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5-10.ライラと、黙示録

♦ ♦ ♦ ♦ ♦


「オルト。そして……エルフィとかいったな。おまえたちはいったい何を隠している? すべて……包み隠さず、話してもらうぞ」


 止血を終えたオルトは数少ない無傷のソファに腰かけると、アルと対面した。


「まずはさっきの『カノア』とかいう奴だ。あいつは何者だ?」

「……昨日お伝えした通り。カノアは天使です」


 アルは鼻で笑う。


「天使が、よりにもよって教会を襲撃しにやってきたと。笑えない冗談だ」

「冗談だったら、どんなに良かったことか。あの子は──カノアは間違いなく天使です。いや正確には、天使だった、ですが」

「……詳しく話せ」


 オルトは続けた。


は──カノアはもう、天使ではなくなってしまった。もはや、天使の魂の色をしていない」

「天使の魂の色……だと?」

「ご存知かと思いますが神官の眼は、清浄なるものとそうでないものを見極めることができます。それだけでなく、人の魂の色が見えるのです。人によってその色は異なりますが……天使の魂だけは、無色透明なのだそうです。けれどカノアの魂は、そうではない」


 まるで無色透明の水に、不純物を何滴も落としたかのような。決して混じり合うことのないそれらが、いつまでも水中を漂っているかのような。

 オルトはカノアの魂の色を、そう評した。


「いったい何があって、そんなことになってしまったのかはわかりません。……自身をカノアと名乗る先ほどの少年が、この教会に訪れたのは十五年前のことでした」


 ♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 オルトは十五年前を振り返る。

 雨の日の夜のことだった。傘もささず、体が濡れるのを厭わず。春までまだ遠い時期だったというのに、凍えた様子も見せない。そんな少年が教会の戸を叩いたのだ。


「その時に彼は自身を天使と名乗りました。そして、こう言ったのです。『黙示録を渡してほしい』と。その時すでに神官の眼は娘のエルフィに譲っていたため、ほとんど視力を持たない身ではありましたが……力の残滓が働きました。彼がかつては天使だった者であると、すぐに見抜くことができました」


 黙示録を渡してほしいと乞うカノア。最初こそ断りを入れ、冷えただろう体を温めるべく丁重にもてなしたうえで、翌朝には穏便に帰ってもらった。……けれど、それからも忘れた頃に、カノアはたびたび教会にやってくるようになった。


 回を増すごとに、カノアの魂の色が濁りを帯びていくのは気がかりではあった。けれど事情を聞こうにもカノアはただ一言、「黙示録を渡してほしい」としか口にしなかったのだ。


 そして、その日は突然やってきた。いつものようにカノアの要望を断った瞬間に、それまでの温和な雰囲気が一変したのだ。


「『黙示録を渡さなければ、娘の命を貰う』と脅されたのです」

「……なぜその時に、城に報告しなかった? 助けを求めることはできたはずだ」


 珍しくアルが話を遮る。オルトはゆっくりと、首を横に振った。


「……この集落の人間に、カノアの姿を見ることのできる者はいなかった。声を聴くことも、気配を察知することすら。認識できたのは、私と娘だけでした。なので、神官の眼を持つ者にしかカノアは見えないのだと思い込んでしまっていたのです。どうやら、アルヴィン殿下とライラ様には見えておいでのようでしたが」


 オルトの言っていることに嘘偽りはないと、ライラは直感的に思った。ここにいるキッドもまた、カノアの姿を捉えることはできなかったから。


 アルも同じ見解のようだ。


「おい、おっさん。本当にカノアの姿は見えなかったんだな?」

「姿は見えず声も聞こえず。気配すらも感じなかったわよ」

「……おっさんはつまらん冗談は言うが、くだらん嘘はつかない男だ。どうやら本当らしいな」

「今のって褒められたの? 貶されたの?」


 アルとキッドの流れるような会話の最中にも、オルトの目尻に深い皺が刻まれる。


「そもそも……『神官にしか見えない天使に黙示録を渡せと脅されている、助けてほしい』……なんて嘆願したところで、国が果たして信用してくれたでしょうか。倒錯していると思われて、幽閉されるだけではないですか。もしそうなったら、娘のことは誰が守ってやれるのでしょうか……」


