ジャノメイル教会の受けた損害は大きかった。
半壊した天井に内装。もはや教会としての機能を果たすのは難しいだろうと判断したアルとキッドは、オルトとエルフィの身の安全を考慮して、彼らを王都に近い小規模な教会に一時的に匿うこととなった。
オルトとエルフィは手配された馬車に乗り込み、ライラたちの見送りを受ける。
「エルフィさん、オルトさん。どうかお元気で……! シュシュのこと、いろいろ教えてくれてありがとうございました! それから……」
エルフィに手招きをして、ライラは彼女の耳にそっと耳打ちする。少し驚いたように目を丸くして、少しだけ思案顔をして……最終的に、エルフィの手元から“ある物”がライラの手に渡った。
走り出した馬車。大きく手を振るライラがだんだん遠ざかっていく。その無邪気さに苦笑いを浮かべながら、エルフィは改めて父親に向き直った。
「……父さん。本当に任せていいのかな、あんな男に」
「なぜだい?」
「……だって……アルヴィン王子は父さんの黙示録によれば、本来の未来史で──」
エルフィの言葉を遮ったのは馬車の揺れ。そして静かな、オルトの笑みだった。
「エルフィ、人は変わるものだよ。変わりたいと思った時。周囲の環境が変わった時。誰と共に在るかを決めた時……人は、変われるものだよ」
ちらり。遥か彼方、後方のライラをオルトは見やる。その目で姿は捉えられずとも、そこに魂の色がある。優しい色が見える。すべてを包み込むにはまだ幼い、けれどとてもクリアな魂の色が。
「私は信じることにしたよ。この世界から消えた神の御意志よりも、今この世界に生きる人の意志を」
神官失格かもしれないがね、と。オルトはまっすぐに前を向いた。
「……神官失格なのは、私の方だよ。……これまで生きてきて、今が一番、体が軽く感じてしまっているんだ。まるで、解放されたみたいに」
「──それは、手放したものがどれだけ大切なものなのかを、ちゃんと自分で理解している証拠だよ。……大事なものは、重たいものだから」
何年もの間、抱え続けてきた。常に懐に忍ばせて、祈りを捧げてきた。
エルフィにとって、もはや体の一部とも言えるそれは今……ライラの手に渡ったのだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
予定よりも一日遅れで、ジャノメイル集落を後にすることになってしまった。オルトとエルフィを保護するための馬車の手配が滞ったのが原因だ。
王都に向けて馬を走らせた頃には、既に日は落ち始めていた。
「今回の国への報告書は、どうしようかねぇ」
御者であるキッドの質問に、アルは半笑いで返す。
「……真っ正直に書いてみるか? 『天使が教会を襲撃しているところにたまたま鉢合わせた。ヤツは黙示録を奪った。神を殺すために神器を求めている可能性が高い。よって次に狙われるのは狼人族と魚人族だろう』ってな」
「あはは。敬虔で信心深い御仁にも、白い目で見られそうね。ましてや王妃殿下にこんな話題はね……」
キッドも乾いた笑い声。アルが真顔に戻ったのは、キッドの口から「王妃殿下」の名が出てからだ。
「アレは科学畑の人間だからな。もし包み隠さず報告でもしようものなら、一発で辺境に幽閉されそうだ。わざわざあちらに付け入る隙を与えてやることもあるまい」
「屋敷に帰ったら作戦会議しましょうかね。報告書の件はもちろんだけど……」
「ああ、特に狼人族の長とは早急にコンタクトを取る必要がある。どこにいるのかもわからん相手を探すんだ、カノアより後手になってはまずい」
しばらくして、ちらりと、キッドがライラを振り返った。
「あのー、ところで見間違いじゃないよね。ライラちゃん、手に持ってるのって……?」
「はい、黙示録です。エルフィさんから預かりました」
キッドは大袈裟ともいえるほどに驚嘆の声を上げる。
「い、言ってなかったけど、黙示録って国宝的なあれなんですけど……⁉」
