――城の中の人の姿が、ずいぶんと減った。
――使われていない区画が増えた。
昔から城に勤める女官や官吏らは、寄ると触るとそんなことを口にする。
だが、王女はそれを聞くたび、首をかしげる。
なぜなら、彼女の周辺は、物心ついたころとさほど変わらないからだ。
たしかに、辞めた女官も何人かはいるが、そのあとすぐに新しい女官が雇い入れられ、彼女の周囲はいつも賑やかだ。
その夜も、王女の住まいである聖女宮の広間には、大勢の人が集まっていた。
すでに時刻は21時を過ぎている。
ほんの数年前ならば、王女はこの時間、女官らに追い立てられてすでに寝台に入っていたものだ。けれども今は、豪奢なドレスに身を包み、集まった人々と歓談を楽しんでいる。
むしろ夜はこれからだ。
「王女様、こちらのお菓子を召し上がれ。とてもおいしゅうございますわ」
「王女様、素敵なドレスですわね。とてもよくお似合いですわ」
「王女様、ぜひ、私と踊ってください」
客たちが次々と声をかけて来て、会話が弾む。
そのあと、ぜひお相手をと申し込んで来る紳士たちと次々と踊るのも、こうした夜会の醍醐味の一つだ。
(なんて楽しいの。成人したら、何もかも自由になるって、本当にメノウの言ったとおり)
胸に叫びながら、王女はあたりに笑い声を響かせる。
成人である十五歳になるまでの王女の日々は、なんともつまらないものだった。
毎日、勉強と祈りと面会を繰り返すだけだ。
勉強はあまり好きではなかったし、祈りの時間は退屈だった。
唯一、面会だけが宮の外からやって来る人と会える時間で、彼女にとっては少しだけ楽しみなものだった。
とはいえ、会うのはたいていが乳母のメノウより年上の人たちで、それも男性が多かった。
彼らは王女にはよくわからない悩み事をあれこれ話し、どうにかしてほしいと訴える。
だが、ほとんどは彼女にはどうにもできないことで、同席しているメノウと女官たちが「祈っておきましょう」と答えて終わりだった。
それでも時おり、若い女性が訪れることもあった。
彼女たちは、花やお菓子や装飾品を土産に携えて来て、外の世界のことを話してくれる。むろん、多くは最後に頼み事をしていくが、中には「自分の親の住む土地を豊かにしてほしい」などという、彼女にもできることもあった。王女は土産の礼に、あるいはメノウや女官たちに言われて、彼女たちの頼み事をかなえてやった。
王女は、王女であると同時に聖女だったが、「聖女」がどういうものか、ちゃんと理解してはいなかった。
メノウや女官たちは、「聖女は国が富み栄えるための要だ」と言い、「この国が豊かに繁栄していくためには、聖女の祈りが必要だ」とも言った。
けれど、宮の外に出たことのない王女には、それがどういうことかがわからなかったのだ。
彼女が外のことを知るのは、面会に訪れる人々の話や周囲に侍る女官たちの話、そして書物に書かれていることと、ごく限られたものばかりだった。
しかも書物に関しては、勉強ぎらいの彼女は文字がたくさん並んだものを読むのも苦手で、母の女官が見つけたという聖堂の書物には、まったくといっていいほど目を通していない。
彼女が好むのは、きれいな絵がたくさん描かれていて、その中にほんの一行か二行、簡単な文章が入っているようなものだった。
それらの中には、大きな森や草原、川や海や湖を描いたものもあって、メノウと女官たちは彼女に「エーリカの国は、このように豊かなのですよ」「この豊かさを支えているのは、聖女である王女様なのです」と教えた。
それを聞いて王女は、エーリカ全土がその絵のように豊かな水と緑に包まれた、美しい所なのだと信じるに至ったのだった。
とはいえ、「豊かな緑」というものを実際には城の庭園ぐらいでしか知らない彼女は、祈ることにもさほど意欲的ではなく、ただメノウたちに求められるまま、機械的に行っているにすぎなかった。
王女が、女官たちが口にするある「噂」を耳にしたのは、6月も半ばをすぎるころだった。
――追放された聖女様が、戻っていらしたらしい。
それは、そんな噂だった。
初めて耳にした時には、王女はなんのことだかわからず、それでメノウに「エーリカには追放された聖女がいるの?」と訊いてしまった。するとメノウは怖い顔をして「いったい誰からそのようなことを聞かれたのですか?」と言ったので、王女は慌ててごまかしたものだった。そして、これについてメノウや女官に訊いてはいけないことだったのだと、学んだのだった。
けれど、気にはなる。
そこである日、王女は詰め所でひそひそと噂話をしている下っ端の女官二人をつかまえた。そして、「追放された聖女」と「その聖女が戻って来た」ことについて問い詰めたのだった。
女官二人は、相手が王女であることにおそれおののきながらも、自分たちの知っていることを話した。
十八年前、王妃の前に聖女だった女が、王から役立たずだと言われて国を追放されたこと。その女はほどなく、他国で死んだと伝えられたこと。だが実際には死んでいなかったらしく、最近になって国元に戻って来たらしいこと。戻った女は、東方世界の「魔法使い」になっていたこと。
ただ、噂はなぜ女が戻って来たのかまでは、伝えていないようだった。
自分の部屋に戻ったあと、王女はその話を改めて考えてみる。
(もしその元聖女が戻って来たのが、また聖女をやるためだったなら……)
話を聞いた女官たちは、噂では、女が祈りと魔法とやらの力で国を救ってくれるのではないかと囁かれていると言っていた。
「国を救う」というのがどういうことか、王女にはわからなかった。けれど、その女が聖女をやってくれるなら、自分はやらなくてもよくなるということだ。
(だって、聖女は一つの国に一人だけだと、メノウも言っていたものね。ならば、わたくしはもう、聖女をしなくてよくなるということだわ!)
