質問したことがあった。
すると楽広は「思考である」と答えた。
衛玠は更に問う。
「肉体や精神が外部と
接触していないときに見るのが
夢でありましょう。
我々が思考をなすのは、
肉体や精神が外部と
接したところから発生するのだ、
と聞いております。
どうしてこれが思考である、
と言えるのでしょう?」
楽広は答える。
「因、というべきだろう。
思考を原因として、夢が発生する。
だから我々が思いもよらないもの、
例えば、そうだな。
車に乗って鼠の巣穴に飛び込む夢など
見るだろうか?
あつものをすり潰して鉄の杵を
食べる夢など見るだろうか?
これらの事態には、思考が及ばない。
思考が及ばないから、
そこに因は発生しない。
そんな夢など、見たことがないだろう?」
んー、わかったような、わからないような?
衛玠、家に帰ってからも、
楽広の言う「因」を考えたが、
どうにもうまく腹落ちしない。
しまいには、そのせいで
風邪をひいてしまう始末。
楽広、衛玠が知恵熱で倒れた、と聞き、
わざわざ見舞いに出向いた。
そして衛玠が例の問答のせいで
倒れたと知ったので、改めて、
過日のテーマについて、
もう少し詳しく説明した。
すると衛玠、少しではあったが、
元気を取り戻した。
楽広は喜び、言う。
「この子にとっての病は
知らぬこと、なのだろう。
ならば、その病に敗北することも
そうそうはないであろうよ」
まあフィジカルな病には負けるんですが。
衛玠總角時問樂令「夢」,樂云「是想」。衛曰:「形神所不接而夢,豈是想邪?」樂云:「因也。未嘗夢乘車入鼠穴,擣齏噉鐵杵,皆無想無因故也。」衛思「因」,經日不得,遂成病。樂聞,故命駕為剖析之。衛既小差。樂歎曰:「此兒胸中當必無膏肓之疾!」
衛玠は總角にして時に樂令に夢を問わば、樂は云えらく「是れ想なり」と。衛は曰く:「形と神とは接せざる所なれど夢せん、豈に是れ想たらんや?」と。樂は云えらく:「因りたるなり。未だ嘗て夢にて車に乘りて鼠穴に入り、齏を擣ちて鐵杵を噉らうなからん。皆な想無くして因無きが故なり」と。衛は因をは思い、日を經れど得たらざれば、遂には病を成す。樂は聞き、故に駕に命じ之を剖析せるを為す。衛は既にして小しく差したり。樂は歎びて曰く:「此の兒が胸中にては、當に必ずや膏肓の疾無からん!」と。
(文學14)
話の筋は何とか解釈出来たのだが、この辺が「因」という一事に集約される組み立てが上手くできない。というかこの話は
覺有八徵,夢有六候。奚謂八徵?一曰故,二曰爲,三曰得,四曰喪,五曰哀,六曰樂,七曰生,八曰死。此者八徵,形所接也。奚謂六候?一曰正夢,二曰蘁夢,三曰思夢,四曰寤夢,五曰喜夢,六曰懼夢。此六者,神所交也。不識感變之所起者,事至則惑其所由然;識感變之所起者,事至則知其所由然。知其所由然,則無所怛。一體之盈虛消息,皆通於天地,應於物類。故陰氣壯,則夢涉大水而恐懼;陽氣壯,則夢涉大火而燔焫;陰陽俱壯,則夢生殺。甚飽則夢與,甚饑則夢取。是以以浮虛爲疾者,則夢揚;以沈實爲疾者,則夢溺;藉帶而寢則夢蛇,飛鳥銜髮則夢飛;將陰夢火,將疾夢食;飲酒者憂,歌儛者哭。子列子曰:「神遇爲夢,形接爲事。故晝想夜夢,神形所遇。故神凝者想夢自消。信覺不語,信夢不達,物化之往來者也。古之真人,其覺自忘,其寢不夢,幾虛語哉?」
目覚めているときの感覚、夢見ているときの現象というのはいろいろあるけど、どちらも関与し合っているよ、的なお話のようだ。そうした状態で、どちらが真実だ、などと言っても仕方ないよ、的な議論のようだ。ようだと書くしかない。よくわからん。
http://www.randdmanagement.com/c_kushou/ku_401.htm
ここに訳が載っていました。な、なるほど?????