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7-4.ライラと、アルの初恋

 サイファーの執務室を後にして、ユークレースの使いだという男性にライラはついていった。静かな廊下に二人分の足音が響く。

「あ、あの……サイファー殿下も仰っていましたけど、ユークレース殿下とのお約束の時間には、まだ早いですよね?」

 その背中に問いかけると、執事の装いに身を包んだ彼はまっすぐな姿勢のままに返答をくれた。


「ユークレース殿下はライラ様の御身を案じて、私を遣わせました」

「……どういうことですか?」

「『サイファー殿下は時々、人当たりが強いことがある。謁見の際には一人ではなく、常にモンブラン隊から付き添い人を要請するように。モンブラン隊の人手が足りないときは、ゼクト隊を伴っても構わない』……というのが、ユークレース殿下からの言伝でございます」


 何か起きるのではないか、と心配してくれたのだろう。実際、彼が遣いを寄越さなければどんな憂き目に遭っていたか分かったものではない。

 ……同性が同性を慕うのは気持ちが悪いと評しておきながら、なぜサイファーがあんなにも接近しようとしてきたのかがライラにはわからない。本能が危険信号を伝えてきたような気すらしたけれど。


 ──「気持ち悪い」──。


 あの言葉に、里で言われ慣れてきたはずの言葉に、ぐらりと気持ちが傾く。サイファーに言われたからではない。彼の声がアルに似ていたからだ。まるでアルに言われたかのように、頭が錯覚してしまったからだ。

 ライラはぶんぶんと首を横に振った。

 今後はユークレースの言う通り、サイファーと二人きりになるのは避けよう。そう心に誓った。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 ユークレースの自室に訪れると、目に飛び込んでくるのは相変わらずの極彩色。煌びやかな調度品の数々がライラを出迎える。

 そして部屋の中心には、

「やあ、蝶々の君。よく来たね!」

 調度品にも負けないくらい煌びやかな笑顔のユークレース。仰々しい彼の存在に、ほっと胸を撫で下ろす日が来るなんて想像したこともなかった。


「ユークレース殿下……じゃなかった、ユーくん、お招きいただきありがとうございます」

「うむ! 僕はとっても義理堅い上に仕事の早い男だからね! 早速、約束のものをご覧に入れようではないか!」

 彼がそう言って見せてくれたのは、ライラの身長ほどもある巨大なキャンバスだった。その中心には、深紅の髪の色をした少年がひとり──。

「……アルくん⁉ これが小さい頃のアルくんですか⁉」

「はっはっは、じっくり見たまえ穴が空くほど観察したまえ。バーハリー、紅茶の用意を!」


 先ほどライラをこの部屋まで案内してくれた男は「バーハリー」という名前らしい。彼の「かしこまりました」の返事が聞こえないくらい、ライラは目の前のキャンバスに目も意識も奪われていた。


 整髪料でも塗られているのか、深紅の髪はきちんと纏められている。正装に身を包み椅子に腰かけるも、足が地面に届いていないのがなんとも愛くるしい。

 笑顔ではないが、くりっとした琥珀色の目をまっすぐに向けているのがわかる。すでに利発そうな雰囲気が漂っている。


「これは、アルくんが何歳くらいの時なんですか?」

「五歳だね。僕が自ら描いたのだから間違いない」

「五歳……!」


 もはや「五歳のアル」という響きだけでライラの頬はにやけてしまう。あんなにも精悍で大人っぽい彼にも、こんな可愛らしい子供時代があったのだ。そんな当たり前のことになぜか胸がときめく。


「か、可愛い。アルくん、すっごく可愛い! なんだかもうボクより賢そうで可愛い……!」

 ライラの昂るテンションに、ストップをかける者はここにはいない。

「ふふん。そうだろう、そうだろう、我が末弟は実に愛らしかったのだよ。……かわいらしくも甘酸っぱい、アルの初恋エピソードなんかもあるが……聞きたいかい?」


 初恋。

 「アルの初恋」。


 以前にも一度だけ、彼の初恋の話題になったことがあった。あの時は「いちいち覚えていられるか」なんて言葉でごまかされてしまったけれど──。


「き、聞きたいです!」

「よしきた。紅茶を飲みながら聞くといい!」


 わくわくした気持ちでソファに腰かけると、ユークレースはゆっくりと語り掛けるように口を開いた。


「アルが初めて毒を盛られたのは、五歳の頃だったというのは聞いているかい? 毒というのは厄介でね。毒の種類が判明するまでは症状を緩和する対症療法にしか頼れないのさ。だからアルは何日もの間、毒の症状に苦しめられることとなったのだが……」


 症状が改善したと聞き付け、ユークレースがアルの部屋に見舞いに行った時のことだ。まだ幼いアルが、ぽつりとこんなことを口にしたのだという。


「寝かしつけ係の人が、とても優しくしてくれた、とね」

「寝かしつけ係?」

 ライラが首を傾げると、ユークレースがすぐに答えを教えてくれる。

「僕たち兄弟は王族だ。とはいえ幼い時分はただの子供でしかない。夜、眠る前に子守り歌を歌ってくれたり、物語を読み聞かせてくれたりする人たちがいたのさ」

「へえ、素敵ですね……物語に出てくるお母さんみたい」

「そうだろう。毒で苦しむ自分に、眠りに就くまで優しい言葉をかけ続けてくれた、ずっと手を握ってくれた。それがとても心強かった、とアルが言っていてね。そこで僕はアルに言ったのさ。『その寝かしつけ係の者の名前は訊いたのかい? 個別にお礼をしようじゃないか』とね」


 するとアルの返答は、こうだった。


「……『綺麗すぎて、緊張して、名前が訊けなかった』と返してきたのだよ。ふふ。……俯かせた顔を真っ赤にして、涙目で……あのアルが、くくっ」

 ユークレースはとうとう堪えきれずに、笑っているのを隠すのをやめた。とはいっても馬鹿にするような笑い方ではない。彼の目には、当時のアルが本当に可愛らしく映ったのだろう。


 そうか、あのアルが。いつどんな時でも人を見下し堂々とした態度を崩さない、あのアルが。

 頬を赤らめて、顔を俯かせて。きっと彼が褒めるくらいだからそれは美しい大人の女性に、心を奪われたのだろう──。


「……可愛い、ですね……ほんとに」

 ライラはほとんど無意識に、張りぼての笑みを浮かべていた。


 あんなに聞きたいと思っていた、アルの初恋のエピソード。それがとうとう聞けたというのに、どうして……どうしてこんなにも、胸が苦しくなるのかわからなかった。

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