ジャノメイル教会からライラ一行が帰還して、一週間が経つ。
その間、国中が大騒ぎとなっていた。「国王陛下の崩御」。それと時を同じくして、何者かの手により「竜人族の里が滅ぼされたこと」。この二つの大きな話題が、正式に国から発表されたからだ。
国王が寝たきり状態になってからは二十年近く経っており、復活は絶望視されていたことから、崩御に関しては比較的すんなり受け入れられた。
問題は竜人族の里のほうだ。
崩御の報と同時に、「竜人族の生き残り」に一票の投票権が与えられたことを新聞が報じていた。ライラの今後や身の安全を考慮してくれたのか、ライラの名前や年齢、性別を国は明かしていない。そのことがかえって、「竜人族の生き残り」に対する風当たりを強くさせた。
「疑惑の生存者」、「“竜人族の生き残り”は国によるでっちあげ説」、「国の今後を左右する一票が、正体不明の何者かの手に……」などなど。
竜人族の里の滅亡はカノアによるものだが、本人の自白以外に証拠があるわけでもない。天使がいたという証言そのものを信じてもらえない可能性は高い。
そういった背景から、竜人族の里を滅ぼしたのがカノアであるという事実は、ジャノメイル教会のオルトとエルフィ、そしてアルとキッド、ライラのみが知ることとなった。
ジャノメイル教会から帰還して一週間。新聞各紙が「竜人族の生き残り」について考察や憶測、果ては錯綜した情報まで載せたことで世間は賑わっていたが、記者に追い回されることもなければ誰かに根掘り葉掘り訊ねられるでもない。
特に大きな変化もなく、ライラはアルの屋敷で平穏無事に過ごしていた。
変化と言えるものがあるとすれば、一つだけ。
アルが、ライラと共にダイニングルームで食事を摂ってくれることが増えたのだ。
どうしても公務が立て込んで執務室に缶詰めになる時もあったが、だからこそライラには嬉しかった。まるでアルが、自分との時間を意識して作ってくれているように感じて。
この一週間が、ライラにとって忙しないものだったから余計に……。
シュシュを引き取る際に自分でエサ代を稼ぐと宣言したものの、ライラは国の行く末を左右する重要人物に当たる。国の監視下にある身分で、自由に働き口など見つけられるわけもなく。アルの屋敷でジュリエットの指導を受けながら、下働きに勤しんでいたのだ。
「ジュリエットさん、お洗濯が終わりました!」
「……ライラ様。アルヴィン様は執務室で公務をこなしておいでです。報告はたいへん結構ですが、もう少し控えめにお願いいたしますね」
「は、はい。気を付けますっ」
ライラが身に着けているのは執事の装い。働きたいと申し出たその翌日に、ジュリエットが用意してくれたのだ。それ自体はとても嬉しいことだったのだが、この衣服に身を包んでいる間、ジュリエットはとことんライラを「新入り」として扱った。
「次は掃除です、三階は初めてですね。バケツにお水を汲んでいただけますか?」
「はいっ」
彼女よりずっと背は低いけれど、ライラは自分が男性である以上、力仕事は請け負って然るべきだと考えていた。だから、両腕がバケツの重さにぷるぷると震え始めても、泣き言も弱音も口にしなかった。
最上階までバケツを運び終えると、燭台を綺麗に磨いて窓や調度品を拭いて……やることは山ほど。ライラは緊張していた。それもジュリエットの指導が厳しいから、ではなく。
「ライラ様、その壺は触れないほうが。あと10°傾ければ壁からナイフが飛んでくる仕組みになっております」
「ひっ⁉」
そう、屋敷に飾られている調度品の多くに、侵入者を阻むための罠が張り巡らされているのだ。すべてアルが考案し、設計士に仕込んでもらったものらしい。アルの屋敷は掃除中のミスひとつで命をも落としかねない、とんでもない絡繰り屋敷だったのだ。
(……これだけたくさん仕掛けがあるなら、外に通じる隠し扉なんかもありそうだな……)
出会ったばかりの頃のキッドが言っていた、「アルくんは自分のお屋敷以外では深く眠れない」。逆を言えば、「この屋敷でならアルは深く眠ることができる」。納得だ。これだけ万全のセキュリティがそこかしこに張り巡らされているのだから。
