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76 人質の令嬢

 いくら胃の中のものを吐き出したとしても、得体の知れない薬剤を何本も打たれたので、立つだけでも目が回っていた。大量の水を飲むか発汗させなければ完全に毒は抜けないだろう。


 焦点がろくに合わない。

 くらくらと揺れる視界の先、怯えた瞳で自分を見る令嬢にソルヴィは舌打ちをして、首にかけた手を離した。 


 自分やノクティアを貶めたあの女の愛娘。まるで生き写しのように似ているので、見ていれば殺意が沸く。だが、この屋敷を脱出する為に充分な利用価値はあるだろうと思った。

 離れの周囲を見張る使用人たちの話し声が聞こえていたので、大抵の状況は掴めている。

 ノクティアとエイリクはもと侯爵殺害と幇助の容疑で捕縛され、海沿いの寂れた監獄に放り込まれた。


 現在、この屋敷に残っているのはフィルラ派の使用人のみ。イングルフ逝去とともに、前侯爵派の使用人は元々が少数。暇を出して、その日を持って強制退去となったそう。現侯爵派と中立派においては……襲撃対象となった。


 イングリッドとタリエが暴れて夫婦部屋はあの有様。使用人が三人重傷となったそうだ。そして、ノクティアの侍女たちは、どうやらタリエとともに逃げたとの事。


(ジグルドが彼女らと合流できていればいいが……)


 逃亡先には心当たりが充分にある。アーニルとリョースにきっと協力を仰いだに違いない。ならば急いで合流しなくては。ソルヴィは、エリセの腕を乱暴にその腕を掴むと引き摺るように歩き出す。


「ソルヴィ様!」


 怯えた若苗色の瞳が訴える。ソルヴィは眉間に険しい眉を寄せ舌打ちをすると『歩け』と低くがなった。


「いいかエリセ様。あちらがこうもを使うから、俺もを使う事にした。俺はあんたを、使わせて貰う」


 顔も見ずに言って、ソルヴィは奥部屋のドアを蹴り開けると、夫婦の部屋を通ってテラスに出た。


 部屋は酷い有様だが、ノクティアと侍女たちが手入れした庭は美しいままだった。緊迫した状況下というのに、日差しは穏やかでカップ咲きの蔓薔薇が無数に綻び、華やかな香りを放っていた。エリセを引き摺ったままアーチをくぐり抜けた先だった。

 そこには、案の定農具を持った使用人の男が六人に待ち構えており、即座にぐるりと囲まれた。


「これは侯爵様。ノクティア様に秘密でエリセ様と逢瀬でしょうか」


 ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべて言われたので、ソルヴィは鼻を鳴らして顎を聳やかす。


「ほざけ。見て分からないのか?」


 ソルヴィは真っ青になって怯えるエリセを背後から乱暴に抱き寄せると、懐からナイフを取り出し彼女の喉笛に刃先を宛がった。


「ひっ──!」


 エリセは悲鳴を上げて震え上がり、途端に使用人たちはどよめき顔を青くする。


「侯爵様、貴方は何をしているのかお分かりですか……大奥様の尊き娘様に」

「ああ、俺に毒を盛った上で媚薬漬けにして監禁した〝あばずれ女〟の血を引く娘だろう? こんな女でも人質くらいの利用価値があるだろ」


 反吐でも吐き出すように言って、ソルヴィはニタリと笑う。


「一歩でも動け、この女の喉を切る」


 低くがなると、使用人たちはその気迫に負けたのか、まるで置物のように微動にしなくなった。だが、表情だけは動いている。まるで野生のヒグマでも遭遇してしまったかのよう、絶望的な面をそれぞれが浮かべていた。


「そもそも俺を誰だと思っている。見くびるな。ただの使用人がいくら武装しようと、おまえたちなど素手で殺せる」


 ──身の程を知れ。ソルヴィは恐ろしい形相で凄む。

それで完全に戦意を失ったのだろう。使用人たちは立ち去るソルヴィを追う事も無かった。


 そうしてソルヴィはエリセを連れたまま愛馬に乗って、屋敷を出た。

 愛馬ミルクルの背には、ノクティア以外乗せたくないと思っていたのに何から何まで最悪の気分だった。身体は熱いし意図せぬ熱を持ち、心が攻撃に猛り気持ちが悪い。それ以上に、ノクティアの安否が不安で仕方ない。だが、屋敷を出れば一羽のカラスが先導するように飛び始めた。

 もう一羽に比べ一回り小柄。比べて少し高い鳴き声──恐らくスキルだろう。

 カラスたちがいるという事は恐らく無事だろうか。ほんの少しの希望に、涙が溢れそうになる。ソルヴィは潤った瞳を一度伏せ、気を取り戻すと手綱を強く握り締めた。



 ややあって麓町の教会に着き、ノッカーを叩く事もなく聖域に入ると、想定通りの人物たちが既にそこにはいた。侍女たちに庭師、聖騎士に聖者、そして町長である司祭の姿もある。


