教会を出ると、自然と大きな溜息が出る。肺の中の空気をすべて追い出しかねないほどの。
「オルトさんって不思議な人だったね」
握手を交わした、それだけですべてを見透かされたようだった。
「臆病な自分を変えたいと思ってるって、すぐ言い当てられちゃったよ」
「あんなもの、誰にでも当てはまるようなことを適当に言っているだけだ」
アルは己のスタンスを頑として崩さない。一方のキッドはへらりと笑っていた。
「おっさんも、初めてオルト氏にお会いした時には『あなたはとても運が良い人ですね』って言われたもんよ」
「運が良い、ですか?」
「まあ、そりゃあ? おっさんはあんな良い奥さんと可愛い娘に恵まれてるわけだし? 相当運は良いって自負してるけどね!」
鼻高々にそう宣うキッドに、ライラは微笑みを送る。
「それに、びっくりしちゃったよ。『カノア』って……」
「おまえが会ったという天使も、そう名乗っていたんだったな」
湖を眺めた後のことだ。
竜神、狼神、魚神を描いた壁画があるというのでオルトに案内してもらうと、ライラは目を見張った。壁画の三種族の神の隣に、小さく天使も描かれていたのだ。桃色の長い髪、小柄な少年。ライラが里で出会ったカノアと、壁画に描かれたカノアは瓜二つだったのだ。
「俺は何を、どこまで信じていいんだろうな」
自嘲めいたセリフがアルの口から紡がれた。神や天使、呪いの存在を否定したいアルとしては、あまり望ましくない展開だったのだろう。望まない展開になるとわかっていて、ライラを連れてきてくれたのだろうけれど。
「もしオルトの話をすべて信じるのなら、俺たち二人が持っているこの羽根も、誰かの魂ということになるな」
「うん。でも、だとしても誰の魂なんだろう? それに、ボクたちに託した理由って何だろう……?」
会話しながら馬車に乗り込むと、ライラは目を丸くした。
「あれ? シュシュ……?」
馬車の中で留守番させていたはずのシュシュがいない。しっかり紐で繋いでおいたはずなのに。その紐ごとどこかへ消えてしまっている。
「おーい、シュシュー?」
呼びかけても返事はない、馬車の下に隠れているわけでもない。
「シュシュ、どこ? どこへ行ったの……?」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
お腹が空いたら出てきてくれるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていたが、夕方になっても、そして夜になってもシュシュは現れなかった。いつでも帰ってこられるようにとテントの前で張り込みをしても、現れる気配はない。
「おい、飯くらい食え」
「アルくん……」
彼が用意してくれたリゾットを受け取る。とても美味しそうなのに、食欲は湧いてこない。
その様子を見て何を思ったのか、アルはライラの隣に腰かけた。相変わらず人一人分の距離は開いているけれど。
かといって何を言ってくるでもない、慰めの言葉をかけてくるでもない。ひたすら黙って、ただ隣にいてくれている。時間が進むごとに冷えていくはずの空気も、なぜか右隣だけは暖かく感じられた。
その暖かさに充てられたのか、凍えた唇は氷解したように自然と動き出した。
「シュシュには、可哀想なことしたよね」
まだ小さな子狼。実の母と引き離されて、きっと不安に思うこともあっただろうに。
ジャノメイル教会でもそうだし、王妃殿下との謁見の時でもそうだった。「呪いの象徴だから」なんて理由で、ライラは傍を離れることが多かった。けれどそうするべきではなかったのだ。
「きっと置いていかれて、寂しかったよね。ボクが親代わりになってあげなきゃいけなかったのに、目を離したりしたから。シュシュは、そんなボクのことが嫌になって逃げちゃったんだ。……やっぱりあの時、アルくんの言う通り、連れていくべきじゃなかったのかな」
心の内をすべて吐露すると、ますます実感が湧いて涙が出そうになる。けれどそれを止めたのはアルだ。
「連れていくと決めたのはお前だ。泣き言を言うのは構わないが、憶測と感傷でヤツの思いまで決めつけるのは止めろ」
「……うん」
厳しいセリフ。それでいて、細やかな優しさも含まれている。ライラはそこで思い出す。彼の刺々しさすら感じる言葉には、常に深意が隠されているのだと。キッドの言う、「アルくん語」というやつだ。
「俺の目から見ても、ヤツはお前に懐いていたように見えた。放っておいても、そのうち出てくるだろう」
ああ、これは翻訳のほとんど要らないアルくん語だな、と。ライラは内心ほほえましくすら思えた。けれど問題はまだある。「そのうち」が明日の朝までに来なくては困るのだ。
「でも、明日の朝にはお城に向かっ出発しなくちゃいけないんでしょう? アルくんは公務だってあるし、ボクだけがここに残るわけにも、きっといかないだろうし」
「いや、予定変更だ。明朝にまた教会に出向くことにした」
「え……そうなの? どうして?」
「オルトは俺たちに嘘をついている。それがわかったから、明日追及することにした。まあ、ヤツが嘘をついているとわかったのは、お前の手柄だがな」
オルトが嘘をついている……どんな嘘を? それが自分のおかげでわかったとは、どういうことだ? なぜ嘘だとわかったのだろう?
