マリーニアの都に、時を告げる鐘が鳴り響く。
すでに日は沈み、民の多くは夕餉を終えて、家族や友人、恋人らとの団らんのひと時を持っている刻限だろう。
3月は、西方世界の北に位置するこの国では、まだ冬だ。通りの端や屋根の上などには、朝方に降った雪がまだ残っている。
都の真ん中に位置する森の、そのほぼ中央には聖女の館が建っていた。
名前が示すとおり、そこはマリーニアの聖女の住まいである。
現在、その館の主である聖女はミリエラだった。十七年前、エーリカから亡命したあの娘である。
当時聖女だったハルドラは、その翌年に床に就き、二年後に亡くなった。
体は弱っていても頭はしっかりしていたハルドラから、三年間みっちりと聖女としての教育を受けたミリエラは、彼女の死後に正式な聖女となって今に至る。
すでに夕食も終え、一人で入浴していたミリエラは、ふいに頭上から降り注ぐシャワーの音が遠のくのを感じた。
(何……?)
目の前がぼやけ、濡れたタイルの上に金色の光が踊るのが見えた。
その光が、かつて遠目に見たことのある黒髪の少女の姿へと変わる。
「聖女……様……?」
思わず口から出た呟きに、彼女はハッと大きく息を吐き出した。視界が元に戻り、再びシャワーの音が耳に響く。
彼女は濡れた髪をかき上げ、身を起こすとシャワーを止めた。
そこからあふれていたのは湯で、浴室内は湯気に白くけむっている。にも関わらず、彼女は体が冷えているのを感じて、軽く両肩を抱いた。
これが、何かの啓示だと彼女はすでに気づいている。
そう、彼女には啓示を受け取る力があった。
啓示とは、先程のように突然訪れる軽い意識の混濁の中、何かの光や影、あるいは音や匂いを見たり聞いたり感じたりするもので、そこからミリエラはなんらかの出来事の尻尾のようなものを知覚するのだ。
それは、ハルドラにはなかった能力で、三年間の聖女教育の中、いつしか芽生えていったものだった。
浴室から出るころには、すでに冷えた感覚も去り、意識はごく普通のものに戻っていた。
浴室の外には女官のユーゲライラが待ち受けていて、用意のバスタオルで彼女の体を包むと水滴をぬぐい始める。
それへ、されるがままになりながら、ミリエラは言った。
「セイン男爵に明日、館へ来てくださるように使いを出してください。お伝えしないといけないことができました」
ユーゲライラは一瞬ハッと手を止めたものの、すぐに「承知いたしました」とうなずいて、後ろに控える年若い女官らにミリエラの着替えを任せると、自分はそのまま下がっていく。
それを見送り、ミリエラは残りの女官らに夜着を着せてもらうと、寝室へと向かった。
翌朝、ミリエラが食事を終えるころ、館にセイン男爵がやって来た。
セイン男爵――十七年前に、彼女の後を追うようにしてこの国に亡命したエーリカの元左大臣である。
「昨夜、啓示を得ました。――エーリカの元聖女、ルルイエ様が西方世界に戻っておいでです」
セインと向かい合って座すと、ミリエラは告げた。
そう、それが昨夜の啓示から、彼女が得た答えだった。
「ルルイエ様が……!」
セインは軽く目を見張って声を上げる。
ルルイエがジャクリーヌと共に東方世界の一国セビーリアにいることは、彼も次男からの親書で知っていた。だが、この何年かはルルイエたちに関する情報は、絶えている。というのも、次男はしばらく彼女たちと連絡が取れていないためだ。
現在、セインの次男カルドスは家族と共に、エーリカの隣国アデライドにいた。
セイン夫妻がマリーニアに亡命した時には、長男一家ともどもエーリカ国内に残り、家族を置いてルルイエたちを探しに東方世界へ向かった彼だったが、東方から戻ったあとしばらくは、アデライドとの国境沿いにある小さな町に家族と共に引きこもってくらしていた。だが、国内は荒れる一方で、殊に都から遠い地方でのくらしは厳しく、ほどなく彼は妻子と共に国境を越え、アデライドに移り住んだ。
とはいえ、彼自身はエーリカの情報を得るべく、頻繁にアデライドと祖国を行き来する生活を送っていた。
だが次第にそれもできなくなる。
というのも、エーリカは出て行く者に対してはさほど詮索はしないが、入って来る者に対しては厳しい詮議を課すようになったのだ。
カルドスが最後にエーリカに入国したのは、二年前。地方の領主をしていた兄が、内乱の鎮圧ができなかったことを罪に問われて、捕らわれた時のことだ。
兄の家令からの知らせで駆けつけ、兄の頼みを聞いて、平民に落とされた兄の妻子をアデライドへと連れて来た。以後、兄はいまだに捕らわれたままだった。
そんなわけでカルドスは、この数年は東方へ向かうことはおろか、手紙のやりとりすらできていない状態なのだった。
そのあたりの事情はむろん、セインも知っている。
そして、左大臣だった時の伝手を頼って、なんとか長男を釈放できないかと知恵を絞ってもいた。
なんにせよ、そんな彼にとっては、ミリエラから伝えられた言葉は驚きであると共に、かすかな希望をも抱かせた。
「では、ルルイエ様が再び聖女となられると?」
「それはわかりません。ですが、なんらかの意図があってエーリカに向かっていると思われます」
