片田舎でひっそりと暮らそうという志を
表明した文章をものしてのち、
庵を
我、足ることを知り、
立ち止まりたり。
というわけである。
書斎の前には一本の松を植え、
それはもう大切に育てていた。
この頃、近所に
やはり同じように、世の栄達を
捨ててのことであったのだろうか。
と、思いきや。
「松の木を愛でるのはいい。
その楚々とした有様は、
確かに愛でるに足るものだろう。
が、結局は梁にも柱にも
ならんではないか!」
そうすると、孫綽も言う。
「カエデや柳のようなそなたの
奥方の腰を抱いたところで、
やはり梁にも柱にも出来るまい?」
孫綽賦遂初,築室畎川,自言見止足之分。齋前種一株松,恆自手壅治之。高世遠時亦鄰居,語孫曰:「松樹子非不楚楚可憐,但永無棟梁用耳!」孫曰:「楓柳雖合抱,亦何所施?」
孫綽が遂初を賦せるに、室を畎川に築き、自ら言えらく:「止足の分を見たり」と。齋が前には一株なる松を種え,恆に自らの手にて之を壅治す。高世遠は時に亦た鄰居せば、孫に語りて曰く:「松樹が子、楚楚にして憐れむべからざるに非ざるも、但だ永きは棟梁の用無きのみ!」と。孫は曰く:「楓柳は合い抱きたると雖も、亦た何ぞ施したる所ならんか?」と。
(言語84)
そんなもん愛でても一文の得にもなるまいに、という高柔に対して、「一抱えほどのカエデや柳の木」として高柔の奥様を暗喩する、という事らしい。また孫綽さん、ずいぶんとまぁ発想がエロいと言うかゲスいと言うかおっさんと言うか……あ、いえ、好物でございます。