数日ぶりに戻った侯爵家はひっそりとした静けさに包まれていた。
何もかもが、あの日のそのまま。離れはそれは酷いありさまで、侍女たちは帰るなり掃除を始めていた。
フィルラの部屋から見つかったのは大量のスズランを付けられた毒の瓶。そして、彼女の字で記された調合を記したメモの数々。
これらは侯爵家に踏み入った王国騎士や教会省の聖者が見付けた事によって、完全にフィルラの有罪が決まった。
「そして、これがイングルフ様の部屋から見つかったものですよ。これはノクティア様に托した方が良いかと」
ソルヴィを少年期から知っているという、騎士団長と名乗る男はノクティアにイングルフの遺物を幾つか手渡した。それは古びた日記帳と手紙を何通か。
そこには、どこか記憶にある絵があった。
遠い昔、母に描いた絵だった。その後ろには〝あなたと同じ瞳の色の可愛い娘、ノクティアが描いたの〟と。
母はどうやら、ノクティアの絵を送っていたらしい。貴族の屋敷に宛先不明の手紙など寄越しても捨てられる。だがこうしてあるという事は、屋敷の誰かを経由して渡されたのだと思しいと、騎士団長は言う。
貧困街まで来て、自分の消息を掴んでいた唯一の人……きっと、エイリクだろうとノクティアは思った。
そしてこの日記を開き、ノクティアは言葉を失った。
彼の心にあった罪悪感の数々。そして謝罪。母への愛と、〝実娘〟──ノクティアに会いたいと。
そして、もう一人の〝血の繋がらない娘〟への愛がそこに綴られていた。
※
──稀代の毒婦フィルラ・ヘイズヴィーク。
ヘイズヴィークでの出来事は、瞬く間に王国中に広がった。
私腹を肥やす為に現在侯爵夫婦を失脚に貶めた事、毒により夫を殺害。そして、過去には夫の母親も殺害も暴かれた。
『とんでもない女がいたものだ』と、庶民たちは呆気に取られ、フィルラを知る貴族の女たちも強い衝撃を受けたそうだ。
そして更に驚かされたのは、彼女の悪事を……ヘルヘイムの死の女神という超常的な存在によって証明された事だった。
何でも、ヘイズヴィークの〝ヒースの聖女〟とも称させる前侯爵の庶子ノクティア・ヘイズヴィークに神秘の加護を授けた存在だったと言う。
冥府の女神に愛されたヒースの聖女。そんな風にノクティアの事も伝わったらしい。
超常的な者の介入だなんて、口で聞けば誰もが耳を疑う。
だが、あの事件の際、現在の侯爵夫人であるノクティアの救出に向かった王国騎士や教会省の聖者も数多く、あまりに目撃者が多すぎた。それも双方の機関の権力者は多くいた。
……よって、王国最高位の判事もこれら全てが真実だと認め、フィルラとその侍女スキュルダの極刑が決まり、三週間後、処刑が執り行われた。
最後の日まで、フィルラは爛れ汚れた悪女だったそうだ。
話によれば、王都から招いた最高位判事や騎士さえも誘惑し、頑なに罪を認めなかった。そして断頭台に立つ最後の瞬間まで〝か弱い被害者の女〟でいようとした。しかしもう誰もがその化けの皮の下を知っている。誰も、その誘惑に耳を傾ける事も無かった。
ソルヴィはジグルドにアーニル、リョースとともに、フィルラとスキュルダの終焉を見届けた。
しかし、まだこの事件で残された課題が一つだけあった。毒婦フィルラの実娘エリセの存在だった。
……屋敷を牛耳り、二度も殺人を犯した女の実娘だ。それも毒婦フィルラをまさに〝若くした〟ようで瓜二つ。今回の事件を目撃した王国騎士や聖者たちは、エリセを気味悪がり、周囲では処刑を望む声も幾らか上がった。
血筋は遺伝する。いずれは
そんな彼女の裁判は今まさに行われていた。
法廷に立ったエリセは、顔面が真っ白で憔悴しきっていた。あの麗しき令嬢の見る影もなく、彼女は目の下に真っ黒なクマを作り、肌も髪もぱさぱさとして艶を完全に失っていた。
……母の悪事を止めようとすれば、おまえなど娘ではない、要らないと捨てられた。その上、裁判の中、身元を調べる上で、イングルフ・ヘイズヴィークの実娘でない事を明かされた。
もはや絶望の縁に立たされたエリセは何も応えない。微かに唇を振るわせて『もう死んでしまいたい』と、呟き続けていた。
しかし、彼女の犯した罪というのは、処刑に値するほどのものはない。
ノクティアに対する悪口や態度での嫌がらせは事実あった。
だが、エリセの侍女の証言によれば、彼女自身が、ノクティアを殺して欲しいだの、いたぶって欲しいだのと言った事実は一つも無かったという。
「妻への侮辱や、結婚式の日に妻の伯母にした侮辱は鮮明だ。だが、侍女の証言を聞く限り、私としても、彼女自体に死刑にする程の罪は無いと思う」
ソルヴィの証言に、すぐに隣に座ったノクティアはすっと手を挙げている。判事はノクティアを指して発言を許諾した。
「私も同じ意見です。この子を殺さないで、私はそんな事を望んでいない」
ノクティアが言うと、これまで黙っていたエリセは顔をたちまち真っ赤にさせて振り返る。