思わず尋ねるセインに、ミリエラは小さくかぶりをふって返す。そして続けた。
「ただ、どのような意図があるにせよ、ルルイエ様が容易くエーリカに入れるかどうか……。エーリカは今、入国しようとする者を厳しく詮議するのでしょう? 東方世界から来た商人でもない者を、簡単に入国させてくれるでしょうか」
「それは、そうですな……。息子の話では、ルルイエ様は今では東方世界では『大魔法使い』と呼ばれる等級の魔法使いであるそうです。ですがそれは、西方世界では通用しますまい」
言われてセインも、考え込みながらうなずく。
魔法の概念がほとんどない西方世界では、そもそも魔法使いに対する敬意も存在しないのだ。魔法使いとしての等級も役には立たず、身分を明かし立ててくれるのは、属する国が発行した旅券のみとなる。むろん、西方世界の国々でも、入国の際にさほど厳しく詮議しない所もある。だが、そうした国々でも「魔法使い」というとうろんな目で見られるのが、普通だった。
「わかりました。アドニアスをカルドスの元に向かわせ、とりあえずこのことを知らせることにします。エーリカ国内には、まだ私やカルドスらと懇意だった者もおります。彼らの手を借りれば、ルルイエ様が難儀することなく、エーリカに入国できる手段も見つかるやもしれません」
しばし考えたあと、セインが言う。
「お願いします」
うなずいて、ミリエラは少しためらったあとに、続けた。
「それと……これは以前から気になっていたことですが、エーリカの宰相様が東方より
言われてセインも、そういえばそんな者がいたのだと思い出す。
そして、思わず眉をひそめた。
考えてみれば、宰相がその呪い師を東方世界から呼び寄せたあたりから、エーリカの災いは始まったのだ。
王が突然、西方世界ではあり得ないことを言い出して、当時聖女だったルルイエを追放した。
そのあと聖女を名乗った王妃は子供を生んで亡くなり、本来聖女であるはずのミリエラは、国を出ることを余儀なくされた。
現在エーリカの聖女を名乗る王女は、能力はあるものの、その力を自分のためだけに使い、おかげで国は聖女がいないのと同様に荒れ果てているという。
王は相変わらず王妃の死の悲しみにふさがれ、いまだに人前には姿を現さないと聞くし、かわりに政務を行う宰相は、国が荒れるに任せているという。
そんな状態に、平民も貴族も関係なく、国を捨てて逃げ出す者は後を絶たず、その噂はマリーニアにまで聞こえて来るありさまだ。
同時にセインは、十七年前、最後に宰相と話した時のことを思い出した。
あの時宰相は、聖女を王妃にしたくないという王に従い、国がもたないならばそれでいいと覚悟しているように見えた。
(だから、聖女の自分勝手な行いを放置しているのか? それとも……まさか、その呪い師に操られているとでも?)
セインの脳裏に、ふとそんな思いがよぎる。だが彼は、すぐに小さくかぶりをふった。あの宰相が、他人に操られるなど、想像できなかった。
(彼のことだ。もし相手が他人を操るほどに強い魔力を持っているとしても、かならずそれを避ける方法を見つけ、自分と周囲に施してから相手を呼び寄せるはずだ)
セインはそう考える。宰相は、それぐらい用心深い男だった。そも、それぐらいでなければ、前の宰相の死後、その地位を得ることなどできなかっただろう。
とはいえ、たしかに彼らはその呪い師について、何も知らない。
身元などを調べてみる必要は、あるだろう。
セインは、うなずくと言った。
「わかりました。その件も合わせて、カルドスに伝えるようアドニアスに言っておきます。ただ、呪い師が本当に東方から来た者ならば、身元を調べるのには時間がかかりましょう」
「そうですね。ですが、カルドス殿は実際に東方世界に行ったこともある方です。どこの国の出身かだけでもわかれば、調べる場所の目星ぐらいはつくのではないですか?」
ミリエラもうなずいて返す。
「ええ。……そのあたりは、カルドスに任せれば大丈夫かと思います」
セインも小さく破顔して言った。
彼にとっても息子たち――殊に長男が捕らわれて動けない今、カルドスは最も頼りになる存在となっている。
「よろしく頼みます」
低く告げるミリエラにうなずいて、セインはそのまま聖女の館を辞して行った。
それを見送り、ミリエラは深い吐息をついた。
マリーニアの聖女となって十四年。当然ながら彼女はずっと、マリーニアの実りと平穏のために祈り続けて来た。その心に嘘はない。
けれどその一方では、祖国を思わない日もなかった。
ハルドラは最期の日、「これがあなたの運命だったのだ」と言った。
人には
その言葉は今も彼女の胸に生きて、聖女としての彼女を支え続けている。
それでも、エーリカの惨状を耳にするたびに、胸の奥がシクシクと痛んだ。「あの時、自分が国を見捨てなければ」との思いが、心を苛むのだ。
そんな彼女にとっては、今回もたらされた啓示は、一つの救いでもあった。
かつて追放された聖女が戻って来る。
それも、もしかしたら以前より強力な力を持って。
(ルルイエ様、どうかエーリカをお救いください)
ミリエラは、思わず胸に呟いた。
そして、つと立ち上がると、祖国エーリカのある方角に向いた窓を開け、遠くの空を見やるのだった。