イングリッドも立ち止まり、後方を向き唖然とした面を浮かべていた。
「下ろして……」
ノクティアの顔は真っ白だった。目を見開き、唇を震わせて身を強ばらせている。
確と見ていたのだろう。イングリッドは何も言わずノクティアを下ろした。
空からの落下物が落ちた場所へ、ゆったりと歩んでいく。
乱戦の喧噪の片隅。目に映るのは血まみれの黒い塊だった。
ややあってもう一羽が空から降りてきた。床に手をつき着地をすると、彼はその塊を抱き寄せ俯いた。
長い髪、美しい肢体。それはスキルに違いなく。既に息も無いのだろう。彼女は微動だにしなかった。
「嫌……」
傍まで歩み寄ったノクティアは慟哭する。ヴァルディは真っ黒な瞳に涙を溜めて、ある一点を睨んだ。
それは入り江の陸地の方面──荒涼とした岩肌の上、人が動いているのが見える。そこにある物体は恐らく砲台だろう。
『……僕は気付かなかった。だけど、スキルが直前で異変に気付いて、〝何か〟が飛んできた瞬間に僕を突き飛ばした』
そうしてこうなった。と彼は震えた声で言う。
『ノクティア。あの場所まで行けるのは僕だけだ』
──あんなものをここに打ち込まれたら、旦那もアーニルも死んじまう。ヴァルディはそう付け添えて、動かなくなったスキルを丁寧に横たわらせると、彼女の見開いたままの瞳をそっと伏せた。
※
「奥様、一羽落とせたようですね」
乱闘に乗じて、フィルラはスキュルダとともに小舟に乗って退去していた。
……侍女たちが逃げて、エリセがソルヴィとともに失踪した時点で、必ず救援に来るだろうと想像していた。
それに、ノクティアは神秘の力を持つ人知を越えた存在には違わない。ソルヴィを陥れる時、突然現れたカラスもきっと邪魔に来ると考えられたので、徹底的に策を練っただけだった。
(良い読みだったみたい)
フィルラは、涼しい顔で氷河の生み出したこのフィヨルドの入り組んだ地形を一望した。
──ルーンヴァルド統合前は、現在の領地単位での抗争が絶えず、入り江が赤く染まるほどの闘争が繰り広げられていた。
ヘイズヴィークの湾から西に進んだ場所に位置するここは、昔からの処刑場。と同時に、天然の要塞だった。何百年も経った今もここは罪人の監獄と機能している。勿論、有事の時の要塞としても機能していた。
フィルラ自身、夫に代わり執務を長きに渡ってこなしてきたので、この場所にどれほどの火力がある事かだって把握していた。それがまさかこんな形や役立つとは。
──現在の目的は、ソルヴィを失脚させ、この領地も侯爵家も自分のものに落とす事。
その為に、目障りなものは全て排除するだけだ。
だから、最後には反発する実娘も切り捨てた。
あまりに無能で愚鈍。蓄積した不満が決壊し愛を持つのも限界だった。
しかし、ただの非力な女が、猛獣騎士に叶わない。だが、こちらも〝外側を固めれば〟どうにでもなるだろうとフィルラは思っていた。
ノクティアのような超常的なものでないが、フィルラも昔から不思議な力を自負していた。
それは「女」である事。これが何よりもの力で武器だった。
──美しいフィルラ、気高き花。微笑めば、男は皆、夢中になる。
二十年も昔。夜会で様々な令息たちを釘付けにさせた。そして時が経過してもこの輝きは確と残っていた。
否、同世代か少し年上。性欲さえ残っている退屈そうな男なら面白い程、この手の中に落ちる。
自警団の男は手を握って微笑めば、簡単に手の内に。地方判事に関しては二・三度寝た。甘やかに求め愛を囁けば、処刑執行人や人員も用意してくれた。
手の内に納めれば被害者の女でいれば、男は自分の言葉を信じてくれて、動いてくれたのだ。
(存外上手くいくものね)
心で独りごちて、デッキから低空飛行で飛び立つカラスを見てフィルラは薄く笑む。
「奥様、嬉しそうですね」
「勿論よ」
舟を漕ぐスキュルダに、フィルラはやんわりと笑む。そして間もなく着岸し陸へ辿り着く。
あとは大いに戦わせておけばいい。わざわざ危険な場所にいる必要も無い。
スキュルダの差し伸べた手を取って、舟から下りようとした時、二発目の砲弾の音が響いた。それはまるで祝砲のようにさえフィルラには聞こえた。
※
両手を床についたまま、ヴァルディ翼を広げた。
「行くなヴァルディ!」
返り血を浴びて赤々とした顔をしたソルヴィが斧で敵襲を受けながら叫ぶが、ヴァルディは首を振る。
『大丈夫だ旦那。僕は力強い。ついでにあのクソババアが逃げたから捕まえたいんだ』
……ノクティア。おまえは赤毛の姐ちゃんと端に隠れていな。
頼んだぜ。と、ノクティアの後を追ってきたイングリッドを一瞥してヴァルディは言うと低空飛行で飛び立った。
砲台の場所は既に把握している。砲弾が低い音とともにこちらに飛んでくるが、ヴァルディはそれを躱し、荒々しい岩肌の岸壁に沿い垂直に飛ぶと、砲台のある場所まで辿り着く。
そこには三人の男がいた。しかし早急な装填はできないのだろう。
──来やがった、バケモノ!
