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6-2.ライラと、ユークレース

 城内で行われたユークレースとの食事会は、滞りなく終了した。キッドとは別行動となってしまったのは心細かったが、アルの貸してくれた本のおかげで、テーブルマナーは事前に網羅できた。気安く接してくれるユークレースのおかげもあって、肩ひじを張らずにリラックスした、穏やかな時間を過ごすことができた。



 問題は、食事会が終わったあとのこと。


 彼の部屋へと導かれ、二人きりになった直後、ライラはユークレースにとんでもない要求をされたのだ。それはライラにとっては、目を見張るような内容だった。


 頬に添えられるユークレースの手が、顔を逸らすことを許さない。


「蝶々の君……心の準備はできたかい?」

「こ……困ります。そんなこと言われたって」


 とんでもなく高貴な相手だ。蚊の鳴くような声で、小さな拒絶をすることしかできない。


「恥ずかしがることはない……さあ、僕にすべてを見せてくれ」

「や……やだ、嫌、です」


 いよいよユークレースの大きな手のひらが、ライラの腰に回された。耳に息を吹き込むように、甘いテノールが囁いてくる……。


「なぜだい? この僕が、こんなにも君を強く求めているというのに……。さあ、服を脱ぎたまえ」

「だから……っ! 無理です!! 絵のモデルなんて無理ですってば!」


 ユークレースはライラのわかりやすい拒絶に、わかりやすく憤慨する。


「むー。まったく、何をそんなに恥ずかしがることがあるんだい。そこの台座の上で全裸になってくれるだけで良いのに」

「それが恥ずかしいから無理だって言ってるんですよ!!」


 ライラは滾々こんこんと説明した。竜人族には肌を晒す習慣がない。顔と手首から先までしか普段は露出しない。たとえ家族同士であっても、一緒に風呂に入ることはないほど徹底しているのだ、と。


「なるほどなるほど、そういう文化なら致し方あるまい……」

「や、やっとわかってくれました……?」

「然らばせめて! 服を着ている状態でもいいから君を描かせてはくれないか? 君を初めて目にした瞬間から、インスピレーションやらアドレナリンやらが洪水のように溢れて止まらない。その不思議な触覚ヘアーがそうさせるのだろうかっ!」

「こ、これは朝起きたらこうなってるんです!」


 渋々ながら、ライラは用意された豪華な椅子に腰掛けた。


「い、一度だけですよ、今日だけですよ!」

「ははは。まあ、そう固くならずにリラックスしたまえ。──ただし、動いてはいけないよ」


 キャンバスを挟んだ向こう側、ユークレースの灰色の瞳がライラを見据える。先ほどの軽妙な雰囲気は失せ、まっすぐな視線は真剣そのものだ。思わず背筋が伸びる。


 視線を動かすことは許されたので、豪華絢爛な室内を見渡す……ビビッドな配色に目がチカチカし始めたところで、ユークレースの背後に弦楽器が飾られているのにライラは気づいた。


「その楽器は、ユークレース殿下が弾かれるんですか?」

「そうとも。幼い頃からそれはもう弾きまくりさ。神は『芸術』と名のつく分野の才能を、余すことなく僕に与えてくれた。武術の才の代わりにね」


 そう得意げに話す彼は、ライラでもキャンバスでもない、どこか遠くを見つめているような表情だった。


「幼い頃はサイファーやアルも同じ先生からレッスンを受けていてね、兄弟三人で合奏をしたことも何度もあった。僕が弦楽器、サイファーは木管楽器、アルはピアノだ。──あれはとても楽しかった」


 アルと、ピアノ。あまり結びつかないイメージではあるけれども。


「ピアノといえば……アルくんの部屋にも大きいのがありますよね」

「ほう、そうなのか。てっきり、アルはもうピアノをやめたものと思っていたよ。今度聴かせてもらうといい。今でこそアルは武術の鍛錬にばかり傾倒しているようだけれど、先生からも腕前を認められていたんだ。プロにだって引けを取らないレベルだ、とね」

「そうなんですか……すごいなあ。聴いてみたいなぁ……」


 ユークレースの口ぶりから察するに、どうやら彼はアルの部屋に入ったこともないらしい。そして近況もまるで知らないようで……。


「……失礼かもしれないですけど。ひょっとして兄弟仲、悪いんですか?」

「ん? 悪くはない。が、決して良くもない。最近じゃ顔を合わせる機会なんて式典や評議会、御前試合の時くらいだ。公務を除いて直接会話をするのは年に三回あれば良い方か。かと言って目を合わせただけで、罵り合いや殴り合いが始まるわけでもない」