疑問符ばかりがライラの脳内を駆けずり回っていく。表情からそれを悟ったのだろう。
「……何でも信じてしまうお前と、最初から何でも疑ってかかる俺とでは、見えてくるものが違うということだ」
アルが何を言っているのか、やっぱりライラにはわからない。けれど解説もなしに、彼はそのまま立ち上がる。
「手柄を立てた者には相応の褒美を与えてやるのが、モンブラン隊の流儀だ。何が良いか考えておけ。それから……ちゃんと食え。もう冷めているかもしれないがな」
リゾットを指してそう言うと、テントの中に潜ってしまった。
たしかに湯気は小さくなっていたけれど、たった一匙、口に運べば。
「……まだあったかいよ。ありがとう、アルくん」
彼の耳に届いたかは、わからないけれど。不思議と食欲は湧いて、気が付けば皿を空にしてしまっていた。自分の単純さに、ライラは呆れながら笑った。
(不思議だな……アルくんと話していると、元気が出てくるんだ。アルくんも、ボクにとっては不思議な人だよ)
ライラはおもむろに、鞄から竪琴を取り出した。ヒルダのお言葉に甘えてキッドから頂戴したものだ。
「シュシュ、お腹を空かせていないといいな……」
シュシュの耳に届くよう祈りながら、ライラは優しく弦を弾いた。
空気を吸うと、肺が「冷たい」と訴える。季節は秋。けれど冬の足音が、だんだんと近づいてきているのがわかる。
悴む指先も無視して、ライラは曲を弾き続けた。
ヒルダの酒場で演奏したのは、春の優しい曲だった。けれど今夜は冬の訪れを思わせる、静かで切ない悲しい調べ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「ライラちゃん、大丈夫? ものすごく眠たそうよ?」
朝になっても、シュシュが現れることはなかった。
太陽に向かって今日も祈りを捧げたライラだったが、今朝はシュシュのことばかりが頭をよぎってしまった。重たい瞼がずっしりと眼球を圧迫する。
「シュシュがボクに気づいてくれるかもって思って……夜中まで演奏していたものですから」
朝食を口にしながら、意識の半分は夢の世界に飛び立ってしまっている。そんなライラに、アルはまたも厳しい一言を──と思いきや。
「お前は教会に来なくてもいい。馬車の中で休んでいろ」
一回、二回。計三回もまばたきをしてしまった。今のセリフは、本当にアルから発せられたものだろうかと思って。動揺したのはキッドも同じのようだった。
「あーら、どしたの? 今朝はちょっぴりご機嫌じゃない。珍しくよく眠れたの?」
キッドの指摘にライラも、アルの目元に注目してしまう。常に深く刻まれていた青い隈が、今朝はたしかにいつもより薄らいでいる。
「よく眠れたならよかったねえ」
ライラが力なく笑いかけると、アルは少しバツが悪そうに目を逸らした。自分はまた何かやらかしてしまったのだろうか……そう思うと、喉を通るサンドイッチが少し苦く感じられた。
ライラに見送られながら、アルとキッドは再び教会へ歩を進めていた。
キッドは不思議そうに、傍らのアルに語り掛ける。
「で、なんでまた教会へ? オルト氏に聞き忘れたことでもあった?」
アルはその問いかけに、わずかに表情を硬くした。
「……昨日、オルトは俺たちに黙示録を見せただろう。妙だとは思わなかったか?」
「え? なにが?」
「神官の職を退いて久しい。……にもかかわらず、懐から黙示録を出していただろう。神官の眼を持たない、そればかりか視力もほとんど持たないヤツが、いつでも取り出せるところに黙示録をしまっていたのが、妙だと言っているんだ。本来なら、黙示録は常に現役の神官……つまり娘のほうが持っているはずだ」
アルのセリフを受けて、キッドの表情にもわずかに緊張の色がのった。
「なるほど、そりゃあたしかに妙だ。だとするとオルト氏は我々に嘘をついていることになるね。どれが嘘か、が問題だけど」
「考えられる可能性としては、ヤツの出した黙示録が偽物であること。娘に眼を引き継がせたという証言。……娘が引き籠っているという釈明も鵜呑みにすることはできない」
「どれにしたって、追及しないわけにはいかないね。なんのための嘘なのかも見極めないと」
「そのための尋問だ」
ああ、だからライラちゃんを置いていったわけね、とは、キッドは思っても口にはしなかった。尋問、となるとアルは時に残酷だ。ましてや今回は次期国王を決める神託も関わってくるとなると、穏便に済むイメージが湧かない。けれど、念のため。
「なるべく穏便に済ましてちょうだいよ?」
「善処する」
「それ絶対善処しない人の言い方!」
かたや賑やか、かたや淡々とした応酬の果て、重たい教会の扉は開かれた。