ライラとキッド、二人の姿が消えてから、アルはようやく煙草を取り出す。マッチに火を点けたところで、まさか一服を邪魔されることになろうとはさすがの彼にも予想外だったのだが。
「……良い! 実に素晴らしいね!」
どこかの舞台袖から出てきたかのように、視界の端から堂々と現れたのはユークレースだ。「げ」と言葉にする前に、アルはマッチの火を消した。
「……ユークレースか」
「アル、久しいな! いやあ今年の御前試合も素晴らしかった! 弟二人がワンツーフィニッシュを飾ったことが、兄としてとても誇らしいとも!」
「そりゃどうも。用件は終わりか?」
いやいやいやいや、と隣に腰かけるユークレース。考えるよりも先に、アルは反対側に距離を詰める。こうもあからさまに拒否感を示してもなお、ぐいぐいぐいぐい距離を縮めてこようとする
「素晴らしいと言ったのはライラくんのことだってそうさ。あの忠誠心というか慕情というかには目を見張るものがあるね。まだ出会って間もないだろうに、ずいぶん懐かれているようじゃないか。まるで雛鳥が親鳥を慕うかのような! 小型犬が大型犬にじゃれつくかのようなっ!」
「うるせぇな、声がでけぇんだよ……」
苛ついた声色を出すも、ユークレースはふっと頬を綻ばせるだけ。
「……ライラくんの意を汲んで、何も知らないフリを貫き通すつもりだろう? 君も案外、そういう甘ったるいところがあるからねっ! お互い、いじらしいったらありゃしないじゃないか!」
「ケンカ売りに来たのか……?」
「とんでもない、なんなら感謝したまえ! 僕はつい先程、『成果を出した者には相応の褒美を』がモンブラン隊の流儀だったと思い出したのさ!」
胸を張り、高らかにそう宣言するユークレース。アルはひたすら頭上に疑問符を浮かべるだけ。
「……それがどうした?」
「昼間の食事会の後のことだ。『アルのピアノの演奏を聴きたい』とライラくんが言っていたことを、君に伝えに来ただけさ。……あとは言わずともわかるだろう? うまくやり給えよ、アル!」
現れた時と同様に、颯爽とその場を去るユークレース。アルはひとり、ようやく行き場を失いかけていたマッチに火を点けた。煙草の先端に灯せば、辺りに甘い香りが漂う。そして、困ったな、と。誰の耳にも届かない程度に独り言ちる。
もう何年も弾いていないし、部屋のピアノはインテリアと化している。楽譜の在処さえわからない。調律師を呼んだのだっていつが最後だったか……。
ピアノの演奏ではなく別の褒美を用意する、という手もあるだろうが。
しかし、先ほどのユークレースの助言めいた発言。何より、先ほどのライラの台詞や声色が、頭からなかなか離れてくれない。
「…………探しておくか、楽譜」
諦めたように呟く唇は、僅かに笑みを作っていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
屋敷の扉が叩かれる。ジュリエットは──少しわざとらしいほどに──明るく屋敷の主人を出迎えた。
「おかえりなさいませ、アルヴィン様」
「ああ」
アルがそう返答するとジュリエットは、表にこそ出さないが思考を止めた。
昨年と一昨年、それからさらに遡ってみても、御前試合からの帰宅時には、負けた悔しさからか険しい表情をいつも浮かべていたはずなのに。
今日の彼はそうではなかったから。
そして、
「アルくん! おかえりなさい、お疲れ様!」
出迎えるライラへの表情も、こころなしか柔らかく。
「ああ。……おまえもな」
……そう言って、また今朝のように僅かに微笑んだのを見てしまったから。
厨房では、甘い香りが漂っていた。
その香りの正体は、薪オーブンの中で焼かれていたのは────アルを元気づけようとジュリエットが丹精を込めて作った、彼の好物のアップルパイだった。