試合開始の合図の瞬間、一気に観客席は静まり返る。
何が起こったのかとライラが周囲を見渡せば、食い入るように会場に視線を送る観客たち。準決勝戦までの大きな声援は不気味なほどに凪いでいる……。
傍らのキッドも、いつの間にか右隣に戻ってきていたユークレースも、試合会場に視線が釘付けになっていた。
互いに剣を構え、対峙するアルとサイファー。微動だにしない二人の醸し出す空気を、声援で邪魔することなんてできない。そう思わせた。
……鳥肌が立つ。直接対峙したライラにはわかる。サイファーの纏う空気が、これまでとまったく異なるのだ。
どこにどう踏み込んだとしても、次の瞬間にはポイントを取られる。そんなイメージに囚われてしまうほどに隙が一切ない。アルよりも背の低く痩身のはずの彼。それがなぜか、ただ剣を構えているだけでアルよりも大きく感じてしまうのだ。纏う空気が──彼の発する殺気が、あまりにも巨大なせいで。
いつ、どちらから動き出すのか読めない時間が続く中、先制したのはアル。目にも止まらぬ早業、上段からの素早い振り下ろし。サイファーはそれをなんと腕で受け止めてしまった。先制ポイントはアルに加算された──が、次の瞬間にはサイファーの二連撃がアルの頭部と腕部に当たる。
ライラの呼吸が一つ終わるまでの僅かな時間で先制攻撃、防御とそれに伴うポイント加算に、逆転まで起きてしまった。
思わずまばたきを忘れてしまう。
サイファーの追撃はひとつひとつが重厚な音を響かせる。それだけ衝撃が大きいのだ。大きな衝撃を与えようとすればするほど、攻撃の際には大きな隙も生まれるものだ──本来ならば。
しかしサイファーは違う。まるで水が流れるように変幻自在に、花びらが舞い踊るように優雅に。アルに大きな衝撃を繰り返し与えながらも隙を一切見せない、そんな矛盾した戦い方を魅せる。
ライラも思わず呟く。
「……あんな戦い方をする人、竜人族でも見たことない……」
ライラは今日の御前試合を通して、やはりアルは強い、と。きっと誰よりもアルは強いのだ──そう思っていた。けれど、アルが反撃に転じようとしても、サイファーは簡単に防いでしまう。アルの思惑の一歩先をいってしまう。凌駕してしまう。
エキシビションマッチの折、サイファーと戦ったライラは痛感していた。おそらくこの人は、実力の半分も出していないな、と。
アルとの試合を見た今ならわかる。半分どころではない。ライラと戦った時に発揮していたのはきっと、実力の一割にも満たない。
アルはサイファーの攻めに対して防戦一方だ。点差はそこまで開いていないものの、反撃に転じる予兆も見られない。こんなにも苦戦しているアルを見るのは初めてのことだ。今までの彼は、自分よりも大きな体格の男性に対しても一瞬で勝利を収めてきたのに。
それでもアルは諦めていない。強く剣を握り直しサイファーに果敢に立ち向かっていく、その姿勢に躊躇は一切ない。防がれるたびに響く金属音に、ライラは拳を固く閉じる。
「がんばれ……がんばれ、アルくん……!」
試合の邪魔にならないよう、どうにか絞り出した声援。
しかし──、
「……試合終了です!」
無情にも五分が経過してしまった。大きな決定打と言えるものは互いになかった。けれど序盤に開いた点差が埋まることはなく……。
「第五八五回御前試合、優勝者は──サイファー殿下です!」
司会の高らかな宣言に、観客席がわっと沸き立つ。繰り返される、栄えある優勝者の名前。
会場には、疲労からか膝を折るアル。エキシビションマッチを終えたばかりの己と重ねてしまう。
兜を取ったサイファーには、勝者特有の笑みはなかった。汗一つかかず、疲労も見せない、涼しい顔がそこにはあった。
「……去年のほうが手応えあったよ?」
彼の声は、観客席にいるライラの耳にも届いていた。
「鍛錬、サボってたんじゃないの?」
「なっ……!」
何も答えないアルに代わり、ライラはつい声を漏らしてしまう。無論、怒りで。けれど傍らに座るユークレースは、豪快に笑うだけだった。
「はっはっは。煽るなぁ、サイファーは!」
その呑気さにも、ライラの腹の虫はますます暴れ出す。
それもそのはず。アルと出会ってから今日に至るまで、彼が毎朝の鍛錬を欠かしたことがないのをライラは知っていたから。ずっと見てきたのだから。
「ひどい……ひどい、いくらなんでも! アルくんはサボってなんか……!」
「ライラちゃん、落ち着いて。アルくんが負けたのは事実なんだから」
そうライラを諭すキッドの笑顔は引きつっている。自らの主君を揶揄されているのだから無理もない。
「それにね、蝶々の君。今のはただの意地悪なんかじゃない。アルがどう答えても、サイファーにとって有利に転ぶ質問なのだよ」
ユークレースは果実酒の入ったグラスを傾けながら、悠然とした笑みを会場に向けていた。
「『毎朝鍛錬を欠かさなかった』くせに、負けた。『鍛錬をサボっていた』から、負けた。アルがどちらを答えようと、『どんなに努力しても、アルはサイファーには敵わない』、『怠け者のアル』……どちらかの烙印が押されるだけ。それをわかったうえでの問いかけなのだよ」
「そんな……!」
「けれど、『はい』か『いいえ』……それしか答えがないと思い込むほど、アルだって子供じゃないさ」
ライラは落ち着かない気持ちで、試合会場のアルを見る。ようやく立ち上がった彼が口を開くのを、固唾を飲んで見守ることしかできない。
「……鍛錬を欠かしたことはなかった。それでも、俺が負けたのは事実だ」
その時、ライラは見逃さなかった。敗者とは思えぬほど堂々とまっすぐに、アルの琥珀の瞳がサイファーを射抜いたのを。
「しかし──次は負けない」
静かな声色のはずなのに、妙に迫力の籠もったそのセリフは、観客席の皆にはどう響いただろうか。
「へえ……次、ね。楽しみにしておくよ」
不敵に笑いながら、サイファーは会場を後にした。
表彰式会場の設営が、これから行われるところだ。アルもまた、サイファーに背を向ける形で会場を去っていく。それから後も、観客席のサイファーコールは鳴り止まない。この大合唱だ、きっと控え室のアルの耳にも延々届いていることだろう。
「ユークレース殿下。今のアルくんの答えって……」
「むう。ユーくんと呼んでくれと言ったはずだが……」
「あ、えっと。ユーくん、今のアルくんの答えが、正解……ですか?」
「模範解答と言えよう。少なくとも、『向上心が強い』という印象を皆に与えることはできたはずさ。……こうして観客席にいる僕なんかよりも、遥かに」
自嘲気味にそう言いながら、ユークレースは珍しいことに弱々しく微笑んだ。