「そのスマートな思考は、
まるで
というものだった。
さて、そんな殷浩が、隠棲生活の末、
出仕した後の話となる。
殷浩の知る優れた少年の一人に、
殷浩はしきりに劉爰之を褒めやそす。
これは是非とも取り立てたい。
こうして劉爰之、庾亮の属官となる。
早速の召喚を受けて、
庾亮と会話する劉爰之。
だが、うまく会話が噛み合わない。
緊張なのか、不調だったのか。
ともあれ庾亮、期待ほどじゃないな、
とがっかりし、かれを
「羊公の鶴」
と呼んだ。
というのも、
羊祜は一羽の鶴を飼っていた。
この鶴、美しく舞う、
という事で評判だった。
ある日羊祜が、客人に
この鶴のことを自慢した。
それは見てみたい。
早速客人、鶴を追い立てる。
すると鶴はじたばたしてばかりで、
全然舞おうともしない。
庾亮は劉爰之を、
そんな鶴に例えたのである。
世目殷中軍:「思緯淹通,比羊叔子。」
世の殷中軍を目すらく:「思緯の淹通なること、羊叔子に比す」と。
(品藻51)
劉遵祖少為殷中軍所知,稱之於庾公。庾公甚忻然,便取為佐。既見,坐之獨榻上與語。劉爾日殊不稱,庾小失望,遂名之為「羊公鶴」。昔羊叔子有鶴善舞,嘗向客稱之。客試使驅來,氃氋而不肯舞。故稱比之。
劉遵祖は少くして殷中軍の知る所と為り、之を庾公に稱う。庾公は甚だ忻然とし、便ち取りて佐と為す。既にして見ゆるれば、之を獨榻の上に坐せしめ與に語る。劉は爾の日は殊に稱わず、庾は小しく失望し、遂には之に名して「羊公鶴」と為す。昔に羊叔子に善く舞う鶴有り、嘗て向かいたる客に之を稱う。客の試みに驅せ來らしむるに、氃氋として舞うを肯ぜず。故に之に比し稱す。
(排調47)
劉爰之
ほぼ名前しか残ってないレベルの人である。挽回できなかったんだな……。
庾亮
庾氏は八王の乱勃発時、逸早く江南の地に疎開している。この一件を見るだけでも行動力実行力の高さはよく窺える。八王の乱収束後赴任してきた、のちの元帝
陶侃亡き後、陶侃の軍府を継承。更にその軍府は西府として、弟の
※品藻と排調ってだいぶ離れてます。けど先の記述を把握することで、なんで庾亮が羊祜を引き合いに出してきたのかがわかるという仕組み。やめてくださいこういう伏線回収……(クッソ笑顔)