「ふざけないで! 私は死にたいって言っている! これ以上の生き地獄を与えようなんて! 貴女は庶子だけど、お父様の血を継いでいた! だけど、だけどっ──私は! いい気味だって、ざまぁみろって私を嗤っているのでしょう」
目を真っ赤にした、くしゃくしゃの泣き顔だった。エリセは悲痛な面輪でノクティアを睨む。
「もう死なせてよ!」
彼女は金切り声を上げて、舌を噛み切ろうとした瞬間──警備に当たっていた騎士に取り押さえられ、彼女は布を噛まされ、裁判は途中で中断した。
……結局本人は不在で裁判は進んだ。
エリセは処刑に値する程の罪は無い。フィルラの行動の引き金にはなっただろうが、彼女自身は悪口のみでノクティアに実害は与えていない。処遇については、「お二人や親族で話し合った上で決めたらどうかという」判事に促され、ノクティアとソルヴィはそれで合意した。
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ノクティアは裁判の後、裁判員に案内されて、エリセの収監された部屋に向かった。
エリセはれっきとした罪人ではない。牢獄というより、そこはただの殺風景な部屋だった。
よほど精神状態を乱している事もあるだろう。彼女は口に布を噛まされたまま、椅子に座らせられ、裁判所の用意した医者と聖者に宥められていた。
その聖者は見知った顔。リョースだった。
……リョースは唯一ノクティアのワタリガラスたちとの意思疎通ができた。この事件が起きた際、的確な指示を出し動き回ってくれたと、ノクティアはソルヴィやジグルドから聞いた。
教会とは本来、民の心の拠り所。苦しみ悩めるものの話を聞く事もある。聖者はその為に耳を傾ける。リョースは本来、死者に向き合う他、異端尋問が仕事だが、今回の事件で侯爵夫人救済の協力者となった。そして事件の全貌を最も把握している聖者故に、自らこの役目を買って出たらしい。
だが、エリセがノクティアの姿を目に映した瞬間だった。彼女は暴れ藻掻くので、急ぎリョースと医者は彼女を押さえつける。
「侯爵様、ノクティア様! 今はお引き取りください」
だが、ノクティアはすぐに首を横に振る。
「私、エリセにこれだけはきちんと話さなきゃいけないの。辛くても逃げちゃだめ。エリセ、向き合って。ううん、向き合いなさい」
そう言って、ノクティアはエリセの前まで歩み寄ると、ハンドバッグの中から、古びた日記帳を取り出した。
「エリセ、いい? ちゃんと目に焼き付けて」
ノクティアは暴れ藻掻くエリセの肩を掴み、その目をじっと見据えた。
その瞳と合わさって幾何か。彼女は黙り、ゆったりと落ち着きを取り戻す。それを見計らって、ノクティアは古びた日記帳を出してページを捲ると、それをエリセに渡す。
「自分で持って、ちゃんと読んで」
その言葉に従い、エリセは日記に視線を落とし──やがてその瞳には分厚い水膜が張った。
──今日はエリセが初めて立った日だ。戦があって父は死に、母まで亡くなり暗い事ばかりだったが、これほどまでに嬉しいのは久しぶりだった。
エリセが今日は初めて俺を呼んだ日。
「とーとー」と、可愛らしい声でペリドットみたいな瞳を向けて微笑んだ。
ノクティアの成長もこうして間近で見たかった。何か俺にできる事はないだろうか。
今日は、エリセを馬に乗せてヘイズヴィークの湾まで行った。ヒースの花を見て「お父様の瞳みたい」だと言ってくれた。娘が可愛くて仕方ない。
そして最後のページだった。このインクはまだ新しい。
──俺は大きな罪を犯してしまったが、娘を二人持てたのは幸せだ。二人とも目に入れても痛くない程に可愛い。平等に愛している。
そこに綴られた言葉の数々にエリセは大粒の涙を溢し、啜り泣いた。
「あんたと私は他人だけど、父親は同じ。あの人は平等に思い愛した事を忘れないで。パパがこう言うもの。私は、あんたを〝妹〟って思うよ」
そう告げると、彼女は静かに頷き。声を上げて泣いた。
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その後、数日と経ち、徐々に落ち着きを取り戻したエリセ本人とこの後の事を相談した。
様々な道がある。だが、もうヘイズヴィークには居づらいだろう。それに稀代の毒婦の実娘。その名はもう国中に知られてしまった。
「あくまでもの一つの道ですが、名を改めて、私の手伝いをするのはいかがですか」
そう誘ったのはリョースだった。修道院に入るのも手だが、それより少し自由もあるだろうと。
「贅沢はできませんが、存外悪くない生活ですよ。恥知らずな私は以前、侯爵様たちに多大な迷惑をかけました。償いになるか分かりませんが、私と一緒に前に歩んでいきませんか?」
そう語ってリョースは手を差し出した。
エリセは頷き、その手を取った。
エリセ・ヘイズヴィーク。彼女はリョースの導きのもと洗礼を受け、〝エルザ〟として教会省の一員となった。