中国にいつ頃仏教が渡ってきたかは、
はっきりとしたことはわからない。
が、いまいち広がり切れなかった。
なので
的な扱いからなかなか抜け出せなかった。
例えば、
「仏典では精神を磨き上げれば
聖人になれると謳っているが、
どうなのだろうな。
高山の頂に辿り着いたからと言って、
その山を支配できる、
と言う訳でもあるまい。
ただまぁ、修練がもたらす功は、
決して小さからぬとも思うのだがね」
佛經以為袪練神明,則聖人可致。簡文云:「不知便可登峰造極不?然陶練之功,尚不可誣。」
佛經は以て神明の袪練せるを為し、則ち聖人に致すべしとす。簡文は云えらく:「峰に登れるに、便ち極むに造るべきや不やを知らず。然れど陶練の功、尚お誣すべからず」と。
(文學44)
仏教絡みはこのあとにくる