「ジュリエットさん。この部屋は掃除しなくていいんですか? 鍵がかかっていますけど」
ライラが指したのはこの屋敷の最上階、廊下の一番奥の部屋だ。
「そのお部屋の鍵は、アルヴィン様がお持ちです。整理整頓もご自身ですると仰って……合鍵こそ所持していますが、中に入るのは禁じられていますので。中に何があるのかは私にもわかりません」
「そうなんですか」
ジュリエットにもこの屋敷の内部で知らないことがあったなんて驚きだ。
いったいこの部屋の中には何があるのだろう、と様々な想像を繰り広げていた、その時。
「いたいた、ライラちゃん!」
肩で息をするキッドが、ライラ目がけて駆け寄ってきた。
「キッドさん、どうしたんですか?」
「どうしたのじゃないって~。ユークレース殿下とのお食事会! お迎えの馬車が来ちゃってるわよ」
「え⁉ もうそんな時間……っ」
焦ったライラは、足元に何があるか、など頭から吹っ飛んでいた。左足がバケツに当たったと思った瞬間にはもう、廊下には大きな水たまりが広がって──。
「……っご、ごめんなさい! 今すぐ布巾を取ってきます……!」
「ライラ様。ユークレース殿下とのお約束があるのでしょう? ここは私に任せてください」
「で、でも」
「ユークレース殿下をお待たせしてはいけませんわ」
「ほっ、本当にごめんなさい、ありがとうございます、ジュリエットさん!」
「ライラちゃん急いで! 服も着替えなきゃ!」
「はい!」
ばたばたと廊下を走るキッドとライラを、ジュリエットは笑顔で見送った。
残されたバケツと、廊下の絨毯に染み渡る灰色の水。小さな溜め息を漏らしながら床に膝をついた時だ。
「……苦労を掛けるな」
上から降ってきた声に、ジュリエットの肩が跳ねる。
「アルヴィン様、どうしてこちらに?」
「あれだけ騒がれては集中できるものもできない」
そう言いながら布巾を一枚手渡ししたかと思えば、アルもまた廊下に膝を付き始めた。
「アルヴィン様、おやめください。使用人の仕事ですよ」
「二人でやったほうが効率的だ」
ジュリエットは心得ていた。これ以上反論しても無駄だと。布巾を取り上げようものならアルはムキになって取り返してくるだろうことも。一国の王子と使用人が共に廊下を掃除している、あまりにも異様な光景。けれど誰が見ているわけでもないのだからと、ジュリエットは誰に聞かせるでもない言い訳を頭の中で繰り返した。
「あいつは、使い物になりそうか?」
「ライラ様でございますか? そうですね、とても素直ですし、飲み込みは早いと思いますわ。ただ、もう少し落ち着いてくだされば良いのですけど」
「ふ、同感だ」
そう言ってアルが微笑んだので、ジュリエットの手が止まる。これまでにそんな柔らかな笑顔を見せたことがあっただろうか、と。少なくともここ数年では一度たりとも、口角を上げたところを見かけもしなかったのに、と。
「ジュリ、どうかしたのか」
「え……あ、申し訳ありません」
「珍しいな、おまえが
そのセリフに、ジュリエットの笑みが固まる。けれどそれすら悟らせぬように、彼女はゆっくり口を開いた。
「そうかもしれません。まだ数回お会いした程度ですし」
「俺も調べはしたが、人格は申し分ないはずだ」
「ふふ。使用人の婚約者のことまでお調べになるなんて、さすがはアルヴィン様ですわ」
そんな会話を繰り広げているうちに、水浸しの廊下もあらかた元通りになっていった。
「アルヴィン様。お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした。本日の昼食は、どちらでお召し上がりになりますか?」
「執務室でいい。……アイツは、ユークレースの所にいるんだろう?」
「……かしこまりました」
アルが執務室に戻るその背中を、ジュリエットは静かに見送る。
踵を返せば、床の絨毯にまだ残っていた水溜りが、ぐしゃりと嫌な音を立てた。
「……まだ、こんなに濡れていたなんて」
雑巾が吸い込むその水は、ひどく濁って薄汚れていた。
「──なんて、汚い」
冷たい独り言は誰の耳にも届くことなく。ただジュリエットの心の中だけに、いつまでも反響していた。