かれの施政はとにかく苛烈だった。
さて、そんな山遐が
東陽を去ることになった。
すると
東陽太守に名乗りを上げる。
「山遐の苛烈な統治の後には、
私のような人間のなす、
温和な統治が良いでしょう」
とのことだ。
だが、この名乗りには別の側面があった。
と言うのも王濛、簡文帝の下で
激務をこなす中で疲労がたたり、
病を得てしまったのだ。
そこで、職務が軽くなる地位を求めた。
しかし簡文さま、これを却下する。
「まだまだわしを助けてほしい」
という事なのだろう、が。
間もなく王濛、病が重くなる。
事ここに至り簡文さま、ようやく悟る。
「ああ、これではわしが
王濛を殺すようなものではないか!」
こうしてようやく
東陽転出の辞令が下りたが、
時すでに遅し。
間もなく王濛は病死する。
臨終の際、王濛は言った。
「皆が司馬昱さまを
愚か、愚かと言っていものだが。
まさか、その愚かしさを、
このような形で味わうことになるとは!」
山遐去東陽。王長史就簡文、索東陽云:「承藉猛政、故可以和靜致治。」
山遐は東陽より去る。王長史は簡文に就くるに、東陽を索めて云えらく「猛政を承藉せるは、故より和靜を以て治を致すべし」と。
(政事21)
王長史求東陽。撫軍不用。後疾篤臨終、撫軍哀嘆曰:「吾將負仲祖!」於此命用之。長史曰:「人言會稽王痴。真痴!」
王長史は東陽を求む。撫軍は用いず。後に疾の篤かるに、終に臨み、撫軍は哀嘆して曰く「吾れ將に仲祖に負かんとす」と。此れに於いて命じ之を用う。長史は曰く「人は會稽王を痴と言う。真に痴なり!」と。
(方正49)
山遐
竹林七賢
王濛
だいたいここに書いた通り。しかし本文に書いてない背景をすっぽかして読むと、我儘な副官と簡文さまがケンカした、位の感じに映るよね。なんだろう、世説新語のスタンス、相当念入りに簡文さまを叩きたいのかな。何せ「疾」字、他んとこでちょくちょく「疎んじる」意味で使われてるものね。