もうあの退屈な祈りの時間を過ごすこともなく、つまらない老人たちの話を聞く必要もなくなるのだと思うと、王女は強い解放感に包まれた。
そして、彼女は心に決める。
(次におじいさまと夕食をご一緒する時に、この人を城に招いて聖女になってくれるよう説得していただけないか、お話してみましょう!)
と。
数日後。
王女は母方の祖父である宰相と、夕食を一緒に摂る機会に恵まれた。
その席で、彼女は言った。
「おじいさまは、昔お父様に追放された聖女が、国に戻って来ていることをご存知でして? なんでも、東方で『魔法使い』というものになったのだそうですわ。それで、わたくし、その方にまた聖女をやってもらえないかと思うのです。昔は役立たずだったかもしれませんけれども、きっとその『魔法使い』になった今でしたら、わたくしよりもずっと役に立つのではないかしら」
王女の言葉に、宰相は思わず食事の手を止める。
王女が勉強ぎらいで聖女の仕事を好いていないことは、彼も承知していることだった。だが、こうもあっさりと、見知らぬ者にその役目を譲りたがるのを見れば、そこまでいやかと、内心に深い溜息をつきたくなった。とはいえ、そんなわがままを聞くわけにはいかない。
宰相は、ナイフとフォークを置いて、王女を改めて見やる。
「王女様、それはできません。先々代聖女の追放は、王が決められたことです。王の許可なく私が取り消すわけには参りません。それに、正確には、その者は我が国に入国してはおりません。当然でしょう。王が追放した者を、関所の者たちが容易く通すわけがありません」
恭しいが他人行儀な、およそ祖父が孫にかけるものではない口調で、宰相は言った。
宰相の元に、東の関所から問い合わせが来たのは、6月が始まってほどないころだった。
東方から来た三人の女たちが、入国の許可を求めているという。
旅券によると、彼女たちは東方世界の国セビーリアからの旅人だった。二人は魔法使いで一人は騎士見習いで、旅券そのものにはなんの問題もない。
問題だったのは、魔法使いの一人がエーリカの追放された元聖女、ルルイエだったことだ。
関所には、入国させてはならない人物の一覧が都から配布されている。
そこに並ぶのは、各国が手配している罪人や、エーリカ国内から追放された者たちである。死んだことになってはいたものの、そこにはルルイエの名前と似顔絵も含まれていた。
もっとも、通常ならこの一覧にある人物が関所を訪れても、ただ入国を許可しないだけで、都の宰相の元にどうすればいいかと問い合わせが来るようなことはない。
今回問い合わせがあったのは、彼女が死んだと思われていたせいと、「彼女が戻れば、国は豊かさを取り戻すのではないか」と関所の長官が考えたためだ。
城の周辺と都の一部を除く国内が、荒れ放題になっていることは、いまや誰もが知ることだ。
宰相もそうした報告は受けていたし、実際に荒れ果てた土地を目にしてもいる。
また、東の関所の周辺も草木一つ生えない荒れ地と化しているのは、そこで寝起きしている者なら充分承知しているだろう。
そこに現れた元聖女を、関所の者たちが一縷の希望と考えたとしても、無理はない。
だが、宰相は今王女に向かって言ったのと同じことを、書状にしたためて東の関所の長官に送った。
当然だろう。
ルルイエの追放は、王の意志なのだ。偽物か本物かには関係なく、疑わしい者を国に入れるわけにはいかない。
それに今、この国には正式な聖女がいる。
かつての王妃のように、聖女としての力がないならまだしも、王女にはその力があった。ならば、元聖女など不要ではないか。
愕然とする王女に、宰相は言う。
「王女様、どうぞ聖女としての自覚と誇りをお持ちください。他の者が――ましてや、王に追放されたような者が、ご自分よりも役立つだろうなどとは、ゆめゆめお考えになりませんように」
そして席を立つと、宰相はそのまま立ち去った。
王女はそれを、信じられない思いで見送る。
以前から祖父が、時おりよそよそしいとは感じていた。けれども、「おじいさま」ととびきりの笑顔を向ければ、たいていの望みはかなえてくれた。だから今度も、容易くかなえてくれると考えていたのだ。
そんな彼女の元に、成り行きを見守っていたメノウが、つと歩み寄る。
「王女様。どうか、ご自分のお役目を投げ出すようなことは、おやめくださいまし。王女様は、母君様の腹に宿った時より、聖女となる運命をお持ちのお方。それが、このような仕儀……わたくしは悲しゅうございます」
「メノウ……」
静かに言って目を伏せるメノウに、王女は思わず唇を噛みしめた。
王女にとって最も辛いのは、メノウを悲しませることだ。
彼女にとっては、メノウは母に等しい存在だった。
亡くなって久しい母は肖像画でしか見たことがなく、父とはほとんど顔を合わせたことがない。そのため、王女にとって両親は遠い存在であり、周囲に侍る女官たちと較べてさえ、どうでもいい存在だった。
だがメノウは、彼女が赤ん坊のころから傍にいて、なにくれとなく世話をしてくれた。
「ごめんなさい。……もう二度と今日のようなことは言わないわ。だから、悲しまないでちょうだい、メノウ」
王女は立ち上がると、素直に謝る。そして思った。たとえどれほど祈りの時間が退屈であろうとも、メノウを悲しませないためには、耐えるしかないのだと。