ジュリエットは当時を振り返る。
月の綺麗な晩のこと。
夜襲を仕掛けてきた正体不明の誰某が、屋敷の内部にまで侵入したのだ。トラップが発動し確保できた者もいたものの、一人の男がアルの自室にまで行き着いてしまった。
当時のアルはまだ十二歳。成人男性に勝てるほどの力はない。外に通じる隠し扉から逃げ出したもののすぐに追いつかれ、庭園で倒されてしまった。
それを見かけたのがジュリエットだった。月の光を受けて、鋭利な凶器は今まさに振り下ろされようとしていた。殺されてしまう──、そう思うより早く、ジュリエットの足は駆け出していた。後から思えばその行動は無謀そのものだった。恐ろしかった。とても恐ろしかったけれど。その時は主君を失うことのほうが、よほど恐ろしく感じたのだ。
「……その時に、傷を?」
「アルヴィン様をお庇いする際にできた傷ですもの。名誉の負傷ですわ」
戸惑うライラに対し、そう堂々と言ってのけたジュリエット。しかし怪我を負った当時は、今のように前向きには受け止められなかったという。
主君を救うことはできた。モアカンダー家は総出でジュリエットを褒めそやしてくれた。自分は立派なことをしたのだ、モアカンダーのメイドとして、王家の従者として、正しいことをしたのだと。……そう思ってもまだ十四歳の少女にとっては、顔に跡に残る傷ができたことはショッキングな出来事だった。
仕事に打ち込もうにも身が入らず、そんな自分が嫌になり自己嫌悪に陥っていた、ある日。
「アルヴィン様が、私のためにピアノを弾いてくださったのです」
招待され、恐る恐るアルの自室に入ると、一番に目に入ったのはピアノ。わけもわからず促されるまま椅子に座ると、「好きな曲は?」とアルが問いかけてきた。
ジュリエットが素直に曲名を答えると、
「わかった」
と、アルは書類の山の中から楽譜を一冊取り出した。ジュリエットが彼とまともに会話を交わしたのは、この時が初めてだ。
十二歳。幼さの残る横顔。それでもジュリエットは初めて、自分よりも年下の少年のことを「綺麗」だと思った。
「アルヴィン殿下はピアノの腕も一流で……」なんて噂を耳にしたことはあったが、実際の演奏はミスタッチも多く、彼がこの曲を弾き慣れていないのは明らかだった。
それでもジュリエットは彼の演奏に聴き入った。彼が奏でてくれたのは、教会の結婚式でよく弾かれる曲。輝かしい未来を思わせる、希望の曲だ。
弾き慣れていない演奏を使用人に聴かれるなんて、きっとアルにとっては不名誉なことだろう。それでも恥を忍んで弾いてくれているのだ──自分のために。
十四歳のジュリエットはその時に思った。自分は“主君”を救ったのではない。今目の前にいる少年を、アルを救ったのだと。きっとこの傷は、ただの傷なんかじゃない。アルを救うための、名誉の負傷だったのだと。
「……ですから私は、アルヴィン様をお救いできたあの日の自分自身を、今でも誇りに思っています」
話を聞きながら、ライラは思った。
(そうか、ジュリエットさんは知らないんだ……)
アルはどんな怪我を負っても短時間で治ってしまう体質だ。それをきっと、ジュリエットは知らない。アルに固く口止めされているので、もちろんそれを話題になんてしないけれど。
「あれからもう十年も経ちました。けれどあの日、あの時のアルヴィン様の演奏は、私の頭の中でずっと流れたままです」
「……そんなに好きな曲なんですね」
「いいえ。愛しているのですわ」
そう語るジュリエットの目。初対面の時にも思ったことだが、まっすぐにライラを射抜く琥珀の瞳は、アルの瞳の色と酷似している。
彼女の目の色か、視線の強さか。口にしたセリフの重みか。どれが要因なのかはわからなかったが──そのうちのどれかが、ライラの鳥肌を誘った。
ジュリエットは普段から言葉遣いも丁寧で、落ち着いていて。しかし時々、視線に、言葉に、妙な迫力を宿す。
その「時々」が、「アルの話題を出した時」に限定されていることに、まだライラは気づいていない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
午後からは、サイファーとの謁見だった。
今回で会うのは二度目。初対面は御前試合のエキシビションマッチだった。ライラにとってのサイファーの第一印象は正直に言うと……良くはない。まともな会話を交わしたことすらないが、対戦相手のアルに対しての態度を思えば、彼の人間性に難があるように思えてならないのだ。近衛騎士隊のキャベルネ隊への印象が悪いのも助長して。
そしてその感想は、
「公約? ないよ、そんなの」
「な、ない?」
改めて正式に謁見を果たした今も、大きな変化はなかった。
通されたのはサイファーの執務室だったが、非常に殺風景だ。来客対応用のソファがテーブルを挟んで二つ配置されているだけ。けれど色素の薄い髪の色、透き通るように色白のサイファーには、華美な装飾よりもシンプルな作りの部屋の方が雰囲気には合っていた。部屋に二人きりというのが、どうにも緊張を誘ってしまうけれど。
ライラは初めて会った時からサイファーを不思議な空気感の人だなぁ、と思っていたが、その印象はますます強くなっていく。
まさか公約を確認した途端に、
「俺は公約なんてひとつも掲げていないよ」
そんな返答が来るなんて予想もしていなかったから。
「そ……、その、どうしてですか?」
「どうせ公約なんて掲げたところで、次期国王に選ばれるのはユークレースだろうし。勝てるわけもない戦いに身を投じたって、意味ないでしょ。俺は勝てる戦いにしか興味ないの。っていうか、なんていうかな。国政とかどうでもいいんだよね」
麗しい顔で、にっこりと微笑むサイファー。どうやら冗談で言っているわけではなさそうだ。
「そ、れじゃ、選挙には参加しないってことですか?」
「まあ、実質そうなるかな。近衛騎士隊の連中がどうしてもって言うから、形式的に名前だけは連ねてるけど」
「え……えっと……」
困った。話題がない。一国の王子との共通の話題なんてあるわけがない。アルともユークレースとも、ここまで長い沈黙で居た堪れない思いをしたことはない。ユークレースとの食事会の時と同様に、この部屋にはほかに誰もいない。つまり、助け舟を出してくれる人はいないのだ。
今更にして気付く。アルもユークレースもこれまで、やり方は大いに異なっていてもライラを気遣ってくれていたのだ。ライラが話題に困ることのないように。
サイファーにはそれがない。気遣いも労わりも。清々しいほど何もない。