ノクティアは自分の指先を見て、目を見開く。
身体から冷気を巻き上げ、空気中にさらさらと雪が舞う。そんな自分の身体は、向こう側がうっすらみえる程に透過しつつあった。
「ノッティ!」
ソルヴィはすぐさまノクティアの身体を包むように抱き締め、大粒の涙を流す頬を撫でる。
間近で見た蜂蜜に似た琥珀の瞳は揺れていた。
二羽のワタリガラスを喪った。契約の終了──冥府に、死人に戻るのだ。その証拠と言わんばかりに、二羽の亡骸も雪煙となって消えつつあった。
……二羽が実体を得なければ、こうはならなかっただろうか。しかし、二羽は自分を守ろうと動き回った。そして、二羽がいたら皆が冤罪を暴こうと助けに来てくれた。
頭で理解できるが、心はついていけない。ノクティアはソルヴィに抱きついた。
「嫌ああぁあ! 消えたくない、嫌、いや、死にたくない! ソルヴィ!」
愛を知った。愛を知って、本当の夫婦になれた。
二人で幸せになって、その結晶も宿した。これからしたい事だってあった。
ノクティアは首を振り乱し慟哭した。
揺れた視界の先で、ソルヴィもイングリッドも大粒の涙を溢していた。
行くな。だめだ。と彼らも取り乱し、大粒の涙を溢している。
しかし少し離れた先、銀のナイフを握ったままのフィルラは高くせせら笑う。
「ああ、やっぱりこの女、人知を越えたバケモノじゃない」
──悪い魔女は雪になって、消えました。めでたしめでたし。
そう付け添えて、フィルラは笑むが彼女はすぐにアーニルに取り押さえられる。
「悪女め! 聖女を侮辱するな、ノクティア様がいったい何をしたというのだ」
アーニルの言葉にフィルラはニィと唇を釣り上げた。
「この世に生まれてしまった事が罪。あの男が種を植えて、身の程知らずの馬鹿な女が産んでしまったのが罪」
そう言い放つなり、フィルラは高らかに笑った。
やがて、王国騎士団や教会省の僧侶を引き連れたジグルドがやって来る。そこにはリョースの姿もあり、彼らはノクティアの状況を見るなりに目を見開く。
「これはどういう事だ。なぜこんな事に。この悪魔。貴様、己がどのような罪を重ねたか分かっているのか! 私どもは全て調べた。貴様の部屋に隠されたもの、前侯爵様の死因、貴様の周囲で起きた不慮の死を!」
リョースは青筋を立てて詰め寄るが、フィルラは面倒臭そうに首を振る。
「どうもこうもありませんわ? 私は正しき事をしてきただけ。お言葉ですが、私が罪を犯した証拠なんてありますでしょうか?」
顎を聳やかして、フィルラがそう告げた途端だった。
鏡のような海面が青く光った。
そして一瞬にして白昼が夜に変わる。初夏なのに、空には緑と青のオーロラがカーテンのように靡き始めた。
一瞬の変化に誰もが空を見上げ、騎士も聖者もどよめいた。
暗い空に青白く光る蝶が一羽舞う。それは眩い青い程の光を放つと、麗しくも恐ろしい女神が姿を現した。
──その背は人間の男の四倍近く。肌色は雪雲のような灰。真っ黒の強膜をした黒々とした瞳。周りを眺望するなり、やんわりと微笑む。
突如として現れた人知を越えた存在に、誰もが戦き言葉を失った。
『私はこれまで、全て見て聞いていた。フィルラとか言ったか。おまえの罪の証明か、我が見せてあげようぞ?』
女神はふふと微笑む。フィルラは顔を蒼白とさせて目を見開いていた。
「あの魔女、またもバケモノを……」
『心外だな。私を知らぬのか? 勇敢な戦士以外はいずれ私に会うというのに。死の女神……正しき名は〝ヘル〟と言って分からぬか? そしてその娘、ノクティアに加護を授けた張本人』
微笑む女神は懐から水晶玉を取り出すと、それを群衆に向けた。
『ノクティアと二羽のカラスを通して私はずっと見ておった。そしておまえの一生を遡ってやった。フィルラ。貴様の罪を明かしてやろう』
水晶玉から青白い光が漏れる。そして映し出されるのは、フィルラの愚行の数々だった。
──結婚後に愛人と関係や金使いの荒さを指摘され、鬱陶しくなったイングルフの母を殺害。エリセを出産した後も、愛人を取っ替え引っ替え。そして、遺産目当てでイングルフの殺害を企てた。
スズランが好きと言って、調香師から毒の生成を教わり、その毒で夫を弱らせ死に至らせた。
ノクティアやその周囲に対する度を超えた嫌がらせの数々……。
そこには長い事フィルラに仕え、心酔する侍女スキュルダも絡み、彼女たちはいつも共謀していた。そして挙げ句の果てにはソルヴィを失脚させ、ノクティアを排除する運びに……。
周囲はどよめきながらも、映し出されたフィルラの行いに唖然とした。まるで魅了の呪いでも解けるよう。端で縮こまる自警団の者や、処刑執行人までもが怪訝な面で見つめている。
『随分と腐れた生き方をしたな。おまえの侍女共々、死後の転生など値しないほどに腐れている』
呆れた調子で女神は言う。
「こんな出鱈目、誰が信じるのです!」
