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3-6.ライラと、シュシュ


 ウォール山脈に足を踏み入れる者は少ない。まだ落ち葉の少ないこの時期。加えて二日前に降った雨が、ライラの年齢不相応に小さな足跡を浮かび上がらせてくれていた。それを在処に、アルとキッドの二人はぬかるんだ道を進む。


「なるほどねえ。ライラちゃんが弓矢を扱うところを観察して、腕前を確認するってこと」

 言わずとも納得してくれたようなので、アルは無反応のまま歩を進める。そうすると勝手にキッドが口を開いてくれるのもわかっていた──とはいえ、

「それにしてもさぁ、ライラちゃんって妖精さんみたいよねえ。おっさん、びっくりしちゃったわ」

「……? まあ、やたら整った顔立ちをしているとは思うが」

 まさかそんな話題に発展するなんてことは、さすがに予想外だった。


「竜人族の女性には美人が多いって評判は聞いてはいたけど、まさか未成年であれほどとは、いやはや恐れ入ったわ……」

「さっきから、何を言っている?」

 しみじみと感想を述べるキッドに、アルはひたすら疑問符を浮かべるばかりだ。

「あいつは男だ。男に可愛いも何もあるか?」

「えっ? は!?」

 思わずキッドは足を止めた。アルのその一言が信じられなくて。

「ライラちゃんが男? それはない。断じてない! あれだけ綺麗に髪伸ばしてるし、ケープでわかりにくいけど肩だって華奢だしさぁ!」

「昔に聞いた話だが、竜人族は男女に関係なく髪を伸ばしているらしいぞ。奴が華奢なのは認めるが。だいたい、本人が自分は男だと認めていた」

「えぇ!? ああ、だから“友達”って……? いやいや、しかし……」


 キッドはまだ納得していないようだ。けれどアルにとっては実にくだらない話題だ。よってここで打ち切りたい。

「……奴が男か女かなど、どうでもいい。重要なのは、奴が俺にとって利用価値があるか無いか、それだけだ」

「あんまりな言い方だわねぇ。あんだけ慕われてんだから、もうちょっと優しくしてやんなさいよぉ。おっさん、見ていて胃が痛むったらないわ!」

 腹を抱えるジェスチャーにも、大げさだとアルは鼻で笑うだけだ。

「はっ。優しく、ねえ。気が向いたらな」

「おや、いつになく冷たいこと」

「……アイツは、どうも苦手だ。なぜあんなにおどおどしているのかわからん」


 口には出さないけれど、本人に言うつもりもないけれど。

ライラが妙に自分のそばに居たがるのも、アルには不思議だった。人好きのする雰囲気は圧倒的にキッドのほうが上だろうに、と。

 共に数日過ごしてみてはっきりわかったことがある。ライラの視線や距離感は、常にアルを意識しているのだ。その熱を伴う視線が、機嫌を窺いながらの距離感の詰め方が、ひどく鬱陶しい。


 アルがそんなことを考えているとは知らずに、キッドはライラに対して肯定的な意見ばかり宣う。それがまた、アルには面白くない。


「まあたしかに、良い意味で竜人族っぽくないわよね。おっさんの知ってる竜人族ってたいてい自信家で、容赦なくヒューマンを見下してくるようなタイプばっかりだったしさぁ」

 アルも同じ見解だ。竜人族と会話をしたのは幼い時分だったが、それでもいけ好かない態度の彼らのことはよく覚えている──もちろん全員がそうだったわけではないが。

 けれどそれが、彼らの努力や才能に裏打ちされた誇りなのだと思えば、見上げた根性だと評価せざるを得ない。そう思わせるだけの堂々たる種族だった。


「……でもなぁ……たった十歳の子供に独り暮らしさせるような、薄情な性格でもなかったと思うんだけどなぁ……」

 キッドの独り言じみたそれに、何も思わないではなかった。けれどお喋りはここまでだ。小動物のような、かすかな気配が耳を掠める。

「……いたぞ」


 視界の彼方で、ライラはひとりうずくまっていた。

 何事かとしばらく様子を見ていると、白いモフモフとした物体を抱えているようだ。

「……ウサギ、かね?」

 キッドの小声に、どうやらそのモフモフとしたそれは三角の耳を動かした、らしかった。ライラの腕からひょっこりと顔を出し、アルとキッドの二人を見つめる青い瞳。つられるようにライラが振り返り、二人の姿を視界に収めた。


