モアカンダー家は、由緒正しき従者の家系である。
王家のそばにモアカンダーありと囁かれるほどの、強い忠誠心と奉仕の精神。
モアカンダーに生まれた子供は一人の例外なく、幼い頃から「従者」としての教育を施される。
それも並大抵の教育ではない。
仕える主人の生活のすべてに関わり、命令されたことに「できない」などと口にしてはいけない。主人の命令は絶対で、何物より優先される決定事項なのだ。
それを負担に思うことも、主人の足枷になることも許されない。
「主人に仕えることこそが、最大の幸福」
……ジュリエットにとっては、物心がついてから毎日のように言い聞かされてきた言葉だ。
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毎朝の習慣だ。トラップが発動しないよう、ジュリエットは屋敷の調度品をピカピカに磨き上げる。
曇っている箇所に気づき、布巾越しに鏡に触れる。ふと長い前髪を掬えば、大きな古傷が露わになる。額から左のこめかみまで伸びる一筋の傷跡は、従者として最大の誇り。
……しかし一人のうら若き女性の顔としては、あまりにも。
「…………」
鏡を見つめていた彼女の耳に、聞き慣れた声が入ってきた。声の在処を探せば窓の向こうの庭園に、ライラとシュシュの姿が見える。どうやらまた何かの訓練をしているようだ。
ライラの性別は男の子だとキッドから聞かされてはいたが、最初は冗談なのではないかと思うほどだった。今だって半信半疑なくらいだ。
丸っこい大きな双眸に小さな鼻と唇。小柄で華奢な体型。さらには綺麗に伸ばされた翡翠色のロングヘアー。傷一つないきめ細やかな肌。ライラは一般的な「男性」像からは遠くかけ離れていた。
彼を男性と判断できる材料があるとすれば、せいぜい声くらいだ──とはいえ、言われてみれば女性にしては低いような、程度のそれ。変声期にでも素通りされたのだろうか。たしか年齢は十五才だったか。
「……私がこのお屋敷に来た時も、あれくらいの年齢でしたね」
無邪気に庭園を駆け回るライラを見て、ジュリエットはそう独り言ちる。
ジュリエット•モアカンダー。彼女がアルの屋敷にメイドとして配属されたのは、十年前。十四歳の時のことだった。
モアカンダー出身のメイドとして、必修課題を終えたばかり。不慣れなことも多く、最初は失敗の連続だった。
しかも仕える相手が、「呪われている」と噂される第三王子だったものだから、周囲からは「とんだ貧乏くじを引かされたものだね」なんて囁かれた。
「モアカンダーのメイドとして恥ずかしくない、完璧な従者とならなければ。呪われた王子様だろうが何だろうが、奉仕の精神を忘れることなく仕えなければ……」
まだアルと出会う前のジュリエットの頭の中には、それしかなかった。
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「忙しい」という理由で、アルは今日の朝食をダイニングルームではなく執務室で摂るという。ジュリエットからそう聞かされたライラは、
「お仕事なら、仕方ないですよね」
そう口にしながらも傍目にはわかりやすく落胆していた。アルが考案してくれた、「合図を出したら特定の人にのみ噛みつくように」する訓練も、だいぶ成果が出てきたと報告がしたかったのに。
それに最近のアルは自室か執務室に籠っていることが多く、顔を合わせる機会が減っていた。仕事の邪魔をしたくはないから、部屋へ訪問することもできない。
ジュリエットの用意してくれる食事は、初めて食べた時と同様に美味しい。芋を濾してミルクと一緒に煮立たせたらしいスープも滑らかな舌触り。胃の容量が許されるならいつまでも飲んでいられそうだ。
「ジュリエットさん、今日は何かお手伝いできることありませんか? 午後からサイファー殿下との謁見と、ユークレース殿下とのお茶会があるので、午前中ならお掃除でも何でもできますよ!」
「まあ。お申し出はありがたいのですが、大丈夫ですよ。今日は午前中に、モアカンダー家から後任の者が来ることになっています」
「……モアカンダー家?」
ライラが首を傾げると、ジュリエットは何度かまばたきをした。
「失念しておりました、説明不足でしたね。モアカンダーというのは私の生まれた家で、従者の家系なのです。モアカンダー家は代々、王家に仕えてきたのですよ」
「そうだったんですね。……あれ? でも、“後任”って?」
「文字通りですよ。今日は引継ぎ作業があるのです。私はもうすぐ、このお屋敷を去ることになっています。……次の春に、結婚するので」
ライラは驚いて、思わずスプーンを落としそうになった。
「け、結婚……⁉」
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厨房に入ることを許されたのは今日が初めてだった。毒の混入を防ぐためか普段は鍵がかけられていたし、ここはジュリエットのお城のようなものだと思っていたから。
ジュリエットが皿を洗い、それをライラは清潔な布で拭いていく。
「ちょっと早いかもしれないですけど……ご結婚おめでとうございます。その、誰と結婚するんですか?」
「モアカンダー家とは別に、従者の一族があるのですが……そのお方と。従者の家系が途絶えないよう、モアカンダー家に生まれた女性はその一族の男性に嫁ぐことが決められています。お相手は年齢こそ離れておりますが、とても優しいお方だと思います」
淀みない説明。けれどライラは不思議に思った。たしか結婚適齢期は二十歳前後だったはずだ。ジュリエットは二十四歳。嫁ぎ先が前から決まっていたという割に、数年ではあるが婚期が遅れているような──。
「……本当に優しいお方だと思います。私のような売れ残りをもらってくださって」
考えていることが、顔に出ていたのだろうか。ジュリエットがそんなことを口にするので、ライラは焦る。
「そ、そんな、売れ残りなんて……!」
「曲げようのない事実です。私、容姿が人より劣っておりますので」
何を言っているのだろうとライラは混乱すらした。ジュリエットほど美しい女性を、ライラは見たことがなかったから。
「そ、そんなことないです、ジュリエットさんはすごく綺麗ですよ! 初めて目にした時なんて、どこかの国のお姫様かと思ったほどで……!」
言いながら、ライラは頬が熱くなっていくのを感じていた。女性の容姿を褒めた経験なんてないものだから、こんな褒め方で良いのかもわからない。
けれどきっと、どんな男性だってジュリエットのような女性には好感を持つはずだ。……そうきっと、アルだって。
「ふふ。ありがとうございます。けれど……」
長い前髪を掬い、彼女はライラにそれを見せつけた。額からこめかみまでを走る大きな傷跡。真新しいものではない……きっと古傷なのだろう。歴戦の猛者の顔ならいざしらず、美しい彼女の皮膚の上にあると、よけいにそれは痛々しく目に写ってしまう。
時間にしてわずか数秒。彼女は前髪を下ろし、物言わぬライラに改めて向き直った。
「見苦しいものをお見せして、申し訳ございません。これまでも、婚約の話は何度か出ていたのですよ。けれど皆さま、この傷のことを知ると渋い顔をされるものですから……」
「……その傷って、生まれつきじゃないですよね?」
「…………」
「ごめんなさい、立ち入ったことを訊きました」
「いえ、いいのですよ」
ジュリエットの微笑み。それはこれまでに見た中でも、一番穏やかなそれだった。
「私がこの屋敷に配属されてからそう間もありませんでした。アルヴィン様の命を狙う輩が、屋敷に強襲をしかけてきたことがあったのです……」