「アルヴィン王子殿下、キドリー様。わざわざお越しくださり、ありがとうございます」
白髪の初老の男性が、穏やかな笑顔で三人を出迎える。法衣を着込んでいることから、彼が教会の人間であることは一目瞭然だ。けれど、ライラは首を傾げる。たしかジャノメイル教会の神官は神託を口にすることなく、引き籠っているはずではなかったか、と。
「おや、もう一人いらっしゃいますかな、こちらは?」
「初めまして、ライラといいます」
挨拶をしながらライラは気づいていた。彼がどうやら視力をほとんど失っているらしいことに。
「ライラ様ですね。遠いところをありがとうございます。私はオルト•ジャノメイルと申します。この教会の管理と運営をしております」
差し出される手。迷わず握手を交わすと、オルトは優しく微笑みを返した。すると、うんうんと頷きながらこんなことを口にした。
「あなたは、とても優しい子ですね」
「え?」
「神官の職を退いて、もう何年になるか。このような目でも──いえ、だからこそわかることがあります。ライラ様、あなたはとても優しい心根をお持ちのようだ。そしてどこか臆病だ。けれどそんな自分を、変えたいと思っていますね」
驚いた。自分が優しいかどうかなんてライラにはわからなかったが、心の内をほとんど言い当てられてしまった。
「大丈夫、あなたは変われますよ、どんな風にもね」
そのゆっくりとした口調と優しいセリフに、ライラはなぜか涙が出そうになる。けれど、
「挨拶はそれくらいにして、本題に入らせてもらおうか」
アルがそう言って遮ったので、慌ててライラは目頭を押さえた。なぜ、どうして涙が出かかったのかはわからないままだが、今はアルの公務の最中でもあるのだ、邪魔だけはしたくない。
ステンドグラスのおかげで、真っ白な教会の内側には神秘的な青の光が差し込んでいた。辺りを死告蝶が舞っているせいか、まるで別世界にでも迷い込んだかのような空気すら立ち込める。
「お茶でもお出ししたいところですが、教会の中は飲食禁止でして……」
「構わない。必要なことだけ話すとしよう。時間稼ぎは好きじゃないのでな」
アルの刺々しい一面が、こんなにもわかりやすく態度と言動に現れるのは珍しい。ライラは彼の左隣に腰かけているが、ちっともゆったりできそうな雰囲気ではない。
「神官殿は、相変わらずか」
「ええ。近頃はまともに食事を摂ることもなくなりました。食欲がないようでして……親としても困ったものです」
成り行きを見守っていると、背後からこっそりとキッドが耳打ちしてくれた。
「オルト氏は神官の職を娘に譲ったんだけど、その娘はもう、十年近く表舞台に出てきてないのよ」
そうなんですか、と。目だけで驚きと感想を伝えていると、再びアルが口を開いた。
「国王陛下が崩御されて、もう二ヵ月も経っている……いつまでも国民に秘匿しておくわけにもいくまい。その時に神託の公表がなければ、国民はさらに不安を煽られることになるだろう。この点については、どう思われる」
「……アルヴィン王子殿下。仰ることはよくわかります。しかし、出せないものは出せないのですよ」
アルの発する威圧感をものともせず、オルトは困ったように微笑むだけ。
「黙示録を読み解けるのは、神官の眼を引き継いだ者だけ。私はもう、娘に眼を渡してしまったのです。ですから娘が出てこない以上、神託をお渡しすることはできません。そして『神託を渡さない』と神官が決めたということは、それもまた、神の御意志ということ」
「国の命令でも、か」
「ええ。神託を渡さない、それが神の御意志であるならば、我らは従うまでです」
静かなやり取り。けれどアルの内心が穏やかでないことは、隣にいるライラにはよくわかった。
「……何回目だろうな、この応酬も」
「ふふふ。アルヴィン王子殿下は今回で四回目ですな。三人の王子殿下の中でも、一番多くここを訪れてくださっています」
「そうかよ」
諦めたようにアルは息を吐いた。
「あ、あの……黙示録って何ですか?」
ライラがそう問いかけると、オルトは優しく微笑む。
「お見せしましょうか」
彼が懐から差し出したのは、一冊の分厚い本だった。真っ赤な革で出来た表紙。紙の質からして古さが感じられる。
「これが黙示録。ジャノメイルの神官が代々受け継ぐもので、過去から現在、未来に至るまで、この国で何が起きたのか、何がこれから起こるのかが記されています。……ただし、神官にしか読めない字でね」
許可を得てから表紙を開くと、たしかにそこには見たことのない文字が羅列していた……というより、文字には見えなかった。そこに記されていたのはただの直線。すべてのページがそうだ。