「そうみたいですね。けど、エルフィさんから黙示録を預かるようにってボクに言ったのはアルくんなんですよ?」
「そうなの⁉」
ふう、と深い溜め息をついて、アルは瞼を伏せる。
「念のため、だ。どういうわけだかあれだけ敵意を剥き出しにしていたカノアが、こいつが前に出てきた途端に光の矢を引っ込めたのは見ていたからな。黙示録を所持しているのも、こいつが適任だと踏んだまでだ」
ライラはいつも持ち歩いているカバンの中に、黙示録を仕舞い込んだ。アルに託された使命なのだ、落としたり紛失したりでもしようものなら目も当てられない。
密かに使命感に燃えつつも、ライラはひとつの懸念に囚われていた。
「けど、カノアも遅かれ早かれ気づくよね。自分が手渡された黙示録が、オルトさんのものだって……。そしたらカノアはどうするんだろう。また、今朝の教会みたいにどこかで暴走するんじゃ……?」
「問題ないだろう。黙示録に関しては、カノアの目的は達成されたはずだ」
何度かまばたきを繰り返す。アルの言っていることの意味がわからなくて。
「どういうこと?」
「……話を聞く限り、カノアが交渉を持ちかけていた相手は、常にオルトだった。エルフィが神官を引き継いだのは五歳の頃だ。もし現役で使われている黙示録が必要だったなら、最初からオルトではなくエルフィに話を持ち掛けていたはずだ」
言われてみればそれもそうだ、とライラは納得した。
「もう使われなくなった黙示録に用なんてないだろう……なんてのは、神官の発想でしかない。俺には最初から、カノアにとって必要だったのはオルトの黙示録のほうだったとしか思えなかった」
……もし、そうだとするならば。カノアはすぐにでも次の行動を取ろうとするだろう。
魚人族、狼人族。二つの種族の長が抱えているという神器を、奪いに行くのだろう。
おそらくは、竜人族の里を滅ぼした時と同じような手段で。
(あれ? でも、誰にも姿が見えないはずのカノアなら、社の槍なんて簡単に盗み出せたはずじゃ? 里の皆の命を奪う必要なんて、なかったはずじゃ……?)
それに神官の二人はともかく、アルとライラにもカノアの姿を認識できるのは何故なのか……それは謎のままだ。
「……ダメだ、わかんないことが多すぎるよ……!」
「今ここで考えたって仕方ない。神器を先に集めて、直接カノアに問い質すしかないだろう」
どうやらアルも同じことを考えていたらしい。思わぬ思考の一致が嬉しくて、ライラの頬には朱がさした。
公務に支障が出てしまうので、明日の朝には城に着かなくてはいけない。馬車は王都へ向けて山道を進んでいた。その揺れに誘われて──膝の上で眠るシュシュの温もりも手伝って──だんだんライラの瞼は重さを増していく。
隣にはアルがいる。まだ彼と話をしていたい。明日から彼はまた執務室に籠もりきりになるのだろうから、食事を共に摂ることもなくなる。
だから共に過ごせる貴重なこの時間を、睡眠に捧げたくはない、のに。
「……おい」
深みのある声に、再び意識は覚醒する。
「は、はいっ!」
「眠いのか?」
「そんなことないよ! 全然余裕だよ!」
訝し気な琥珀の視線が突き刺さる。その目に見つめられると、ライラはもう嘘をつけない。
「……ちょっとだけだよ。ほら、昨夜はほとんど眠ってないし。今日はいろいろあったし」
アルは口数の多い人ではない。黙って、己の左肩を指差すだけ。
「? アルくん、肩がどうかしたの?
「違う。……貸してやる、肩」
ライラは目を見開く。アルが何を言っているのかを理解した瞬間、一気に頬に熱が集まった気がした。
「い、いいよ! そんなの、恐れ多いし……!」
「お前が頭をぐらつかせるたびに、壁に激突しないようカバーするのは面倒だ」
そんなことまでさせていたなんて知らなくて。ますますライラの頬は真っ赤になった。
肩を借りても借りなくても、どちらにせよ迷惑がかかってしまうのなら、それならばいっそのこと……。