ライラが固まった表情のまま口をぱくぱくさせていると、サイファーはふっと目を細めた。
「君だって、そうだろ? 俺じゃなくて、アルに投票するつもりでいるんだろう?」
「へっ⁉」
「うちの近衛騎士隊が言っていたよ。なんでも、御前試合の後で喧嘩を売ってきたらしいじゃない。『アルのことを話していたら突っかかってきた』って、ずーっとぼやいていたよ」
「あ、あれは『話していた』じゃなくて、『悪口を言っていた』って言うんです!」
思っていたより大きな声が出てしまって、咄嗟に口を押さえる。
(……どうしたんだろう。最近のボクは、なんだかおかしい……)
なぜこんなにも感情が爆発してしまうのだろう。それも決まって、アルに関することばかり。
目を泳がせるライラに対し、サイファーは表情を変えない。変わらぬ笑顔のまま。
「可愛いね、君は。仔犬みたいで。ものすごくアルに懐いているんだね」
……『可愛い』と言われたその瞬間に、褒められているわけではない、と直感的に悟ったからか。背中がぞっとしたのは。
「でも、それってどうして?」
「え? な、何が……ですか?」
「だってアルってほら、釣った魚に餌をやらないタイプでしょ。猫可愛がりするわけでもないし、どちらかといえば崖から我が子を落とす獅子タイプじゃん」
「え? あ、え?」
こんな短時間で犬や魚や猫や獅子が脳内を一気に駆け巡ったことで、頭がくらくらしてしまう。
その頭を、ぽふん、と。サイファーの手が撫でつけ始めた。本当に、突然に。
「アルはこんな風に、ちゃんと可愛がってくれてるの?」
御前試合の時とは異なり、優しい手つきだ。
サイファーに言われるまま想像してしまう。
もし、こんな風にアルに触れてもらえたなら……。
そこまで想像して、ライラはぶんぶんと首を振る。そんなの全然「友達」じゃない、と。それじゃまるで、動物に対するのと変わらない。ライラはアルのペットになりたいわけではないのだ。
「ア、アルヴィン殿下は、ボクにそんなことしません」
「……へえ? 想像通りだけど、同時に意外でもあるね」
隣に腰かけながら、膝がぶつかる程度に距離を縮めるサイファーに、なぜかライラの肩は小さく震える。それが畏怖によるものか、恐怖によるものかわからないまま。色素の薄い瞳と、至近距離で目が合う。
「い、意外ってどういうことですか?」
「君みたいな可愛い子から一途に思われて、なんとも思わない男なんていないはずでしょ? ましてや君は、国の行く末を決める大事な一票の持ち主なんだから。もっと構って可愛がって、ドロドロに甘やかしてくれてもいいのにね……。アルは君に、そうしないんだ?」
サイファーはそう言うけれど、「可愛い」だとか「甘やかす」だとか、そんな言い回しを使うのは妙だ。不自然なほどに甘さの滲む言葉選び……そこで辿り着いた、一つの可能性。
もしや、またも性別を勘違いされているのではないか。
「あの……ひょっとして、思い違いをされていませんか? ボク、男なんですけど……?」
サイファーはきょとん、とした。
「…………ああ、そういえばそうだったっけ。じゃあ、君がアルにあまり可愛がってもらえてないのは、そのせいかもね」
にっこり、爽やかな笑みを浮かべながら彼は続ける。ライラが何も反応できずにいるのを理解したうえで。
「さっきも言ったけどさ。普通、男って自分を慕ってくれる人を無碍にはしないと思うんだ。でもそれが同性からって考えたら、話は別…………引くよね、普通は」
だって、気持ち悪いでしょ?
直接脳に吹き込まれたかのように、サイファーの声は静かに、けれど確実にライラの視界を揺らす。深みのある声は、アルのそれによく似ていたから。
ライラは何度かまばたきを繰り返した。サイファーの言葉を頭はすんなり受け入れる。その代わり、心の反応が遅れた。
「……き……もち、わる……い?」
「うん、気持ち悪いよ。……あれ。自覚無かったんだ? ごめんね、本当のこと言って。でも取り返しがつかなくなる前に、知っておいた方がいいでしょ?」
サイファーの笑顔がぐにゃりと歪む。色素の薄い瞳には、動揺するライラが反射していた。
「心当たりないの? これまで一度も、アルに無碍にされた覚えはない? 冷たくされたことはない? 例えば最近、避けられている気がする……とかさ」
ゆっくりとした口調なのに、矢継ぎ早の質問。ライラは否定したかった。違うと言いたかった。けれど、アルと最近ほとんど顔を合わせていないのは紛れもない事実なのだ。
その原因が、サイファーの言うとおりだったとしたら。仕事なんてただの言い訳で、アルに気持ち悪いと思われていたとしたら……。
そんな可能性を振り払いたくて、サイファーに負けたくなくて、ライラはまっすぐに彼を見つめ返す。きっと頼りない目力でしかないだろうけれど、それでも。
「──む、無碍になんてされてません。なんでそんな、全部わかってるみたいに言うんですか……⁉」
そう言って反抗した瞬間……突然、サイファーから笑顔が消えた。
何が気に食わなかったのだろう。何が彼の機嫌を損ねたのだろう。
大きな手のひらが、ライラの首を押さえる。決して強い力ではないはずなのに、たったそれだけの動作で顔の向きが固定されて動けなくなることを、ライラは初めて知った──。
「……アルに構ってもらえなくて寂しいって、顔に書いてあるから」
ますます近くなる距離。
サイファーが自分に何をしようとしているのか。ライラにはわからなかった。想像することなんてできなかった。けれどそれがきっと、決して受け入れてはいけない類の行為であることを、頭の片隅では理解していた──。
コンコン、コンコン。
顔を寄せようとしたサイファーを止めたのは、小さなノックの音だった。
「…………はーい。どうぞー」
気だるげに応答するサイファー。彼が立ち上がるのと同時にソファが小刻みに揺れ、首が解放される。ライラはその時になってようやく、背中に冷や汗が流れていたのを自覚した。
扉の近くで交わされるやり取りにも、ライラはほとんど耳を傾けられないままだ。
「サイファー殿下、失礼いたします。ユークレース殿下の使いが、ライラ様をお迎えに上がったと申しております」
「……向こうの約束の時間には、まだ早いはずだけど?」
「は……私もそう返したのですが、『もし断られるようでしたら、次はユークレース殿下自らこの執務室に訪れることになる』、と……」
「ふふっ、なにそれ、超面倒くさい……。まあいいや。もう、話は済んだから」
含み笑いでそう答えるサイファーが扉を広く開けると、ライラに手招きをする。天の助けとばかりにすぐさま立ち上がると、どこか頼りない足取りでライラは執務室の外に出た。
「ライラ」
呼び止められ、反射的に肩が震えた。御前試合の時、互いに剣を交えた時とはまた別のベクトルで、ライラはサイファーを恐ろしく感じていた。
「今日は話ができて、楽しかったよ。またおいで。寂しくなったら、いつでもおいでよ」
甘く優しい言葉の響きとは裏腹に、
「さっきみたいに、たくさん慰めてあげるから」
冷たい余韻が常に、含まれている気がしたから。