「神官になら、これが読めるってことですか? オルトさんも、神官だった時はこれを読んで……」
「ええ。正確には読むというより読み解く、ですがね。神の御意志は、この黙示録を読み解くことでしか汲み取ることはできない。それには神官の眼が必要なのです」
オルトが視力を失ったのは、加齢や病によるものではなかったようだ。娘に神官の職を引き継がせたのと同時に、眼を渡したから。
ちらりとアルの顔を盗み見る。唇を噛み締めながら何か言いたげだ、どうにも反論したくてたまらないのを耐えているようだ。恐らくは「胡散臭い」とでも言いたいのを我慢しているのだろう。
アルが口を開く前に、何か別の話題を提供したほうが良さそうだ。
「ジ、ジャノメイルってボクは初めて来たんですけど、すごく綺麗なところですよね! 霧が立ち込めているのも、死告蝶がたくさんいるのも、なんだか幻想的っていうか」
「ふふ。ありがとうございます。このような小さな集落ではありますが、褒められるのはやはり嬉しいですな」
黙示録を服の中にしまうと、オルトは教会の奥へとライラを誘った。オルトの皺だらけの手が、大きな扉にかかる。
「ライラ様、お足元にお気をつけて。この向こうは階段となっていますが湖に直結しております。ジャノメイルで最も美しい景色を、今回は特別にお見せしましょう」
ゆっくり扉は開かれた。
扉の向こうに広がっていたのは巨大な湖。
……静かだ。音を立てることも、声を出すことも禁じられているのではないかと錯覚させられる。この静寂を破りたくないと思わせられるほどに。自然と手で口を覆ってしまう。
それでも、驚嘆の声を抑えることはできなかった。広大な湖を囲うように白い大樹が生えていると思っていたら……その正体は骨だった。あまりにも巨大な生き物の骨が三つも並んでいる。
「左から竜神と狼神、そして魚神の骨です」
オルトが静かな解説を始めた。
「遥か昔。竜神は天空を、狼神は大地を、魚神は海を創造しました。その後は創造神の生み出したヒューマンと生命を紡ぎ、彼らは自身の骨だけを残し、空へと昇っていったのです。その骨を残した地こそがここ、ジャノメイル」
ここに来る前、ライラは言った。もっと教会が王都から近ければいいのに、と。けれどこれで納得した。教会を建てるには、神々の骨が鎮座するジャノメイルでしかありえないのだ。
霧に包まれたそのエメラルドの湖は、あまりにも美しかった。同時に異様でもあった。死告蝶が湖の真ん中に集まっていくのが見える。彼らは湖にその身を下ろすと、羽ばたきを止めた。冬にはまだ遠い。それなのにほんの一瞬で、すべての死告蝶は氷漬けになってしまったのだ。
「え……⁉」
ライラが驚いていると、オルトは相変わらず穏やかな口調で話し続けた。
「死告蝶が亡くなった方の魂を乗せている、という言い伝えはご存知ですかな? ……あれは言い伝えなどではないのです。人は死後、魂となり、死告蝶に姿を変えます。そして天界に還り、創造神との再会を果たす」
「天界って?」
「お空の上。神のおわすところですよ」
話している間にも、死告蝶が一羽、また一羽と氷漬けにされていく。これが天に還るということなのだろうか。そうオルトに問いかけるも、彼は首を横に振る。
「死告蝶は、ひとりで天界に還ることはできない。死告蝶を一枚の羽根に変え、共に天に還る役目を担っているのが天使なのです」
“天使”。ライラはごくりと喉を上下しつつ、オルトが再び話し始めるのを待つ。
「天使は死告蝶を羽根に変え、己の翼とし天界に還る。そこで、羽根の持つ生前の記憶や思い出を忘れさせる。創造神はその羽根に命を分け与え、再び地上へ我らをお戻しくださる。世界はそんな風に出来ているのです。……しかし、天使はどこかへ消えてしまったのでしょうか。いつからか死告蝶は数を増すばかり。まるで助けを求めるようにこの湖にやってきては、死告蝶は氷漬けとなってしまう。回収こそしていますが、他に私にできることは何もない」
無力です。私には、彼らを見守ってやることもできない。
小さな声で紡がれた声は、少しだけ震えていた。
ライラは思わず胸に下げている羽根を掴む。この羽根も、もしかしたら元は誰かの魂だったかもしれない。そう思うと、無邪気に綺麗だなんて思ってはいけない気がした。そんなの不謹慎だ。
そして思い出す。アルの言っていたことを。
「その天使に名前はあるんですか?」
オルトは、不思議そうな顔をした。
「珍しい質問をするんですねえ。神ではなく、天使の名を知りたいとは。……『カノア』ですよ。いったい、どこで何をしているんですかねえ……私には、無事を祈ることしかできませんが」