喚くフィルラに、女神はニィと笑み。そうして、彼女を片手で掴むとフィルラに顔を近付ける。
『信じぬのか? ならば私が貴様を冥府に連れて行こう。その薄汚れた魂、二度と転生を赦さぬよう消滅させてやろう』
──なぁに。侍女共々連れて行くから安心しろ。と、女神は冷ややかに凄む。
人知を超えた、その気迫に恐れ戦いたのだろう。
フィルラは卒倒し、白目を剥いて泡を噴く。
誰もが押し黙る静寂が訪れた。だが、途端──「待って」と、小さな声が響いた。
ほぼ姿が消えかかった、ノクティアだった。
泣き濡れたソルヴィの腕の中。ノクティアは力なく死の女神を見つめた。
「女神様、ありがとう。でも、その人を今、連れって行ったらだめ。これだけの人間がこの人の行いを見た。罪は、人間に裁かせるべきだよ」
神様が介入したらきっとだめ。とノクティアが言うと、死の女神は『ああ』と嘆くような声を出して、フィルラを握ったまま、ノクティアに視線を向ける。
『そうだノクティア。ワタリガラスたちとの契約が切れてしまったのだな』
女神は消えかかったノクティアの頬を指先で撫で、ソルヴィに『この子を渡して欲しい』と言う。
しかしソルヴィはノクティアを抱き留めたまま首を振るう。
「お願いだ女神様、連れてかないでくれ。ノッティを俺のノッティと俺の子を……」
琥珀色の瞳から溢れ落ちる涙はノクティアの上から雨のように降り注ぐ。しかし、消えかかって透明になっているので、それは頬に触れる事もなく、通過していった。
「お願いだ、連れて行かないでくれ」
どんなに抱き締めても、もう実体がほぼ無い。彼の抱擁はすり抜けてしまう。それでも尚、ソルヴィはノクティアを離そうとしなかった。
すると、女神はソルヴィごと手で掴み、手のひらに乗せるとノクティアの額に口付けした。
その途端、青白い光が視界を覆い尽くした。やがて、雪煙を巻き上げノクティアの透けた身体は緩やかに戻り始めた。
はたはたと頬に熱い雫を感じた。それは、彼の涙に違いなく。
「ソルヴィ!」
ノクティアは溺れるように瞳を潤わせたまま、彼の腕の中に閉じ込められる。またソルヴィもノクティアに頬擦り寄せ、しゃくり上げるような嗚咽を溢しながらも何度も、ノクティアの名を呼んだ。
『私が来た理由はな……おまえとワタリガラスたちの契約が切れた事もあるが、ずっとおまえを見守り続けてきた者たちが〝娘を連れてこないで欲しい〟と頼んだからだ』
そう言って、女神は二人を下ろすと、再び水晶玉を差し出した。
そこに映されたのは、亡くなったばかりの父イングルフ。そして今の自分と瓜二つ……遠い昔、亡くなった母の姿が映し出された。
『どうかお願いです。私たちの娘を死なせないでください』
『……俺たちはどうなってもいい。あの子を助ってください』
あの子がいったい何をした。あまりに理不尽だ。と、二人は、女神の玉座の前で膝をつき、涙を流して許しを請う。
それを見たノクティアは唖然とした。まさか死した父母が。そんな頼みをしていたとは思わない。そして自分の事を見守っていたとは……。
「女神様、どうして死人の願いを」
訊くと女神はノクティアの頬を指で撫でて、慈愛に満ちた瞳で射抜く。
『簡単な話さ。ノクティアは私に縁のある特例。何より、おまえは良い子だ。恨みに支配される事もなく、多くの奇跡を紡ぎ、とても美しい魂に成長させたのを私は知っておる』
それは、おまえの存在あってこそだろう。そんな風に付け添えて、女神はソルヴィに微笑み一瞥した後、再びノクティアに向き合った。
『……おまえはもう魔女ではない。死の女神の加護を授かった〝聖女〟として、生きろ。遠い未来、ヘルヘイムに来た時に、沢山の思い出話を私に聞かせてくれ』
そう言って、女神は項垂れて失神したフィルラを丁寧にデッキに寝かせると、ノクティアに再び向き合った。
『そしてもう一つ。おまえに托しておきたいものがある』
そう言って、女神が手をかざすと雪煙が巻き上がり、青白い光に包まれた繭が現れた。それはデッキの上にゆったりと落ちると、やがて羽化するように美しき二羽の異形のカラスが繭を破って現れる。間違いなく、それはスキルとヴァルディに違いない。だが、その色は漆黒ではない。
──色は純白。薄く開いた瞳は氷河のようなアイスブルー。その強膜は人のように白かった。
『冥府の生き物は魂が死すれば消滅する筈。だが、この子たちは自我を持ちすぎた。そして意志が強すぎた。この子たちもただの〝冥府のカラス〟と別物になってしまった。〝聖獣〟となったとでも言えばよかろうか』
前代未聞だよ。なんて女神は笑い混じりに言って「おまえに托そう」と告げた。
ノクティアは二羽の名を呼ぶ。その声で覚醒した二羽の青い瞳にはたちまち溺れるように潤った。
真っ白なカラスたちは、ノクティアのもとに歩み寄ると、小さな主人を強く抱き締めた。
女神は去り、空は眩く白む──夏至の日差しが照りつけた。