丸二日眠っていない、そんな彼が目覚めるのだとしたらきっと夕方か夜になるのだろうとライラは思っていた。けれどそんなことはなかった。
キッドが焚いてくれた火を熱源に、鍋をぐつぐつ煮立たせる。摘んできた山菜を細かく刻んで鍋に入れた、次の瞬間、
「──おっさんはどこへ行った」
「むぇっ⁉」
ライラは飛び跳ねるのと同時に振り返った。足音や気配もなしに、アルがテントから這い出ていたのだ。
「なんだ、その反応は」
「び、びっくりしたぁ。もっと休むものかと思っていたから」
そう、ライラが作っているのは昼食。太陽がちょうどてっぺんに位置している時間帯だ。アルが休むと宣言してから時間はほとんど経過していない。キッドの言っていた、深く長く眠れないというのは本当だったらしい。
「キッドさんなら、薪をもう少し持ってくるって出かけてるよ」
説明を終えた直後、両手に薪を抱えたキッドが帰ってきた。
「ライラちゃん、戻ったわよーん。っと、アルくんおはようさん、少しは休めた?」
「ああ。鍛錬に行ってくる」
アルがそう言って立ち上がるので、ライラは焦って呼び止めてしまう。彼の眼の下の隈は依然ひどいもので、とてもではないが疲れが取れたようには見えない。
「い、いま起きたばかりじゃない。それにもう少しでご飯もできるんだ。食べてからにしたら?」
次の瞬間、ライラの足は竦んだ。冷たい眼差しが、頭一つ分より高い位置から降ってきたのだ。
「俺は、他人が作ったものは口にしないと言ったはずだ」
「……あ」
初めて会った時に、彼は確かにそう言っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。鍋には、三人分を想定した大量の粥が煮えたぎっている。
「ご、ごめんなさ」
「俺に構うな」
アルの遮る声は静かに、けれどやけに重々しくライラの胸に響いた。
「食事は自分で何とかする。それから、俺の決めたことに口出しをするな」
返事をすることはできなかった。もう謝っても、なにを発言しても、彼の心は閉ざされたままなのだろうとわかってしまったから。
せめてそれが、睡眠不足による一過性のものであればいいのにと願うことしかできない。去り行く彼の背中を、黙って見つめることしか──。
「……わー、ライラちゃん、ごはん作ってくれたんだ~!」
明るい声を背中が拾う。ライラが振り返るとキッドは鍋の中身をかき混ぜて、人好きのする笑顔を見せた。
「おっさんねぇ、もうお腹ぺっこぺこなのよ。食べちゃってもいい?」
「は、はい」
ライラが作ったのは山菜粥だ。畑の作物が採れなかったり、ウサギが罠にかからなかったりしたときにはこれを食すのが日課だった。
「ん、美味しい! ちょっとハーブも入ってる?」
「はい。自生しているのを見つけたもので」
「二日酔いとかに効きそうな感じするわ~。ライラちゃんってば料理上手だねぇ!」
褒めすぎだ、かえって恐縮してしまう。彼が気を遣ってそう言ってくれているのだと、痛いほどわかる。
「ありがとうございます。食べてくれて」
「いやいや。こちらこそ、気を悪くしたならごめんね?」
ライラの分の粥をよそいながら、キッドが眉を下げる。
「アルくんは、その……高貴な家の出でね。命を狙われることも多くって。毒を仕込まれたことも何度かあって、そのせいで他人の手料理にはどうしても抵抗があるのよ。ライラちゃんを嫌ってるとかじゃないのよ?」
優しい口調だなとライラは思った。ライラを励まそうとしているようにも、アルを庇っているようにも感じる。同時に、アルはやはり上流貴族だったのだなと得心がいった。粗野な雰囲気を醸し出しながらも、ちょっとした所作にも品の良さが窺えたものだから。
毒を盛られたことがあるなんて驚きだが、それなら他人の手料理を受け付けないのも頷ける。
そうだ、アルが機嫌を損ねたのは、すべて自分が悪いのだ。ライラは粥を呑み込みながら、そう結論付けた。
「アルくんが最初に教えてくれていたのに、うっかり忘れてたボクが悪いんです。だから、アルくんはなにも悪くないです」
「い、いじらしいわぁ……。まったく、こんなに美味しいものを食べられないなんて、アルくんってば不憫だわねぇっ」
そう言って口いっぱいに頬張ってくれるキッドに、ライラは控えめな笑みをこぼした。
「……ところでライラちゃんってさ」
「はい?」
「アルくんのこと、ずいぶん気に入っているみたいだけど……アルくんと今後どうなりたいとか、ライラちゃんの中にはあるの?」
「ええっ!?」
赤面してしまう。まるで心の中を見透かされたみたいで、焦りで口が勝手に滑ってしまう。
「そ、そんなの、言えない。恥ずかしくって、とても言えないです!」
「いいじゃん、いいじゃん、正直におじさんに言っちゃえって、このこの~!」
「い……言っていいの、かな」
言っていいのか、本当に、こんな気持ちを、吐露してもいいのか。
けれど、胸の内に溢れるこの気持ちを、誰かに聞いてもらいたいと思うのも本心だった。あまりの羞恥に涙目になってしまいそう。けれどそれすらも振り切って、ライラは固く瞼を閉じた代わりに、そっと口を開く──。
「……ア、アルくんを見てると、なんだか不思議な気持ちになるんです」
初めてアルの姿を目にした瞬間から、もうその姿は目に焼き付いて。
「あんな堂々としていてかっこいい人、初めて見たんです」
命を助けてくれて、食事を恵んでくれて、替えの服まで用意してくれて。
「そのうえ、すごく優しくしてくれて」
堕天である自分のことを、よくやったと褒めてくれて。
「ボクのコンプレックスも、まるで気にしないで傍にいてくれる、なんて」
そう、すべては必然のように。まるでアルという存在そのものが、これまで里で辛い思いをしてきた自分へのご褒美であるかのように。
「視線はいつの間にかアルくんを追っちゃう。目が合えば緊張しちゃうけど、声をかけられれば嬉しくて、すごく舞い上がっちゃう──」
ライラは確信していた。
きっと、この気持ちこそが、
「これがきっと、“友達になりたい”ってことなんですね……!」
「あー、友達ね、うんうん。…………えっ?」
キッドの反応に目を開くと、ぽかん。彼は口に粥を運ぶのも忘れて、ライラの翠眼を見つめていた。
「わ、わかってますよ、烏滸がましいことくらい! アルくんみたいな強くてかっこいい人が、ボクなんかを友達になんてしてくれるわけがないですよね……!」
「あー、いやいや、そうじゃなくて。想定していた答えと違ったから、なんともびっくりしてるだけ」