「侯爵様!」


 ソルヴィを見ると、リョースは今にも泣きそうな顔で駆け寄った。

 リョースの肩にはヴァルディが留まっていた。彼がソルヴィの前に来るなり、ヴァルディはソルヴィの肩に移り、再会を喜ぶように鳴いた。


「……イングリッド、タリエ、ソフィア良かった。無事か! それにスキルとヴァルディありがとう」


 おまえたち皆、無事で良かったとソルヴィが言葉にすると、皆それぞれ頷いた。


「私たちは無事さ、庭師のおっさんに助けられた」

「旦那様の方こそお怪我は……」


 そう言って心配げに見る侍女たちだが、二人の視線は不可解な物でも見ていた。その視線はソルヴィに腕を掴まれたままのエリセに集まっていた。


 だが何より先に状況などを聞かなくては。それ以上に一人だけ欠けている方が気がかりで……。


「ジグルドは? まさか捕縛されたか?」


 訊くとアーニルは首を振るう。


「王都の騎士団詰め所と教会省へ協力を仰ぎに向かった。ジグルドは行動に無駄が無い上、足も速い。その上、人間味がありすぎる。あの者ならきっと頭が固い連中の懐に入って必ず伝えられる」


 そういった人選で、無事。と、聞いてソルヴィは胸を撫で下ろした。だが、リョースは沈んだ顔のまま首を振る。


「侯爵様、思いの外この一体の地方行政は腐敗しています。判事は何も取り合いません。駐在騎士も……。そして皆、病弱な前侯爵の代わりに執務をこなした女傑フィルラを心酔しています。〝あの方が正しい、間違える筈ないだろう〟と」


 ──もはや国を背負う騎士や聖者を動かして、真実を暴き徹底的に叩き潰さぬ事にはどうにもならない。こめかみを揉みながらリョースは更に語った。


「前侯爵様の葬儀はどうやらこの麓街の教会に行わず、海沿いの漁村にある小さな教会の司祭を呼んだそう。ただ、その司祭というのが、評判が良くないと……」


 リョースが隣に立つ、教会の司祭に目配せをすると、彼は頷き悲しげな顔をする。


「総合的な集まりでは良い顔をしていますが、品行の悪さが際立つと地方では悪評があります。五十代も半ば。酒と賭博に溺れて金に困っているとの悪い噂はよく聞きます。大した祈りもせずに埋葬するなど適当な葬儀ではありませんでした?」


 と、町長はソルヴィに腕を掴まれたままのエリセに視線を向けた。そこで皆、エリセに改めて注目した。彼女は今にも泣きそうな唖然とした面のまま何拍か──静かに頷いた。

 長い睫を付せると、頬に涙の雫が垂れる。彼女は肩で息をすると嗚咽を絡ませて堰を切らすように泣き始めた。


「侯爵様。その……どうしてエリセ様が」


 聞いて良いのか。といった空気で気まずそうにリョースが聞くので、ソルヴィは大きなため息をつく。


「人質だ。利用価値があるから連れてきた。何か絡んでいる可能性もある。拷問にかけて、母親の罪を洗いざらいに吐かせようかと思う」


 ソルヴィの淡々とした答えに、エリセはたちまち震え、肩を激しく上下させ過呼吸を起こし始めた。


「この女もノクティアに酷い事をしてきた事は俺もよく知っている。ここに来れば嫌でも思い出す。結婚式の日の幼稚な侮辱をな。ノクティアが怒りに耐えて泣いていたのをよく覚えている。その他にも沢山ある。あの子はこの女の悪意に何度も傷付けられた。確実にあの女の遺伝子を引き継いでいる性悪だ」


 ──ヘイズヴィークに来た時の妻のように、背中や脚が痣だらけになるまで乗馬鞭で殴るか? それで母親の悪事を全部吐かせるか? 

 冷めた視線を送り吐き捨てると、ソルヴィはエリセの腕を放して凄む。


 こんなに攻撃的になる自分にも嫌気がさすし、吐き気もする。だが、猛った熱は収まる気配が無い。 

 悔しくて、やるせなくて堪らなかった。この女を殺せば気が済むのだろうか。

 ソルヴィは床に座り込み、荒い息を吐くエリセに再び詰め寄ろうとするが、すぐさまアーニルとイングリッドが間に入った。


「落ち着けソルヴィ、冷静になれ」

「旦那様、あんたらしくないよ。ノクティアが心配で苦しい気持ちは分かるし私たちも同じだよ。ただ、エリセ様と大奥様は同一じゃない。旦那様は少し身体を休めた方が良いと思う」


 二人が詰め寄り説得する。腹の虫は収まらないが、確かにそうだろうと思った。感情のまま動いた所でどうにもならないのだ。

 薬のせいだ。そう思った途端、喉の渇きを今更のように思い出した。


「……頼む、井戸に案内して欲しい」


 そう告げるなり、アーニルが先導し案内してくれた。その隙に、侍女たちは泣き崩れたエリセを立たせて、彼女を別室に連れて去って行った。



 その日の昼過ぎ。フィルラは離れの監視に配属させた使用人から、侯爵の逃亡とエリセの拉致を聞いた。

 何でも、ソルヴィは娘の喉にナイフを突き付けて人質に取ったという。


(……あの野獣め)


 予想外れの行動に、怒りはふつふつと沸き上がる。だが、想像とはまた違った形で失脚への追い込む道筋は立った。


「現在侯爵も拘束の手配を。あの庶子の処分は早い方がいいでしょうね。執行人に話を付けてちょうだい。そうね、明日にでもさっさと処分してもらいたいわ」


 ちょうどおめでたい夏至ですし。なんて微笑んで、フィルラはぽってりとした唇に弧を描く。


「はっ」


 恭しく礼をした男の使用人は去って行った。


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