「あれ、ふたりとも……どうしたの?」

 どう言い訳したものか……と考えるのは今からでは遅い。見つかった時のことを考え、あらかじめ言い訳は用意しておくものだとアルは心得ていた。

「おまえの帰りが遅いから迎えに来た」

「そ、そっか。待たせてごめん。でも、この子の手当をしていたものだから」

「……なんなんだ、そいつは」


 ライラの抱えるモフモフは、どうやらひどくアルを警戒しているらしい。まだおそらく子供だろうに、喉の奥で低く唸っている。

「この子ね、どうやら罠にかかって怪我をしてしまったみたいなんだ。ハンカチで包帯を作ったんだけど、出血がひどくって」

 後ろ足に巻かれたハンカチからはじわりと血が滲み出ていた。キッドが恐る恐る、といった調子で近づく。

「犬……? だとしても、こんな山脈にいるのは変だわねぇ」

「ボクが昔に見た図鑑でも、こんな犬は載ってなかったです、ましてやこんな山奥に生息している種なんて」

 ライラとキッドの会話の最中、アルはどうやら頭を抱えているようだった。

「……まさかとは思うが、そいつを連れて行こうって言うんじゃないだろうな」

「だって、足を怪我しているんだよ。このまま放っていくなんてできないよ」

「ダメだ。元いた場所に返してこい」


 不穏な空気になる流れを察したのだろう、キッドがわかりやすく話を変える。

「いやー、それにしてもまだ子犬だろうに、コロコロ立派に太ってて可愛いもんだねえ。子犬のうちからこんなに足がしっかり太いのって、たいてい成犬になった時にドエライ大きく成長しがち、なの……よ、ね……」

 彼の朗らかな笑みと口調が、わかりやすく固まる。


 の気配を察知することは、この場にいる誰にもできなかった。キッド、そしてアルの視線を不思議に思ったライラは、そっと振り返る。ライラの背後、文字通り目と鼻の先にソレはいた。


 視界いっぱいに埋め尽くされる、モフモフというよりゴワゴワの白い毛。ぎょろりと大きな青い瞳。全長は果たしてどれだけあるのか、あまりに近すぎて推定することも叶わない。

 ソレが生き物であること、どうやらとても大きな生き物であること、少しでも動けば噛み殺されてしまうだろうこと。おそらくその生き物は自分が今、腕に抱えているモフモフの母親なのだろうこと……だけは、瞬時に理解できた。理解できたとしても、足は地面に縫い付けられたまま動くことはできない。わかりやすく悲鳴をあげることも、呼吸することすらも。


 硬直したように動けずにいると、ライラの腕の中のモフモフに、その巨体はツヤのある黒い鼻を擦り付けた。なにか、短い挨拶をしているようだった。

 白い巨体はゆっくりとライラから後退ると、そっと頭を垂れる。紳士が恭しく脱帽したときのような、優雅なそれ。やがて現れた時と同じように、その巨体は音もなく静かに山奥へと姿を消した。


