視界の中心に閃光が走る。
開かれた扉の向こうでは、理解しがたい情景が広がっていた。
聖壇の陰に身を隠すアル、キッド、そしてオルト。対するは、ふわふわと空中に漂う──、
「……カノア⁉」
背中に巨大な白い翼。羽ばたきに合わせていたずらに揺れるピンク色の髪。教会の天井近くを浮遊している少年は、まぎれもなくカノアだ。けれどその場で何より目を引いたのは彼の右腕だ──そこにあったのは実体の伴わない、迸る光。弓を引くような動作をしたかと思えば、次の瞬間には光が矢となり祭壇に降り注いでいく。凄まじい轟音と衝撃波に、ライラもエルフィも立っていられず膝をついた。
「くっ……、な、何が起きて……!」
カノアが──天使が、なぜ教会を襲撃することがあるというのか。けれど今は「なぜ」が問題なのではない。問題は、「今まさに襲撃を受けていること」だ。
(どうすればカノアを止められる? どうすれば被害を最小限に抑えられる? 考えろ……考えるんだ!)
カノアの攻撃は一方的なものだった。アルもキッドも、遠距離武器に対応できる装備を所持していない。今だってオルトの保護をするので精一杯のはずだ。そしてそのオルトも、砂煙が晴れてきたことでようやく姿を確認できたが……頭から流血している。
「エル、フィ……来ちゃダメだ、隠れていなさい……!」
「父さん⁉ 父さん!」
途端──弓を引いたカノアが、叫ぶエルフィに視線を向けた。あまりにも冷たい、躊躇も迷いもない視線を。
何が起こるのか考えるよりも先に、ライラの足は動いていた。けれど地面を蹴り上げた瞬間、理解もしていた。おそらく自分のやろうとしていることに間違いはない、と。
オルトのもとへ駆け寄ろうとするエルフィを押し退け、彼女を庇うように前に出る。カノアもライラの存在に気付いているはずだ。震える唇を無視して、ライラは告げる。
「カノア、やめて……!」
カノアはつい先日言っていたのだ。「キミのことは、カノアが必ずすくってみせる」。
だからライラは確信していた。カノアは自分には、自分にだけは矢を向けることはしないはずだ、と。
かくして、その考えは的中していたようだ。
光り輝いていた弓矢が失せる。眉を下げて、困ったようにカノアは笑った。
「そういうことをする子だよね、君は」
タイミングを見計らっていたのか、無数の死告蝶がカノアの周りに群がっていく。まるで助けを求めるかのように。
カノアが死告蝶にふっと息を吹き込む。すると次の瞬間、青紫の死告蝶は純白に代わり、そしてすぐさま柔らかそうな羽根へと姿を変えていった。
この場にいた全員が、その美しい変遷を見届けていた。
「よく来たね、良い子たち。カノアと一緒に行こうか?」
幼子が、母親に呼ばれて駆け寄っていくみたいに。無邪気な雰囲気すらたたえた数多の羽根が、カノアの背中の翼の一部に組み込まれていく。
「……さて、ついでの用件は済んだ。本題に入るとしようか、オルト神官」
再び、カノアの右腕に閃光が走る。
「黙示録だよ。さっさとカノアに渡してくれたら、おとなしく帰ってあげる」
オルトはその言葉に、ぐっと唇を噛み締めた。
「もし拒絶するって言うならもう、娘の身の安全は保障しない。これまでも……今も、この場にいる全員がほとんど無傷で済んでいるのは、カノアなりの優しさだって気付いているよね……?」
教会に、カノアの声は冷たく響いた。彼の言葉におそらく嘘はない。もしオルトが拒絶すればその瞬間に、光の矢が雨のようにエルフィを目掛けて降り注ぐことだろう。オルトは流血した頭を押さえながら、ゆっくりとカノアの足元に歩いていった。彼が懐から取り出したのは昨日、ライラたちに見せてくれた「黙示録」。古い装丁のそれを、まるでプレゼントでも渡されたかのように無邪気に受け取ったカノアは、
「ふふ。最初から素直に渡せば、無駄に怪我せずに済んだのに!」
巨大な翼をはためかせ、背を向けた。
その神々しい背中に、
「待て! ……カノア、とか言ったな。おまえか?」
