張り詰めた空気に、ライラは息が上手にできずにいた。
国が、どころではない。この世界そのものがゆっくりと、しかし確実に滅んでいくのだと告げられたばかりなのだから。
受け入れ難い事実に、口を開くこともできない。
エルフィに代わり、今度はオルトが口を開いた。
「……カノアがなぜ黙示録を欲しがったのか、何に使うつもりなのか、具体的にはわかりません。しかし先ほどの彼の発言……『神様を殺すにはまだ、足りない』──天使だったカノアが、神を殺めようとしているのは確かなようです。その目的の達成のために、これからまだ“何か”を集めようとしている……黙示録はその一端に過ぎないということです」
「……わからないことだらけだな」
アルの自嘲めいたセリフに、オルトは真剣な声色で答える。
「もうひとつ確かなことがあるとすれば……カノアがこの教会に初めて現れたのは、十五年前でした。その十五年前に、天使の魂を脅かすほどの何かが起こったに違いないのです」
カノアの身に何かが起こった──それが
その数字に対して思うところがあったのはアルもライラも、そしてキッドも同じだ。
戦争が終わったのは十五年前。リームンヘルトの王都が砲撃を受けたのも、アルが羽根を手に入れたのも、自己治癒能力を得たのも。炎の海の中、幼いアルが赤ん坊を置き去りにしたのも……すべて十五年前だ。
けれどライラは口を噤む。なぜならアルが何も発言しないから。まだ、オルトたちが何か隠していないかと様子を窺っているようだ。
「十五年前か……。何か、思い当たる節はあるか?」
アルの問いかけにオルトは、「カノアと関係があるかはわかりませんが」と前置きした。
「黙示録には過去から現在、そして未来に至るまで、この世界で何が起こるのかが刻まれています。神官にとって最も重要なのが、未来史です。未来史を読み解くことで、神官は神託を得られるのですから。しかし十五年前……シグの砲撃が王都の下町を襲ったあの日のこと。私の黙示録に異変が起こったのです。本来起こるはずの、確定されたはずの未来史が何度も書き換わったのです」
オルトはこれまでそんな現象は見たことはなかった。先代の神官であった父からは、未来が書き換わることは稀にある現象だと聞かされていたけれど──だとしても異常だった。
未来史は何度も書き換わり、異なる可能性をそれこそ星の数だけ見せてくれたのだ。
オルトはその現象を目の当たりにして、なにか良からぬことが、想像を絶する恐ろしいことが起こったのだと恐怖した。
「なるほどな……。神官の職を……神官の眼を、ずいぶん幼い時分の娘に引き継がせたものだと思っていたが、そういう背景があったとはな」
オルトは、目尻を下げた。
「私は、焦っていたのです。恐ろしくもありました。正しい神託を手に入れることが出来なくて。きっと今代の神官に私は相応しくないのだと思い込んで。儀式を行うにはまだ早いとわかっていながら、まだ幼いエルフィに眼を引き継がせたのです。とんだ重荷を背負わせてしまうことになるとも知らずに」
オルトは未来史を読み取ることが出来ずに。そしてエルフィは神託を得られずに。国王の崩御を知ってもなお、神託を口にすることもできず……。
この親子は十五年以上もの間、誰にも相談することもできずにずっと悩んでいたのだ。
カノアの襲撃に怯え、命を守るために行動した結果、「引き篭もりの神官」が出来上がってしまった。
果たしてこれから先、この世界はどうなってしまうのか。静かにゆっくりと滅んでいくのをただ黙って見ていることしかできないのか。
(──そんなのは嫌だ)
ライラの胸の内で、最初に響いたのはそんなセリフだった。
里からようやく出られたばかり。アルと出会い、これからもっとこの世界のことを知っていけるところまで来ているのに。世界が滅んでいくのを知りながら、何もせず無為に過ごすことなんてできない。
なにか、なにか小さなものでもいい。手掛かりはないものか。事態を打破できるような。切り札になるようなものは──。
ライラは、所持していた純白の羽根を取り出した。それと時を同じくして、アルも羽根を取り出す。
「……アルくんとボクは、タイミングも場所も異なってはいますが、同じ羽根を貰い受けました。ボクはひと月ほど前です」
「俺は十五年前だ。“神官の眼”で見て、なにかわかることはないか」
エルフィはまず、アルの羽根を手に取った。
「……この羽根は、元は誰かの魂だったもの。血飛沫と炎が見える。穢れにさらされてもなお、清浄さを失っていない」
アルは諦めたように笑みを浮かべた。アルが羽根を手に入れた背景と、エルフィの見立てに矛盾が無かったからだ。“神官の眼”は本物だと認めざるを得ないのだろう。
次に、エルフィはライラの羽根を手に取る──わずかに眉根を顰めながら。
「これも、元は誰かの魂だったもの。深い森……いや、霧の深い渓谷が見える。とても神秘的な所だけれど……羽根はひどく淀んでいる。カノアが長く所持していた羽根だね」
