遠くの方で、時を告げる鐘の音が聞こえていた。
薄暗い部屋の中で、彼は小さく溜息をつく。
――まだ、こんな刻限か。
――まだ、一日が終わらない。
まだ、まだ、まだ……。
彼の中では、十七年前からずっと、時間は止まったままだった。
王妃が亡くなり、彼は誰にも会いたくないと、自分の部屋に閉じこもった。
最初は、側付きの侍従らや大臣らが連日のように扉を叩き、出て来てくれと懇願する声が響いていた。だが次第にそれも少なくなり、やがて訪れるのは宰相と侍従長のみになった。
最初のころは、食事も入浴や着替えもする気になれず、いっそ自分もこのまま飢えて死んでしまえればいいとさえ思っていた。
けれど、宰相と侍従長に懇願されて、少しずつ人らしい生活に戻っていった。
とはいえ、やはり人と会う気にはなれない。
双子の子供たちが成人した際には、祝いの儀式に顔を見せてほしいとの要請もあったが、それも断った。結局一度も顔を見ていない子供たちに対して、気持ちが動かなかったせいもある。一方で、もしも王妃が生きていたらどうだったのだろうか……などと考えてしまい、更に気持ちが沈んで、動くに動けなかったというのもあった。
ただ、王太子となった王子の成人に、ちらりと王位を譲ってしまおうかという考えも浮かんだ。
彼自身は、父の死によって九歳で王となったのだ。それを思えば、十五の成人で王となるのは、さほど早すぎる話ではないようにも思う。
だが、それに対して宰相の答えは否だった。
「殿下には、今のエーリカを支えるのは、荷が重すぎます」
宰相はそう言ったのだ。
それがどういうことなのか、国の状況を何一つ理解していない彼には、よくわからなかった。ただ、宰相がそういうならば、しかたがないと思ったばかりだ。
それに、自分が王として役立たずに成り下がっても、宰相がいれば問題ないのだから、ならばこのままでもいいか、との思いもあった。
そんなわけで、彼はただ日々を無為に自室に閉じこもってくらしていた。
生活に不自由はない。
けれども、心の中は乾ききったままで――殊に夜遅く、誰もが寝静まる刻限になると、彼は王妃の声が聞きたくてたまらなくなる。
毎夜、眠りに着く前には、せめて夢の中でいいから自分の傍に来て、あの快活な物言いで自分を慰めたり笑わせたり、時にはたしなめてほしいと思う。
だが、長い間、彼女は夢にさえ訪れてくれたことはなかった。
そんなある日のこと。
明け方近くに、彼はふと目覚めた。
いや、目覚めたつもりで、夢を見ていたのかもしれない。
ベッドの傍に、誰かが立っている。じっと見つめていると、それが黒いドレスをまとった女だとわかった。
「王妃。王妃なのか?」
思わず声を上げ、彼はベッドの上に身を起こす。
だが、女の顔は黒いヴェールにおおわれていて、見えなかった。ただ、肩から背に流れる髪は夜目にも白く、王妃ではないことがすぐに知れて、彼はがっくりと肩を落とす。そして、改めて眉をひそめた。
「何者だ。王の寝室に勝手に踏み入るなど、許されることではないぞ」
「王とは、よくいうたものぞ。政の全てを放棄して、ここに閉じこもっておるくせに」
嘲るような尊大な相手の物言いに、彼の眉間のしわは、深くなった。
「私のむなしさなど、他人にはわからぬ」
「そうかえ。……まあよい。今宵わたくしがここに来たのは、そのような戯言を話すためではないからの」
小さく肩をすくめて返すと、女は続けた。
「汝が追放した者が、都に来ておる。その者と会うがよい」
「私が追放した者?」
怪訝な顔になる彼に、女はもう一度肩をすくめた。
「かつてこの国の聖女と呼ばれ、汝の婚約者だった者のことぞ」
言われてはじめて彼は、昔そんな者が城にいたのだということを、思い出す。同時に、その元聖女は他国で死んだと宰相から報告を受けたことも、思い出した。
彼がそれを告げると、女は笑う。
「そのようなこと、世を欺くための偽りに決まっておろうが。誰であろうと命を奪われては、たまらぬゆえの。死んだことにして、この国の者の手の届かぬ東の世界に逃れたのじゃ」
女の言葉に、あの大人しそうな娘にそんな知恵があったのかと、彼はぼんやり思った。もう顔も思い出せない元聖女への彼の印象は、そんなものだった。
だが、女は彼の態度に大きな溜息をついた。
「まことに汝は、己の恋心にしか興味がないのだな。あるいは、いつまでも子供のままだと言うべきか。……代々の王は、公私をきっちり切り分けておったものだがの。そも、王妃となった聖女を閨に呼べとは誰も言うておらぬのに、何が不服ぞ」
言われて彼は、険しく顔をしかめる。
それはずいぶんと昔に、もっとやんわりとした言葉ではあったが、宰相にも言われたものだ。
王妃といっても、床を共にする必要はなく、あくまでも形だけのものである。そしてそれは、父も祖父も曾祖父も、そうして来たことなのだと。
それでも彼には、我慢できなかった。