 オルトは静かな物言いだったが、ライラにはわかる。今の言葉はアルに深く突き刺さったはずだ。神や天使の存在を認めるわけにはいかないと宣い、神官を胡散臭い存在としか考えていなかった彼。そんな彼のもとにオルトが先の嘆願をしたところで、救いの手を差し伸べることはなかっただろうから。


 ライラはそこで、おや、と首を傾げた。


「でも、さっき黙示録を渡したのはどうしてですか? ずっと抵抗し続けてきたっていうのに」

「いつもならば私ひとりでカノアに応対していたので、危険な目に遭うのも私一人で済みましたが……今回は皆さまも、そして娘もいましたので。大人しく要求を呑んだほうが良い、と判断したのです」


 オルトからすれば、アルやキッドが再び教会を訪ねてくることは計算外だったのだろう。


「それに……先ほどカノアに渡した黙示録は、私が現役の神官だった頃に使用していたもの。言うなればお古です」

「……え⁉ あ、あれ、でも、『黙示録は先祖代々受け継ぐもの』って、言っていませんでしたっけ」


 オルトの言葉にライラは驚くがその傍らで、アルとキッドはやはり、と頷いている。


「つまり、それが嘘だったわけだ」

「見破っておられたとは……。さすがはアルヴィン殿下ですな」

「神官の職を退いて久しい人間が現役の神官を差し置いて、黙示録を携帯しているのは妙だと思ったからな」


 微笑む余裕ができたのか、オルトはすっと目を細めた。


「カノアがどんな目的で求めていたかはわかりませんが……黙示録は、神官の眼を引き継ぐ儀式の際に祝福の証として天より賜る、とても神聖なものなのです。相手がどんな存在であれ、現役の神官である娘の黙示録をおいそれと渡すわけにはまいりません。ですから、もはや何の機能も持たない私の黙示録を渡したのです。ただの時間稼ぎではありますが……」


 オルトから目配せを受けたエルフィは、懐から新しい装丁の本を一冊差し出した。


「これが、十五年前……私が五歳の頃に賜った黙示録だよ」


 促されるまま、アルはエルフィの黙示録を開く。けれど──、


「え……?」


 黙示録の中身を見て、ライラは目を見開いた。いや、何も見えなかったからこそ驚いた。そこには真っ白なページだけが広がっていた。昨日オルトに見せてもらった黙示録には、文字とは言えずとも直線や波線が記されていたはずなのに。


「私が引き籠っていたのは、カノアから逃れるため……だけじゃない。ずっとお祈りしていたんだ。神託が下りてきますようにとね」


 毎朝、毎晩、エルフィは教会で祈りを捧げた。けれど五歳の頃に神官の職を譲り受けてからというもの、ただの一度もエルフィのもとに神託が下りてきたことはなかった。


 最初は己を責めて、己の才能の無さを恨んだ。やがて神官という職を疎むようになり、しだいに神という存在そのものに不信感まで募るようになり……。


 そしてある日、気付いた。


「……神はいる、たしかに存在している。だけど、もうこの世界に興味を失くしたんだ」

「興味を失くした、だと?」

「何がきっかけかはわからない。原因なんてないのかもしれない。だけど、思い入れもなければ執着もない。この世界が神にとってはその程度の──どうでもいいものに成り下がってしまったのは確かだよ。神官に神託を渡さないっていうのは、そういうことなんだ」


 神官に神託を渡さないということは……何も人類に伝えるべきことがないということ。

 神はもう、この世界に干渉しない。何が起きようと起きなかろうと、手を差し伸べることはない。


 究極の無関心。


「新たな命がめったに宿らないのだって、そうだよ。じっくりと時間をかけて、私たちは静かに滅んでいくだけ。……もうこの世界に神なんていない。私たちは、神に見捨てられた最後の人類なんだよ」

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