ざわめく声にヴァルディは唇を釣り上げた。
一人を脚で掴むと断崖絶壁から海に放り投げる。そしてもう一人を投げ捨て、ヴァルディは砲台の前で震える男に歩み寄った。
「ひっ!」
『てめぇか? 俺のスキルに穴を空けたクソ野郎が』
ヴァルディは男の首を手で掴むと、恐ろしい形相で凄む。怒りに促されるよう、周囲は風が吹き荒れ、低樹木を揺らした。
──脳裏に浮かぶのはスキルの事だった。
物心つき、生まれた時から傍にいた。同じ魂を分け合った存在。不慮の死を遂げ、冥府に辿り着いた哀れな少女を手助けする者として偶然選ばれてこの世界に来た。
感情はあっても自ら行動する自我など本来は持ち合わせていない。命じれば従うだけ。その少女と関わり、ともに時間を過ごし、お互いに強い自我を得た。
自分と似ていても面輪は違う。性別も性格も反対。全てが逆だから愛おしい。そして、自分を無条件で愛してくれていた。勿論愛していた。
だが、冥府で生まれた生き物は人間と違う。死ねば魂は無に還るだけで。もう二度と還ってこない。生まれる前から、死の女神からそう聞かされていた。
ノクティアの目的達成の後にスキルとともに消滅する納得していたが、それとこれでは話が違う。
『返せ、俺のスキルを返せ!』
言葉にすれば、涙がとめどなく溢れ出た。首を絞める手に力が籠もる。
刹那──命乞いをする男の頸椎から鈍い音が響いた。その後、男は嘘のように黙り、ぐったりと項垂れる。
(脆いな)
舌打ちをしたヴァルディは男を海に放り投げた。
交わされた契約では、ノクティアが憎悪の感情に支配され〝本来の目的を果たさない限り〟別に害などない。ならばここで数名殺めた所で、彼女に害が無いのは分かっていた。
さて次だ。ヴァルディは恐ろしい勢いで急降下し、獲物を探した。
その獲物は存外すぐに見つかった。どうやって逃げたのか既に陸地に戻っており、侍女を逃げるよう足早に歩んでいる。ヴァルディは恐ろしい早さでフィルラの背後を低空飛行し、その肩を脚で掴んだ。
『逃がすか、クソババア』
悲鳴混じりの罵声がこだまする。侍女の悲鳴も遠くなり、ヴァルディはソルヴィの近くにフィルラを投げるように落とした。
デッキの上、転がるフィルラは呪詛の如く呻きヴァルディとソルヴィを睨み据える。
「この私に……」
『見ろババア、もう味方がいねぇだろ?』
ヴァルディは嘲笑う。その周囲は負傷者の山。戦意喪失した者は片隅で青白くなって震えている。血液がそこらじゅうを汚し地獄のようだった。
そこに立っているのは、ソルヴィとアーニルただ二人だけ。
その時、遠くから喧噪が聞こえてきた。先陣を切って馬を走らせるのは赤髪の若き騎士──ジグルドだった。彼の後ろにはルーンヴァルドの王国騎士や聖職者らしき装いの人間などが続いていた。
『潮時だな』
ヴァルディが一歩近付いた瞬間──背中に恐ろしい程の衝撃を覚えた。そしてまた一発、二発と翼に背中に鮮烈な痛みが走る。
何をされたのか。背後を振り向けば、男が物陰から弓を構えていた。
『クソが!』
怒るヴァルディは再び飛ぼうとするが、途端に唇の端に血液が泡のように溢れ、喀血した。
不快な異物が身体を侵す心地がした。酷い吐き気とともに目眩を覚えまともに立っていられない。
「ヴァルディいい! もう動くな!」
ソルヴィは背を低くして弓手のもとへ駆け出し、捕らえた瞬間だった。
喉に激しい痛みと感じたと同時、今度はノクティアの悲鳴が劈いた。
己の喉に突き刺さるのは銀のナイフ。それを突き刺すフィルラはニタリと満足げに笑む。だがそれだけで満足できないのだろう。彼女はナイフを抜くと何度もヴァルディの喉や腹を滅多刺しにした。
「穢らわしいバケモノめ」
霞む視界の中。最後に見るのがこんな醜い女は嫌だった。ヴァルディは少し離れた先のスキルを見た後にノクティアを見る。
これまで見た中では一番酷い泣き顔だった。 侍女に押さえつけられ、手を伸ばし何度も名前を呼んでいる。
いつもは鈴が鳴るような可愛らしい声。ノクティアの声は好きだった。
……ごめんな。ノクティア。
言葉にしたいが、もう声が出ない。ヴァルディの視界は黒く潰された。
※
ノクティアは絶望した。ここは地獄か。冥府ヘルヘイムは極冬であれ美しかった。しかしここは、悲惨の一言しか出ない。
とめどなく涙が溢れて止まらない。
しゃくり上げるように泣くノクティアをイングリッドは宥めるように抱き留める。
だがイングリッドはノクティアを見るなり、悲鳴を上げた。
「ノクティア! おまえ! 旦那、旦那! ノクティアが!」
自分に何が。ノクティアは自分の身体を見て唖然とした。
まるで魔法が解けるよう。雪煙を巻き上げ、この身が透け始めたのだから。