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75 密室の猛獣

 牢獄に入れられて、二日目の晩だった。

 カビ臭い毛布に包まれて、ノクティアは眠れぬ夜を過ごしていた。


 ──これからどうなるのだろう。ソルヴィはどうしているのか。スキルは、ヴァルディは? 命じれば従う。その契約の筈なのに、呼んでも来ないなんて前代未聞だった。


(どうしよう……)


 不安で涙が滲みそうになるが、泣いてしまうと向かいの鉄格子の中のエイリクに余計な心配をかけてしまう。溢れ出そうな涙を堪えて、ノクティアが瞼を伏せた時だった。


『ノクティア』


 ずっと聞きたかった麗しい声だった。


「スキル!」


 ノクティアが目をぱっと開くと、本来の姿の彼女がベッドの縁に座してノクティアの顔を覗き込んでいた。途端に涙で視界が潤った。今までどうして来なかったのだ。後から後へと涙が頬に伝い、ヴァルディとは違って触れる事もできないのに、スキルは異形の手を伸ばし、ノクティアの涙の雫を拭おうとした。


『遅くなってごめんなさい。泣かないでノクティア。皆さん、貴女と旦那様の為に動き回っています』


 自分だけではなくソルヴィも? ノクティアは潤った目を瞠る。


「……ソルヴィまで?」


 彼女は悲しげに頷いた。


『旦那様も罠に嵌められて、ノクティアが以前使っていた離れの奥部屋に監禁されています。私とヴァルディが介入しましたが寸での所で止められませんでした。毒物を飲んでしまい衰弱し、今は自由が無い状態です』


 ──食事は愚か、水さえ与えられていない。と、その言葉にノクティアは青ざめて、口元を押さえた。


『私たちが介入して旦那様だけでも助けようとは思いましたが、超常的なものは全て貴女に結び付いてしまう。私たちが派手に動けば、貴女の関わりを疑われて、急遽な処刑だって考えられます』


 処刑。薄々想像できた結末だが、恐ろしさと絶望にノクティアはたちまち身を戦慄かせる。スキルは透けた身体で必死に抱き締めようとしてくれた。


『そんな風にはさせませんから。私とヴァルディはリョース様となら言葉が通じます。彼を通して聖騎士様にも協力を仰ぎ、ノクティアと旦那様を助けようと必死に活路を見出そうとしています』

 侍女たちも庭師も、旦那様の側仕えの騎士もみんな無事です。スキルが続けて言った言葉にノクティアはほんの少しだけほっとした。


 確かにここで絶望して震えていたって仕方ない。

 恐いが、どうにもならないのだ。


「スキル。私に何かできる事はないの?」


 訊くが彼女は首を振り『ここでの食事はきっと味気ないでしょうが、しっかり食べて眠る事』と、やんわりと微笑み、マリィローサを呼んだ。

 スキルに呼ばれふわりと現れた彼女は、再会を喜ぶようにスキルに抱きつき頬擦りをする。


『ノクティアに寄り添っていてくれたのね。良い子よマリィローサ。ノクティアとおなかの子を守って癒やしてあげてちょうだい。これが全部片付いたら、お礼にミルクやビスケットに甘いお菓子をたっぷり貰いましょうね』


 そう言ってスキルもマリィローサに頬擦りをして、ノクティアに微笑むと、彼女は雪煙になって姿を眩ました。



 父イングルフが亡くなり三日。昨日早急に侯爵家内のみでの簡単な葬儀が行われて埋葬された。

 エリセはまだ悲しみと困惑の中にいた。


 ──あの時の義姉は、父の死に直結するような害を及ぼしたように思えなかった。本人も苦しみを癒やしていると言っていたし、あの状況で虚言を吐いているように思えなかった。だが母は……。


 そして、不可解な事に、ソルヴィの消息が分からなくなっている。

前侯爵が亡くなり、妻は捕縛されてあまりに不自然だった。妻の収監された海沿いの寂れた収容所にいるのかもしれないが。

 泣きすぎて腫れた目を擦り、ため息を一つ。冷め切ったお茶を飲もうとカップを取った時、叩扉が響いた。


「お嬢様。少し折り入ったご用件が」


 姿を現したのは自分の侍女ではなく、母の侍女スキュルダだった。彼女は綺麗な一礼をすると、部屋に入る。


「どうなさったの」

「私に着いてきてくださいますか?」


 困った顔でスキュルダは言う。エリセは席を立ち、スキュルダの後について部屋を出た。

 そうして、本邸から渡り廊下へ。辿り着いた先に絶句した。そこは現在の侯爵夫妻の住まい、離れで……。更に入って驚いたのは、まるで夜盗でも入ったかのよう、室内は酷い荒れ方をしていた。それにカーペットや壁には生々しい血痕が残っていて、エリセは真っ青になる。


「スキュルダこれは……」


 青ざめて訊くと「奥様を捕縛された事で、あの荒れた赤髪の侍女と侯爵様の側仕えが逆上してやった」と言う。


「ゴロツキなんて招くからこんな事になるのです」


 ため息交じりに言って、彼女は奥部屋に案内した。しかし、そこに居た人物を見て、エリセは更に青ざめた。ベッドの上で自由を奪われ拘束されたソルヴィの姿があったのだから……。