 どれくらいの時間を要しただろう、息ができるようになるまでに。三人はまるで腰を抜かしたかのようにその場に座り込んだ。

「……な、なんだった、んだろ、いまの」

 ライラはモフモフを強く抱きしめたまま、震える声を抑えられずにいる。

「おっさん、死ぬかと思った。生きてる? ねえ、ギリ生きてる? やばい、吐きそう」

 キッドも心臓を押さえている。

「……あれは、狼だ」

 アルもまた、異常事態から逃れたことで安堵したらしい。普段よりやや早口でそう私見を述べた。


「狼……?」

「その中でもすでに絶滅したと言われていたはずの種なんだが。……あれは、というか、そいつは……」

 ライラの腕のモフモフに向かって、アルは指をさす。

「おそらく、“ホネクルミ”だ」

 キッドが目を見開く。

「ホ……ホネクルミって言った!? やっばいじゃないのそれぇ!」

 もはや涙目だ。どういうことかとライラは目を白黒させてしまう。


「ホネクルミってのは……、狼の中でも恐ろしく頭の良い種で、自分がヒューマンにされた恨みつらみを子々孫々にまで語り継いで末代まで呪うって言い伝えられてるんだよ……! あんまりにも不吉なもんで、狩りで数を減らしてようやく絶滅にまで追い込まれたって聞いてたのに、まだ生き残りがいたなんて! いやー! お助けえぇぇぇぇ!」


 腕の中のモフモフ……もとい子狼は、包帯が気になるのか短い足をじたばた動かしている。

 その様子に、ライラは胸が締め付けられる思いでいた。迫害されて、仲間を減らされて、絶滅寸前にいる生き物──。守る理由だけが、ライラの中で増えていく。アルの目をまっすぐに見つめて、ライラは口を開いた。


「アルくん。さっきの話の続きだけれど。ボクはこの子、連れていきたいです。ちゃんとした治療を受けさせてあげないと衰弱していくだけだよ。そんなの、かわいそうだよ」

「……さっき見ただろう、こいつの親の大きさを。おまえなんか咀嚼なしに一口で丸呑みできそうだっただろうが。そいつが大人になった時のことは考えているのか?」

「し、躾するよ、ちゃんと! 頭の良い種なら、きっと誰も襲わないように学習してくれる……ううん、ボクが絶対にそうしてみせるから!」

「エサ代は誰が払うんだ?」

「ボクが稼ぐ! どんなことをしてでも稼いでみせるよ! どうしても難しかったらこの弓矢で狩りをするよ!」

「もしおまえの手に余るようなら、実験動物に使われるか、おまえ自身の手でそいつを処分してもらうことになるが。それでも構わないんだな?」


 アルの問いかけで、柔らかい毛の下の温もりが嫌に胸に突き刺さる。皮膚のすぐ下で蠢いているこの心臓を、自分が止める日が来るかもしれない。想像するだけで胸が張り裂けそうだ。

 けれど、こうも思う。このまま放置してしまえばきっと死んでしまう儚い命を、この手で助けない理由なんてないのだと。

 そしてもうひとつ、ライラにはわかっていることがある。


「さっき、この子の親が頭を下げて挨拶してくれたでしょう? ……託されたような気がするんだ。最後までボクがちゃんと責任持つから。だから、連れて行かせて。お願い!」

 頭を下げようとすると、すぐに言葉で遮られる。

「好きにしろ」

 と。そのあとはもう、アルはライラに背を向けて再び山道を歩きだす。

 ああやはり彼は、ライラの決意に断固反対しているわけでも、脅迫していたわけでもないのだ。ただ、覚悟があるのか試していたに過ぎなかったのだ。


 何はともあれ、子狼を連れていく許しは得られたということだ。

「……えへへ。やったぁ、連れて行ってもいいって。よかったねえ。これからよろしくね。そうだ、名前を考えないと! えーっと、えっと、それじゃあね……“シュシュ”!」

 ライラが微笑むと腕の中の子狼は、耳慣れない単語に首を傾げるのだった。


 そんな一人と一匹を差し置いて、アルとキッドは険しい山道へまた一歩を踏み出した。

「もう名前なんかつけちゃってるけど。いいのー? 本当にこれで」

「最後まで責任を持つと言ったのはあいつだ。それに、奴にまたひとつ恩を売っておけば後々、俺に有利に働くかもしれないからな」

「わーお、打算的」

 キッドは慣れたものとばかりに苦笑するだけだ。アルもまた、まるで口癖のように吐き捨てる。


「第一……呪いなんてものを、認めるわけにはいかない」

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