 なるほど、それはたしかに良くも悪くも無い。


「どうしてそんなことになっちゃったんですか?」

「自然に──と言うのは、あまりにも不親切だね。僕たち兄弟の輪から最初に外れたのは、サイファーだった。いずれ僕たちは王位を巡り争うことになる、と早くから察していたのだろう。共にレッスンを受けることも無くなり、僕やアルから距離を置き始めた。アルはアルで、五歳の頃に毒を盛られたことで人間不信に陥ってしまって……。僕が話しかけても避けるばかりで、取り付く島もなくなってしまった」


 ライラはユークレースの表情に注目していた。

 ──痛ましい。まるで毒で苦しむ幼いアルを目の前にしているかのように、悲痛な表情を浮かべている。

 ……アルはこれまで何度も毒を盛られていて、その犯人がユークレース陣営だと疑っているようだったが、ライラにはそうは思えなかった。もし本当にそうだとしたらユークレースのこの表情も台詞も、すべて演技だということになる。


 ライラの思惑の外で、ユークレースは話を続けていた。


「そんなわけで僕たちは血の繋がりがありながらも、まるで他人同士のような間柄になってしまったのさ。兄弟三人力を合わせて、この国をさらに美しく、一つにすることができたらと思っているのだがね……」

「美しい国……?」

「この国の誰もが等しく、明日の食事に困らない国のことさ。絵に描いたパンで胃袋は満たされない。明日の食事もままならない貧困層を、芸術では救えない。彼らを救うことができるのは、安定した働き口と社会保障の充実だけだ。……家業が没落したことで、犯罪行為に走らざるを得なくなった貴族の男を知っているから、余計にそう思うのだろうね」


 筆を持ったその右手で、ユークレースはまるで理想郷を描くかのように空間をなぞる。


「この国の豊かな土壌を活かしさらに国を発展させ、雇用の幅を広げる。教育にもさらに力を入れ、個々人の能力を引き伸ばす──まあ、出生率の極端に低い現状では、僕の言ったことはすべて理想論になってしまうのがネックではある」


 著しいまでの出生率の減少……。エルフィ曰く、それは神がこの世界を見捨てたからだと、興味を失ったからとのことだった。それをきっと、ユークレースは知らない。


(こんなに真剣に国の問題と向き合っている人もいるのに。神様はどうして、この世界を見捨てたんだろう……?)


 ライラの疑問をよそに、ユークレースは「よし」、と筆を置いた。子供のような無邪気な笑顔でキャンバスをひっくり返すと、ライラに見せつける。忖度でもお世辞でもない、その絵は「芸術」と呼ぶに相応しい出来だった。細かな陰影が濃淡でのみ表現されて、平らなはずのキャンバスに立体感を形づくる。今にもキャンバスから飛び出してきそうな……。


「まだ下書きの段階だが、どうだい?」

「……すごい、です。ボクってこんな表情してるんですか、本当に?」


 思わず両手で頬を包んでしまう。キャンバスの上には朗らかで屈託のない優しい笑顔。ライラは自分のこんな表情を、鏡でも見たことはない。


「アルの話をしていた時の君の表情だ。どうやら君は、アルにすっかり心酔しているようだ。ちょっぴり妬けてしまうね」


 心酔、だなんて。まるで恋でもしているかのような言い方だ。


「ボクはただ、憧れてるだけです」

「そうか、それは残念。それじゃ小さかった頃のアルの肖像画なんて、微塵も興味は無いのだろう。とても愛らしい姿をしているのだが!」

「小さかった頃のアルくん……!?」


 ライラの素早い反応に、ふふん、と得意げにユークレースは笑った。……引っかかったと思った時には、もう遅い。


「次回の食事会までに、アルの肖像画を探しておくとしよう。絵の続きも、その時に描かせてくれたまえ」

「は、はい。よろしくお願いします……あれ?」


 アルの肖像画を見せてもらうのを交換条件に、次回の食事会と絵のモデルの継続まで約束させられてしまったような。すべて、ユークレースの思惑通りに事が進んでいる、ような。

 まさかこれまでの会話のすべてが、計算づくだったとでもいうのだろうか。

 ライラの胸中の疑問に答えるように、ユークレースはぱちりとウインクをするだけ。


(あ、頭の良い人って恐ろしい……!)


 ライラは学んだ。食えない、というのはきっとこういう人のことを言うのだ。

 当の本人は追及から逃れるためか、自然にライラの視線を時計へと誘導し始める。


「おっと……もうこんな時間か。そろそろ行くとするかな。君も一緒にどうだい?」

「え?」

「おや、アルから聞いてないのかい? 今日は年に一度の御前試合──我が弟たちが、一年で一番輝く日さ」


 まあ、僕は年中輝いているがね!

 ユークレースはそう言って、豪快に笑った。


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