これがまた文章を能くし、
様々なものに通じている。
すると、劉惔さんは聞く。
「あそこの息子殿と較べてどうなのだ?」
息子殿。
王羲之は答える。
「奴隷にしては優れている、
と言うだけの話だよ。
どうして郗愔殿と
較べる必要があるのだ」
すると劉惔さん、バッサリ切り捨てる。
「郗愔殿に及ばぬのか。
では、所詮はただの奴隷だろう」
郗司空家有傖奴,知及文章,事事有意。王右軍向劉尹稱之。劉問「何如方回?」王曰:「此正小人有意向耳!何得便比方回?」劉曰:「若不如方回,故是常奴耳!」
郗司空が家に傖奴有り。知は文章に及び、事事に意を有す。王右軍は劉尹に向かいて之を稱う。劉は問うらく「方回とでは何如?」と。王は曰く:「此れ正に小人の意向を有せるのみ! 何ぞ便ち方回と比ぶるを得んや?」と。劉は曰く:「若し方回に如からずんば、故より是れ常奴のみ!」と。
(品藻29)
劉孝標注では「郗司空」を郗愔に比定している。のだが、郗愔は司徒にこそなれ司空にはなっていない。この事実をどう認識するか、でいろいろ解釈は変わってくるのけれども、個人的には郗鑒説の方が物語として収まりがいいかな、という印象である。
というのも、奴隷をその家の主人と比較するって、それこそおかしな話だと思うのだ。っつーかそうやって認識すると「郗愔さんのことをどひどく悪し様に言っている」ようにも認識できますね。