誰より愛する女を、公私共に隣に立たせられないことが。それによって、彼女が他者に侮られるかもしれないことが。
顔をしかめる彼を、女はもう一度溜息をついて見やった。
「まあよい。……それよりも、元聖女に会え。会って、彼女の申し出を受けよ」
「申し出?」
「そうじゃ。元聖女は、あのどうしようもないたわけを教育し直すために、わざわざ東方から来た……というか、わたくしが呼ばせたのじゃ」
問い返す彼に、女はうなずく。
「わたくしの理想は、西方の国全てが豊かな実りを得られることじゃ。とはいえ、その国のことはその国の者がどうにかせねば、しようがない。そして、エーリカにとってはこれが最後の機会ぞ」
「最後? 最後とはどういうことだ?」
女の言わんとしていることが理解できず、彼はまた問い返した。
途端、ヴェールの奥で女の目が鋭くこちらを見据える気配があった。
「言葉のとおりじゃ。これまで、エーリカには何度か再生の機会があった。したが汝らは、自らその機会を逃した。いや、逃したというよりも、自ら追い払ったと言うべきか。だが幸い、汝らが聖女と呼ぶあのたわけは、力だけは持っておる。教育し直してやれば、国に実りをもたらせることはできるであろうよ。とはいえ、それに失敗すれば、もうあとはあるまい。滅びるだけじゃ」
「滅びる? このエーリカが?」
彼は思いがけない言葉を聞いて、目を見張る。
そんなことなど、考えたこともなかった。
なにより、聖女を追放しても国が衰えることはなかったのだ。少なくとも彼は、それを目にしてはいなかったし、そんな報告も受けてはいない。
そんな彼を見て、女は呆れたようにかぶりをふった。
「うつけが」
女の言葉と共に、あたりにざっと風が舞った。
閉め切った室内である。風が吹き込むはずもない。
だが、突然の突風にベッドの天蓋がめくれ上がり、彼は思わず片手で顔をかばった。
一瞬の風がおさまって彼が顔を上げると、周囲は荒れ果てた丘に一変していた。
煌々と光る月に照らされた大地には、草木の一つも見えず、ただひび割れた地面が広がるばかりだった。木々一つないせいで、その丘からはあたりが一望できたが、建ち並ぶ建物からは明かり一つ見えず、ただしんと静まり返っているばかりだった。
「これは……」
呆然とその景色を見回す彼の耳元に、ふっと囁く声が聞こえた。
『いい子ね。わたくしの名前を呼んで』
それは、遠い昔に死んだ母の声のようにも、王妃の声のようにも思える。
「名前? 誰の?」
思わず問い返すが、答えはなかった。ただ耳元で、さみしげな風の音がうなるばかりだ。
その音は、誰かの恨みの声のようにも、嘆きの声のようにも聞こえ、彼はたまらなくなって耳をふさぎ、その場にうずくまる。けれども、音は止むことなく、ただ彼を苛み続けるのだった。
+ + +
いつの間に夜が明けたのか。
気づくとあたりは、明るくなっていた。
(夢だったのか?)
彼は周囲の明るさに安堵しながら、胸に呟く。
そこは、いつもの彼の寝室だ。
ベッドの上に起き上がり、ぼんやりしていると、侍従たちが入って来て、朝の支度をしてくれる。
言われるがままに顔を洗い、衣類を着替え、髪や髭を整えてもらって、隣の居間で朝食を取る。
それが終わるころ、宰相が姿を現した。
宰相はこの十七年間、毎日、朝昼夜の三回、彼の元を訪れ、国のことや子供たちのことなどの報告をする。
今朝も同じように報告が行われ、彼はそれを黙って聞いた。
そして最後に告げる。
「もし誰か、私に親書を持って来るような者がいたら、その新書は直接私に届けてほしい」
「親書、ですか?」
宰相が、怪訝な顔で問い返した。
「ああ。たぶん、そういう形だと思う。それを、そうだな。そなたが持って来てくれるか」
うなずく彼に、宰相は訝しげな顔で「承知しました」と返事した。
宰相が、彼への親書を持って訪れたのは、それから半月ほどが過ぎたころだった。
宰相が言うには、それは彼の娘の嫁ぎ先に連なる貴族から、彼の娘が預かって来たものだそうだ。彼の娘に親書を託した貴族は、かつて左大臣を務めた男の部下だった者らしいという。
(かつての左大臣……)
彼は、ぼんやりと実直そうな男の顔を思い出す。その男は、もうずいぶん昔に妻と共に国を出て行ったと宰相から報告を受けた覚えがあった。同時に、かつて聖女に追放を言い渡した時に、最初に反対したのもその男だったと思い出す。
(たしか、娘が聖女の護衛騎士をしていたのだ……)
どこか別の世界のことのように、そんなことが記憶の底から引きずり出される。そして思った。
(今も、元左大臣は元聖女とつながりがあるのだろうか……)
かもしれないし、違うのかもしれない。だが、彼にとってそれはどうでもよかった。
脳裏に、あの奇妙な夢で見た荒れ果てた大地が浮かぶ。
彼は小さく身震いして、宰相から親書を受け取ると、すぐに開いて読み始めた。
その数日後。
彼は十七年ぶりに、宰相と侍従たち以外の者に会うために、私的な応接間の扉を開けさせたのだった。