったのか。愛しい娘たちの事を……。


「ああ、ノクティア。エリセっ……!」


 イングルフは娘たちを見てやんわりと笑む。


「二人にどうしても頼みたい事がある」


 声にするのもやっとだった。それでも最後のお願いだからと……イングルフは力を振り絞って二人の娘の顔を交互に見た。


「お願いだ、抱き締めさせて欲しい」


 その言葉にノクティアとエリセは顔を見合わせるとすぐに、ベッドで眠るイングルフを抱き締めた。娘たちは右と左それぞれの手を取って繋ぎ、温かで柔らかなぬくもりが伝わってくる。堪らない程に幸福だった。愛してしまった人を不幸にしまった自分が、最後にこんなに幸せで良いのかと。後から後から涙が溢れ止まらない。

 そして二人に伝えたい言葉はただ一つ。


「愛してる。二人とも愛してる。俺の可愛い娘たち……」


 そうして、二人の娘の手を握りしめ、イングルフはヒース色の瞳から雫を溢した。

 やがて視界は霞んでいく。二人の声が遠くなり、周囲の声は遠くなる。


「お父様!」


 そう叫ぶ、エリセの声。そして、ノクティアの声が重なった。


「パパ!」


 ……なんて幸せな終わりなのだろう。最期の最期にそう呼んでくれるなんて。


 本当に、なんて可愛い娘たちなのだろう。イングルフの唇は綻んだ。


 やがて視界は真っ白に塗りつぶされ──その先に、豊かな白金髪の少女の後ろ姿が見えた。

 彼女は侯爵家のお仕着せ姿。愛おしくて堪らなかった後ろ姿だった。振り返った彼女の面輪は娘のノクティアによく似ていた。その瞳はアイスブルーで……。

 彼女は愁いを含んだ瞳でやんわりと笑んでいた。


 ※


「パパ……パパ……」


 そう呼ぶつもりなんて一生無かったのに。葬式まで会うつもりなんて無かったのに。否、この屋敷に連れて来られなければ、一生会う気も無かったのに。

 本当に母を愛していた。その事実が知れて良かったのかどうかは分からない。けれど、母が報われたのであれば、それで良い。それで良いとノクティアは素直に思えた。


 そして、彼も娘の自分も愛してくれていたという事実に胸がいっぱいでノクティアの瞳からは止め処なく涙が溢れて止まらなかった。


 ……彼を許そう。この世で、たった一人の父親に違いない。


 自分ではあまり認めたくなかったが、瞳の色や表情など、その面輪は親子と分かるほどに似ていた。ノクティアは冷たくなり始めた父の手をぎゅっと握りしめた。

 しゃくり上げるような息をして泣き崩れるノクティアとエリセの対面で医者はイングルフの頸椎に触れ、フィルラとエイリク、スキュルダ他、使用人たちに首を横に振る。その途端だった。


「──この人殺し!」


 たちまち金切り声を上げたフィルラは、つかつかとベッドに歩み寄ると、ノクティアの腕を掴み無理やり身体を起き上げさせる。

 瞬く間に頬に鋭い衝撃とともに破裂音が劈いた。その正体はフィルラの持つ扇子に違いなく。まるでスローモーションのよう。涙は宙を泳ぎ、ノクティアは自分が何をされたのか分からず目を瞠る。


 ────何が? 私、いったい何をしたの? 


 ノクティアは思考が追いつけない。どさりとその場に倒れたノクティアは涙で濡れた瞳のまま、フィルラを見上げると、汚物でもみるような冷ややかな視線を注がれた。

 その瞳には明らかな憎悪が揺れている。


 どういう事、だ……?


 その反応は、隣に居たエリセも同様で、彼女は涙で濡れた目でノクティアとフィルラを困惑した顔で交互に見る。


「お母様、何を言って……」


 エリセがそう溢した途端だった。


「私は見ていた──何が聖女よ! 何が奇跡の乙女よ! この穢らわしい女め! この女が夫の命を奪った!」


 フィルラはノクティアの前髪を掴み、無理やり視線を吐き捨てると「この穢らわしい魔女!」と凄み、手を振り放す。衝撃にノクティアはよろけて床に倒れると、直ぐさまエイリクが駆け寄った。