 彼はスキュルダとエリセを見ると、激しい唸り声を上げる。その口には布が噛まされていて、何か発する都度、涎がだらだらと垂れていた。

 琥珀の瞳は血走っており、本物の猛獣のような気迫で激しい興奮を訴えている。


 いつも穏やかな彼が、何がどうすればこうなるのか。そもそも、なぜこんな処遇に置かれているか意味が分からず、エリセは怯えてスキュルダを見る。


「旦那様は奥様の事を聞き酷く暴れました。療養所に入れようと思いましたが、暴れるので危険で。なので、お医者さんを呼んだのですが、鎮静剤を打つだけの処置をしています」


 彼の腕を見ると痣が無数にあり注射跡が確かにあった。鎮静してこれか。それで、私が彼をどうしろと言うのか。エリセは真っ青になってスキュルダを見た。


「スキュルダ。旦那様をお義姉様の所に行かせてあげたら……お義姉様を返してあげたら、だってあの時お義姉様は何も──」

「エリセ様」


 だが、スキュルダは言葉を挟んで首を振る。


「あの魔女を庇うのは良くないです。あれは人知を越えすぎている。この世にいてはいけない存在です」


 その言葉に反応したのか、彼は酷く呻き、血走った眼光でスキュルダを睨み据える。あまりの恐ろしさに、エリセは肩を竦めてスキュルダを見る。


「それで、私に何をしろと言うのです」

「侯爵様は今、水さえも受け付けません。ですが、目上の方ならもしかしたら」


 彼の生まれは伯爵家次男。この家で彼はいまだ母に頭が上がらないのはエリセも察している。母は忙しいので代理か。意図は簡単に汲み取れた。


 スキュルダはベッドの端に置かれた水差しの水をカップに注ぐ。


「ただの水ですが、私たちを何も信じられないのでしょうね。きっと毒が入っていると思っているのでしょうね」


 スキュルダは置かれていた水を口に含むと、エリセにも「一口飲んでみてください」と別のカップに水を注ぎ手渡した。促されてエリセが一口飲むと、ソルヴィは酷く暴れ藻掻く。

 確かにただの水だ。しかし三日も、飲まず喰わずでいるのはまずいだろう。エリセは頷くと、スキュルダは部屋を去った。


「ソルヴィ様、お辛いのは分かります。ですが、水を飲まないと……死んでしまいますわ」


 しかし、この口枷を外すのは恐い。エリセは怖々と、彼の口に噛ませた布を外そうとした途端だった。


 腹の中に途方も無い熱が灯り、鼓動が高鳴った。意図せず唇の端から涎がとめどなく溢れ出る。

 何だこれは。胸を押さえ困惑していれば、ソルヴィは頭を揺すって緩んだ口枷を自ら外した。


「──吐き出せ!」


 どういう事だ。エリセが頬を上気させつつもソルヴィを見ると、彼は人でも殺しそうな形相でエリセを睨む。


「俺の拘束を切れ」


 完全にその形相で気圧された。エリセは近くにフルーツナイフを見付けると、それでベッドに縛り付けてあった彼の腕の拘束を解く。その拘束が解けた瞬間だった。ソルヴィは恐ろしい腕力でエリセを乱暴に引き寄せ、顎を掴んで口を無理やり開かせると、指を喉に突っ込んだ。


「あのクソアマ。娘まで駒に使うか」


 ふざけんな。と、彼は嘆くように言って、そこでエリセは悟ってしまった。

 この身体の熱と疼き。自分は恐らくスキュルダに騙されて媚薬を飲まされたのだと。そして、間違いなく彼も……。


 何の為に。恐らく、自分に乱暴して彼を失脚させる為だろうと働かぬ頭でも安直に結び付いてしまった。

 喉奥を太い指でまさぐられ、嘔吐きが止まらない。途端に、恐ろしいほどの吐き気に見舞われて、エリセは彼から逃げるように首を逸らして嘔吐した。


「少しはマシになるだろ……」


 そう言ってソルヴィはエリセをどかすと、足の拘束を解き、自身の口にも指を突っ込んで毒でも抜くように嘔吐する。


「ソルヴィ様……いったい何が」


 エリセはソルヴィの背を摩ろうとするが、彼はエリセの手を払って即座に拒絶する。


「あんたはこの件に恐らく関わりないだろうが、あんたの母親を思い出して不快だ、殺したくなる」


 いまだに興奮が冷めやらぬ、恐ろしい形相だった。そんな彼はよろよろと立ち上がるなり部屋を出ようとした。


 しかし分かる、このままこの猛獣を野に放ってしまえば、何をするか分からない。

 母はノクティアを排除しようとしていた事は知っていた。自分もそれを望みやした。しかしソルヴィにまでこんな害を与えるなど誰が思うものか。それに妊娠中のノクティアの腹を蹴るように仕向けるなど尋常ではなかった。


 ──全部、エリセの幸せの為よ。


 微笑む母の顔が浮かび、エリセの背に怖気が走る。そんなの、ここまでなんて望んでいない。

 ソルヴィは酷い殺気を撒き散らしている。恐らく母もスキュルダも盾突く使用人皆殺しかねない。


「待って!」

「黙れ」


 彼はがなるなり、振り向くとエリセの喉に手を宛がった。


「俺のノッティを返せ。止めるなら、あんたを殺してやる」


 血走った獣の目で射抜かれて、エリセは唇を震わせた。


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