そう言って疑問を投げかけたのは、アルだ。
ライラは息を呑む。
そうだ、アルにとってカノアは、十五年間捜し続けてきてようやく出会えた天使なのだ。きっと羽根の正体や、己の自己治癒能力について訊ねるのだろう。
そう思っていたのに。
「カノア。竜人族の里を滅ぼしたのは、おまえなのか?」
……その思いがけない問いかけに、ライラは固まる。
「……何を言っているの? アルくん」
ようやく絞り出した声は、不安に揺れていた。
「カノアはボクを助けてくれた天使なんだ。里が襲われたあの日も、ボクを里から遠ざけてくれていたんだよ? それなのに……それがどうして、カノアが里を滅ぼしたことになるの?」
「その結論に至った理由は二つある。が……その前に、一つ訊こうか。『自分を助けてくれた』とおまえは言うが、一度も考えなかったのか? ……『なぜ、自分だけだったのか。なぜ、ほかの竜人族のことは助けてくれなかったのか』と」
その問いかけに息が止まり、エメラルドの目は泳ぐ。
それに構わず、アルは再びカノアに向き直った。警戒の糸をぴんと張り詰めさせながら。
「……おっさんの報告書によれば、竜人族の里の襲撃に使われた凶器は弓矢だと推測されていたが、矢がすべて回収されていたのが奇妙な点だった。だが凶器が、ヤツの弓矢だったらどうだ」
思い返す。先ほどカノアが放っていた矢は、祭壇に向けていくつも放たれていたはず。ライラは辺りを見回した。……傷ついた教会の壁にも、射抜かれた祭壇にも、矢は一つも残されていない。
「最も奇妙なのは、殺された竜人族の全員に抵抗した形跡がなかったことだ。だがそれが、見えない相手からの攻撃だったとしたら得心がいく」
「それってどういう……」
戸惑うライラに、おそるおそる話しかけてきたのはキッドだ。遠慮がちに伸びる指が天井を指す。
「えーっとライラちゃん。おっさんってばまったく話に付いていけてないんだけど。──なにかがそこにいる、ってことで合ってる?」
「……キッドさん、見えないんですか?」
なぜ、どうして、あそこにいるのに。巨大な翼を揺らした少年が、すぐそこにいるというのに。
これでは、アルの推測がすべて当たっているようではないか。
そんなはずはない、そう反論しようとしたライラを止めたのは──カノアの、振り向きざまの笑顔だった。
「……あはっ。バレるの早いなぁ!」
鈴の転がるような声で。心底楽しそうに、カノアは笑った。
「……君、が? 本当に君が、里を滅ぼしたの?」
「そうだよ、カノアがやったんだ」
心臓が嫌な音を立てる。足は竦む。
アルに出会わせてくれた、感謝の気持ちを抱いていた相手が。里の襲撃から救ってくれた、恩人だと思っていた相手が──まさか里を滅ぼした張本人だったなんて。
「ど、どうして? どうしてそんなことをしたの……⁉」
ライラの問いかけに、カノアの青い目は少しだけ丸くなる。
「やる必要があったからだよ」
なぜそんなことを訊くのかわからない、とでも言いたげに。
「カノアにとってはどうしてもやらなきゃいけない、必要なことだったんだ。訳を話したって、きっと今の君には理解してもらえないだろうから、これ以上は秘密だよ。──でも、里が滅んだのだって……悪いことばかりでもなかったでしょう?」
それだけ言って微笑んで、再び背を向けたカノアは光射す天井に向かって羽ばたきを始めた。
「そろそろ行かなくちゃ。神様を殺すには、まだまだ足りないんだ」
……そんな意味深長な言葉を残して。
カノアが教会を去った後は、静かなものだった。流血した箇所を押さえるオルト、彼に寄りそうエルフィとキッド。“天使”を目撃してしまったアル。そしてそんな彼の背中を見つめるライラ。
誰もが核心に触れたことは言い出せずに、けれど誰かが口を開くのを、この場にいる全員が望んでいるかのようだった。
口火を切ったのは意外にも、
「……あんなの、天使なんかじゃない」
エルフィの、震える小さな呟きだった。