ライラの目には、二つの羽根はまったく同じものにしか見えないのに。けれどエルフィの……神官の眼には、そう映らないらしい。
「アルくんの持つ羽根は清浄で、ボクの持つ羽根は淀んでいる……? それってつまり、アルくんを救ってくれた天使は、カノアとはまた別にいるってことでしょうか?」
「そうなるね。……あんたたちが羽根を持つに至った経緯なんて、私は訊かないけど」
ひとつだけ忠告しておくよ、とエルフィは真剣な眼差しでライラを見る。
「死告蝶のさっきの動き、見ただろ? 死告蝶は天使を追い求めている。早く天に昇りたい、救われたいと思っているから。羽根に変わってからも同じさ……。つまりその羽根を持っている以上、あんたたちは嫌でもカノアと再び巡り合うことになる。羽根がカノアを引き寄せるんだ」
そのセリフに、ライラは思わず己の白い羽根を掴む。
「……さっき見た通りだよ。カノアは危険だ、近づかないほうがいい。目的のためなら手段を選ばない。カノアの目的が神を殺すことなら……きっと神器を求めているだろうしね」
“神器”。聞き馴染みのない単語に首を傾げる。
「神器?」
「竜人族、狼人族、魚人族。三種族の長がそれぞれ所有している、神をも殺せる武器のことだよ。……それにしても噂は聞いちゃいたけど、本当だったんだね。『竜人族が滅ぼされた』とか、さっき言っていたけど」
はっと息を呑んだのは、ライラだけではなかった。行き着いた最悪の可能性に、この場にいる人間のほとんどが呼吸を止めていた。
「まさか……」
「カノアは『里を滅ぼす必要があった』と言っていたね。里を滅ぼしたのは、神を殺すのに必要な神器を手に入れるためだった……それなら辻褄が合う」
アルの琥珀色の瞳がまずはライラを、そして次にキッドを捉える。
「『神器』という言葉に覚えはあるか?」
「……あまり、聞き馴染みはないけど。里の中心に大きな社があって、そこでは槍が祀られていたよ」
「社も全焼してたけど、槍が見つかった、なんて報告はないわね」
ライラとキッドの言葉に耳を傾けて、アルは口元を手で覆う仕草を見せた。考え事をするときの彼のクセ。しかしその眼光は、いつも以上に鋭かった。
「里を滅ぼした際に、竜人族の神器はカノアが持ち去った。……となると次は、狼人族や魚人族も狙われる可能性があるな」
「えっ……どうして⁉」
「エルフィの見立てによれば、天使は少なくとももう一人いるらしい。仮にそいつがカノアと同じ目的で動いているとしたなら、神器を一つだけ調達して終わるとは思えない。可能ならば三つとも手に入れたいところだろう」
ライラは目を丸くした。そんな発想はまるで頭の中に無かったから。
アルがエルフィを見据える。そこにはやはり、凶悪としか形容できない笑顔が浮かんでいた。
「……神をも殺せると言うからには、その神器でなら天使であるカノアも殺せる……違うか?」
エルフィもまた、信じられないものを見るような眼でアルを見る。
「その通りだけど……あんた、まさか──」
「この世界を滅ぼそうとしている神と、その神を殺そうとしている天使。どちらに付くべきかは明白……普通なら後者だ。だが、神を殺したその先に何が待つのか、カノアが神を殺そうとしている理由もまた不明瞭な現状では、どちらに付くか決めるのは得策ではない──よって、俺たちがすべきことは一つだ」
──神器を集めることにする。
……その宣言に、その場にいる全員が目を見開いて、口をぽかんと開けてアルを見る。それに少しも怯むことなく、狼狽えることもなく、彼は続けた。
「カノアの次の目的が神器を集めることだというなら、俺たちが神器を先に手に入れてしまえばいい。そうすれば、カノアは自ずと俺たちのもとへ現れるはずだ」
「……カノアと会って、どうするの?」
「さて、まずは事情を聞かないことにはな。俺たちは今、まだ何も知らなかった頃からようやく第一歩を踏み出したところなんだ。……だが、何にせよ」
強い視線が、琥珀の色が、まっすぐに教会のシンボルを射抜く。
「この世界が滅ぶかどうかの命運を、神ごときに。見知ったばかりの天使に委ねることなど……俺には到底、我慢ならない」
強い光を放つ双眸に、彼から発せられた強い決意に、ライラは息を忘れた。
信じない、存在を認めるわけにはいかない、そう言っていた神の存在を、彼が認めた瞬間だったから。……それは同時に、彼が周囲から囁かれ続け、そして否定し続けてきた“呪い”の存在を認めることを意味している。
それすらも受け止めて、アルはなおも過酷な運命に抗おうとしているのだ。
(──なんて、眩しい人なんだろう)
そう思ったのは、どうやらライラだけではないようだった。ほとんど視力を持たないはずのオルトがまるで太陽を目にしたかのように、ぐっと上下の瞼を閉じる。
「……アルヴィン殿下……このような目でも、黙示録を持たずとも、わかることがあります。あなた様は必ずや、過去のどの王も成し得なかったことを、成し遂げることでしょう」