「フィルラ様! 落ち着いてください。ノクティア様が何をしたというのです!」


 ──彼女は何もしていない。聖女としての依頼を行い、死への痛みの緩和を行っただけだった。命を奪うような行為などしていない。見ていれば分かるのではないか。

 その旨をエイリクは捲し立てるがフィルラは彼を一瞥で凄むと、エイリクの頬を扇子で殴りつけた。


「黙れ、使用人風情が」


 フィルラはそう言うなり手に持った扇子を開き、口元を覆うと目を細める。


「自警団と判事に報告を。この穢らわしい女を縛り上げてちょうだい。その使用人も。魔女に洗脳されているわ、可哀想に。この領地中みんなして騙されて哀れなものね。スキュルダ、私怖いわ。この魔女をこらしめてあげてちょうだい」

「はい、奥様」


 フィルラとスキュルダは視線を合わせて目だけで妖艶に笑む。

 悪い冗談だろうか。自分が何をしたというのか。いまだに状況が理解できない。ノクティアは訝しげに見た。その途端だった。

 スキュルダは自分に向けて、膝を折って恭しい淑女の礼を一つ。そうして、つかつかと彼女は歩み寄るなり、ノクティアのわき腹を蹴り上げた。


 ──痛い。突然の鈍い衝撃に、ノクティアは目を大きく見開く

 しかし、腹はまずい。だってこの腹の中には……。ノクティアは慌てて腹を庇うように腕に抱いた瞬間だった。


「この悪魔! 何をする!」


 エイリクは跳ねるように立ち上がり、スキュルダを掴みかかるなり、拳で殴り飛ばした。

 それと同時、部屋の隅に控えていた数人の男の使用人たち動き、エイリクを押さえつけようとした。エイリクは暴れ藻掻いた。使用人を殴り倒すが、やはり元騎士とはいえ、十人以上……と、数と若さには勝てない。彼はたちまち床に押さえつけられ、後ろ手を組まされると縄にかけられた。

 そして男使用人たちの次なる暴虐の手はノクティアに──


「やめろ! ノクティア様に手を出すな! ノクティア様は……」


 エイリクはがなるように叫ぶ。

 妊娠している事は恐らく、皆存知だろう。ノクティアを見下ろす男の使用人たちはニヤニヤと卑しい笑みを浮かべてノクティアの下腹部を舐めるように見つめて、今まさに蹴り上げようと、足を振りかざす。


「やめ……おねがい、それだけは! やめて」


 腹を抱き締め、懇願するノクティアの目の端に雪煙が舞う。二羽が来てくれる……そう思った矢先だった。


「お母様、スキュルダ! お義姉様は何もしていないわ!」


 ノクティアの前にエリセが立った。ノクティアの腹を蹴ろうとした使用人を見つめ、彼女は首を振る。


「おやめなさい。恥知らずが、妊婦になんて酷い事をするの! お母様も……」


 さすがにおかしい。とエリセが振り向いて告げようとするや否や──パン。鮮烈な破裂音がまたも響いた。


フィルラは、エリセの頬を扇子で撲っていた。

 フィルラの瞳に光は無い。エリセは頬を抑えてノクティアの前に蹲る。

 何をされたのか、どうして撲たれたのか、自分が何か悪い事を言ったのか。エリセも何一つ状況の分からない面でフィルラを見上げていた。


「どうして、お母様。おかしいですよ、さすがに。こんなの……」


 震えた声でエリセは告げるがその途端──「お黙りなさい!」と酷い金切り声が劈いた。


「エリセ! この家では誰が正しいのですか、母の私とこの穢らわしい魔女どちらが正しいのです? エリセ、貴女はたった一瞬でこの汚い女に洗脳され、絆されたのですか!」

 ──恥知らずな馬鹿娘! そう叫ぶなり、フィルラはエリセの前髪を掴んで顔を近付けると、冷ややかに笑む。


 対峙したエリセの瞳は酷く揺れ動いていた。彼女の唇ははくはくと動く。しかし、それ以上、言葉を紡げないようで、顔は次第に青ざめていった。



 それから間もなく、ノクティアとエイリクは後ろ手を縛られて拘束された。しかし、なぜこんな事になったのか分からない。しかし、よりにもよってこんな時に限って、ソルヴィもジグルドも外出の予定がある時だった。

 今日は二つ離れた領地に行き、商談に行っているそう。帰りは、夕刻になるとの事──完全な窮地だった。


「ソルヴィ! ソルヴィ!」


 助けて。と、取り乱したノクティアは最愛の夫の名をノクティアは叫ぶ。しかし次の瞬間だった。口に布を噛まされたかと思えば、後頭部に衝撃を覚え、瞬く間にノクティアの意識は遠のいた。

 エイリクとエリセの悲鳴のような叫びが劈いた。しかしそれもどんどんと遠くなる。

 どうしてこうなってしまったのか。ノクティアは暗く閉ざされた世界の中に沈んでいった。


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