「……本当に、借りちゃうよ?」
「そうしろ」
「……お、お邪魔します」
アルの左肩に、遠慮がちにそっと身を預ける。厚手のコート越しでも、彼の体温がほんのりと伝わってくる気がして。彼の息遣いを感じて。甘い煙草の香りが鼻をくすぐって。安心する香りのはずなのに、なぜか心臓はどきどきと主張を始めていた。
きっと、この世界が滅びゆく未来を一瞬だけ想像してしまったせいだ。これから先、神器を巡ってカノアとの衝突は避けられないのだろう。……そう思うと、こうしてアルと触れ合える穏やかな時間が、まるで宝物のように思えるのだ。
「ねえ。あのね、アルくん……」
声に張りが無いのは、自覚していた。もう少し、もう少しで夢の世界へ飛び込んでしまえそうだ。
「ご褒美くれるって、言ってたでしょ。あれね、ボク……もっとアルくんと、お話がしたいんだ」
「……何を話すんだ」
ふにゃりとライラの頬が緩む。こんな短い会話でも、こんなにも気分は浮上するものなんだ、と。
「なんでもいいんだ。アルくんと話してるだけで、ボクは嬉しくなるから。だから、ね。だから……ごはんも、一緒に……」
最後まで言い切れたかどうかは、ライラにはわからない。そっと意識を手放して、すべてをアルに預けて、ライラは眠りに就いた。
キッドは馬を操りながら、背後を振り返りもせずアルに問いかける。
「──『気が向いた』の? 今朝辺りから、ずいぶんとライラちゃんに優しいじゃない」
「別に……。ただ、功労者にはそれなりの褒美を与えて然るべきだろう」
「功労者?」
これだけの会話を連ねても、よほど疲れたのか、シュシュが見つかったことで緊張の糸が切れたのか。エメラルドの上下の睫毛は重なったまま、揺れる気配もない。
「昨夜……コイツの演奏を聴いていたら、いつもよりよく眠れた」
「あら、珍しいこともあるもんだね」
「昨夜だけじゃない。おっさんの家に間借りしていた時もそうだ。コイツが酒場で演奏をしていた晩は、気絶したんじゃないかと思うくらいだった」
キッドは驚きで、しばらく言葉を詰まらせた。
「……それは、驚きだね。アルくんが自分のお屋敷以外で、そんな深く眠れるようになったなんて」
夢でも見始めたのだろうか。むにゃむにゃ、と寝言を口にするライラに、アルの頬は僅かに緩んだ。
「……不思議なものだ。いるだけでやかましい、くっついてきて鬱陶しい。少し歩くだけでトラブルを連れてくる。コイツと一緒にいて、心安らいだことなんてないというのに。コイツの演奏だけは、嫌いじゃないんだ……」
アルが無口なのはいつものことだ。それ以降、会話が交わされることはなかった。キッドも、安全に王都に辿り着けるようにと注力していた。だから彼が
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「アルくーん。そろそろライラちゃん、起こしてやって……」
そう言って振り返ったキッド。
彼の視界に飛び込んできたのは、アルの左肩に体を預けるライラ。そして何より目を引いたのはその傍ら──ライラの頭に寄りかかる、アルの姿だった。ふたりが身を寄せ合い、安定した寝息を立てている。いまだ深い眠りに就いているようだ。
王都に着いたのだから今すぐに起こすべきなのだろう。けれど、その光景はあまりにも、アルにしては……アルとライラにしては貴重なワンシーンのように、キッドには思えたのだ。
「……もう少し、寝かせてやりますかねぇ」
再び馬車はゆっくりと動き出した。
まだ朝焼けの時間帯。貴族街を無意味に走る、馬車の姿を見た者は誰もいない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
ライラとアルが目覚めたのは、アルの屋敷に到着してからだ。今朝の分のお祈りが出来ていない、とライラは焦って馬車から下りていく。アルはアルで、なぜ自分が寝入ったのか理解できないと首を傾げる。彼らの様子を、キッドは微笑ましそうに眺めるだけ。
その日、屋敷での朝食を用意したのは当然ながらジュリエットだ。広いテーブルに並べられた、一人分の食事。とても美味しそうなのに、それだけでもありがたいのに、やはりライラはどこか寂しく感じてしまう。
「ライラ様。苦手な食材でもございましたか?」
「い、いえ! 糧をありがとうございます!」
おとなしく席に着き、未だに不慣れなカトラリーに手を伸ばしたその時。
「ジュリ。俺の分もここへ運んでくれ」
ダイニングルームに現れたアルに、ライラとジュリエットの二人ともが目を丸くする。
椅子に腰かけたアルが目で合図をすると、
「──かしこまりました。ただいまお運びいたします」
ジュリエットは頭を下げ、アルの分の食事を取りに行く。……彼女がどんな表情を浮かべているのかは、ライラとアルからは見えなかった。
ライラは信じられない思いでいた。これまでアルは自室でしか食事を摂っていなかった。その彼が、ダイニングルームにまで赴いて一緒に食事をしてくれるなんて。
「……スープが冷める。おまえは先に……」
「待つ! アルくんのごはんが来るまで待つよ!」
提案を遮る声は弾む。心臓は落ち着かない。知らないうちに、頬は緩む。
「ねえねえ、アルくん。どうしてダイニングルームに来てくれたの?」
「……覚えてないのか」
「え、なに?」
「…………何でもない。ただの、気まぐれだ」
運ばれてきた食事をアルが口にする。それに倣うように、ライラもぬるくなったスープに手を伸ばす。
(気まぐれ……。そっかぁ、気まぐれかぁ)
たとえ気まぐれなのだとしてもライラは構わなかった。アルがそばにいる、それだけでこんなにも──、
「すごく美味しいね、アルくん!」
「……ああ」
食事が何倍も美味しく感じられて。部屋が眩しいほどに明るく感じて。胸中はぱっと華やぐ。
ちょっとした言葉と仕草で、いとも簡単に心を揺さぶる。
(本当に、アルくんは不思議な人だ)
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
乱れたベッドシーツの上。入手した黙示録を胸に抱きしめ、カノアは鼻歌を興じていた。
口元は歪んだ笑みを形づくる。
(オルトの奴、うまく出し抜いたつもりでいるのかもしれないね。……カノアの目当ては、最初からこっちだったっていうのに)
そう、エルフィの黙示録に用はない。カノアは欲しかったものをようやく、手に入れたのだ。
「ライラ、もうすぐだよ。君のことは、カノアが必ず、すくってみせるからね」